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画家Kの自伝 第五章

復学

 

復学
春は、羅患以降ぐるっと一年まわり、再び桜の季節が巡ってきた。川上先生に、復学を相談すると、迷わず「頑張って行きなさい」と言ってくれた。

もう一度アパートを探し、頑張ろうと母と東京に行き不動産を廻った、不動産屋に紹介される物件は、どれも納得いくものがなく、収穫なく母と名古屋に帰ってきた。東京のアパートの家賃の高さや、再びの独り暮らしの不安から、家族と話し合い、結局新幹線通学することとなった。

取らなくていけない単位は、外国語と実技、卒業制作であった。
とりあえず、毎週通わなければならないのは、外国語のドイツ語であった。東京へは、授業当日、五時か六頃起きて、新幹線で日帰り通学をした。
自然食を始めると、睡眠時間が少なくて済む体質になるそうで、自分も、
早起きの習慣が出来ていて、早朝起きての通学は苦ではなかった。

ただ、不安発作はしつこく自分を襲い、通学中発作が起きたときは、頓服薬を飲んで公園の芝生に寝転がり凌いだりした。

当時は、大学四年生、自分は抽象クラスの宇佐美圭司先生クラスを希望した。

一年ずれた同級生も親しくしてくれて、学内でのバーベキューパーティーに誘ってくれたり、費用は教授が出してくれたり、僕は再び大学生活に馴染んでいった。

実技課題をもっていくと、宇佐美先生は、手の平をハンコウがわりにして描いた作品を観て「ジャスパーか?(ジャスパージョーンズ)」と言ってくださったり、紙に、宇宙空間を描いて、脇に「〇」を印した作品を観て「宇宙と〇は同じことだからな」と講評してくれた。

名古屋から頑張って復学している学生を、同級生も、教授も好意的に、優しく受け入れてくれた。

また、東京で飲み会とか帰るのが遅くなった日は、同級生がアパートに泊めてくれたりした。

苦しくも楽しい学生生活は再び走り出した。

 卒業制作・運命の出会い
やがて、大学生活も、卒業制作時期を迎え、自分は、自宅の自分の部屋兼、アトリエにて制作活動に入った。作品は、百号一枚、百号二枚組と描き、カーネルサンダーを描いたり、二つの円錐形が頂点の点で繋がっている画像や、四角い渦巻等、自分が体験してきたことが盛り込まれた作品となった。宅配便で油絵科学校教務室宛てに送り、後に上京した。

東京に上京し、ムサビに行ってみると、教務横の壁に自分の作品が立てかけられ届いていた。

卒業制作作品は各教室に作品を展示するのだが、この時に、隣クラスに行って、波長の合うとてもまろやかな感じのする女子学生と出逢う。

後に妻となる神崎ひとみさんである。(以下 ひとみ)

彼女に「パーテーションが上手くはまらないの」といわれ、どれどれと、見るとチョットずれてて、ストンとはめ、上手く展示出来ると、「有難う、僕、隣の宇佐美クラスのKといいます、宜しくね!」と暫く彼女と話をした記憶がある。まさかこの女性が、将来の伴侶となるとは、その時は少しも思わなかった。ただ、僕は、彼女がとても波長の緩やかな相性が合う女性だという印象だった。妻は、後に、出逢った瞬間の僕を『パーテーションのずれを一瞬で直し、「じゃあね!」と疾風ように戻ってしまったわ、なんてせっかちな人だろう』と感じたと語る。

大学の学内での卒業展覧会、卒展では、ドミニカもオーストラリア人の彼氏と駆けつけてくれて、僕は、自分の展示教室で、彼らと、デビッドボウイの名曲「SPACE ODDITY」を、うる覚えながら、一緒に歌たのを覚えている。

 卒業式には、母も上京し、ドミニカと三人で吉祥寺のオーガニックレストランで食事をした。ぼくは、何気に持参した「宇宙の秩序」(桜沢如一著)を、ドミニカに「僕もう必要ないから、君にあげるよ」と差し出すと、ドミニカもなぜか「私もいらないわ」との返事だったが、結局受け取ってくれた。そのとき注文したたこ焼きがとても美味しかったのを記憶している。

晴れて、武蔵野美術大学卒業ということで、両親も喜んでくれた。

両親には、大変苦労をかけた卒業だったので、今でも彼らには、感謝の気持ちで一杯である。

                                    

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