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犬吠埼キャンプ場のトイレを占拠する。そして、卵がゆに涙する。

大学1年生の7月にオートバイで京都の家を出てから約一か月半。

オートバイで日本一周を一筆書きする旅は、日本海を北上し、メインイベントの北海道一周を終え、東北の海岸沿いを南下しながら、房総半島に差しかかっていた。

雨の日にはユースホステルを使うことはあるものの、資金が限られている貧乏旅行だったので、基本はキャンプ場で自炊をする生活を続けていた。

犬吠埼からの夕陽を眺めたあと、千葉の最東端、犬吠埼のキャンプ場で、近所のスーパーで買ってきた豚肉とキャベツを味噌で炒めて、ビールのつまみを楽しむ。

そこまではどうということのない、旅の日常だった。

僕の犯したミスは、少し多めに買った豚肉を翌朝の朝食用に残しておいたことだった。

キャンプ場には冷蔵庫はない。テントや寝袋、その他もろもろを積んで巨大な荷物のかたまりとなったオートバイには、クーラーボックスなんてものは当然、積んでいない。

翌朝、朝食の豚のキャベツ炒めパートⅡをおいしくいただいたあと、腹ごなしに犬吠埼灯台までの散歩を楽しんでいた僕を、突き上げるような吐き気と腹痛が襲うだろうことは、火を見るよりも明らかだった。

そう。豚肉による食中毒だ。

犬吠埼灯台の遊歩道からかろうじてテントに戻った僕は、その日の昼過ぎまで、キャンプ場にある、トタン屋根の屋外トイレとテントの間を延々と往復するループに陥った。

8月半ばの射すような陽射しに炙られたトタン屋根のトイレは、健康な若者にとっても耐えがたい暑さである。
そこに、豚肉にあたって、胃の中のモノ、腸の中のモノ、汗となった大量の水分、を体からきれいさっぱり絞り出した身にとって、その暑さは控えめに言っても地獄である。

詳しい描写は差し控えるが、それは想像を絶するものだった。

1.ひとしきり便器の前に蹲ったあと、這いながらテントに戻る。
2.テントに着くか着かないかの間に、踵を返してトイレに駆け込む。
以下、1.と 2.を延々と繰り返す。

4,5時間は続いただろうか。
犬吠埼灯台キャンプ場のトイレは、ほぼ完全に僕に占拠された状態に。

そんな情けない状況下にあって、僕のそのあとの行動は、今思い出しても、自分を褒めてあげたい、涙ぐましいものだった。

近くの街の病院まで、オートバイで向かったのだ。

そう。救急車ではなく、愛車のオートバイでだ。

それというのもキャンプ場のスタッフの方が病院に事前に連絡を入れてくれ、親切に道順をメモに書いて教えてくれたから、スムーズにことが運んだので、誰の助けもなければ、あのトタン屋根のトイレの中で、旅の終わりを迎えていたかもしれない。

結果的には、本人の悲壮感とはほど遠い、軽症だったらしい。

お医者さん曰く、「疲れのせいだよ。ちゃんとご飯を食べて寝てれば治る」と。

大きなブドウ糖の注射をしてもらい、薬を持ってキャンプ場に戻るころには体調もかなり落ち着いていた。

キャンプ場に戻るとスタッフの方が、すぐそこの旅館に連絡しておいたから、今日はそこに泊まりなさいと。
その段取りをしてもらってなかったら、僕はその日もキャンプ場に泊まっていただろう。

そんな状況でも、一番の懸案事項である、素泊まりの宿泊料金をたずねることは忘れなかった。

それは、ビジネスホテルや民宿にも泊まったことのない旅で、【旅館】という言葉に過敏に反応した貧乏ライダーの悲しい性だった。

旅館に着くと、まだチェックインの時間前なのに、女将さんが部屋に通してくれて、お風呂まで用意してくれていた。たった一人の素泊まり客のためだけに。
この旅は、ほんとうにいろんな人に助けていただき、人の優しさに触れる旅でもあった。

お風呂で大きな湯船に一人浸かったあと、ふわふわの布団と枕で眠りについたのは、何週間ぶりだろう。
10時間以上はたっぷり眠ったと思う。

翌朝、部屋の電話の呼び出し音に目を覚ました僕に、電話向こうのおかみさんの声。

「おかゆ作っておいたから食べな。」

その言葉で布団の向こうの食卓を振り返ると、土鍋が目に入った。

土鍋のふたを開けると、湯気に包まれた熱々の卵がゆ。

長旅で弱っている時に触れる優しさは、ほんとうに心にしみる。

宿をあとにするとき、振り返った目に映った『旅館 潮苑』の看板に向かい、深々と頭を下げて、オートバイにまたがった。


この旅は、以下の沖縄編に続きます。


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