いとし
西向きの窓から注ぐ夕日は、薄いレースのカーテンを溶けるような赤に染め、私の顔に降りかかる。ある種の悪意すら感じる鮮やかな光に瞳が傷んで、私はそっとまぶたを閉じる。裏側に広がった橙色は、太陽の光と私の血液が交じり合った、生きている色。
「すごい夕日だ。」
五感の一つが閉ざされているせいなのか、耳元でささやかれた低く穏やかな声に、身体が敏感に反応する。自分の身体を押し付けるように抱きしめた長い腕が、私の身体に絡みつく。
まだほんのりと汗ばんでいて、触れられたら吸い付くような私の素肌は、何かを求めているようで恥ずかしい。彼から感じる体温は、私よりほんの少し高くて、背中に伝わる鼓動が、トクリ、トクリ、と私を響かせる。
身体を重ねた後のどっしりとした疲れが麻薬のよう支配している身体は、動くのがほんの少し億劫。足の指先にだけわずかな冷えを感じるけれど、背中に感じる彼の体温は、浸透するようにじわりと私の身体に流れ込み、私と彼の境目を失わせていく。
身体に絡まるその腕が、ほんの少し重くなったのを感じる。首筋に感じる呼吸が、深く規則正しくなり、彼が眠りに落ちていく気配は、ゆっくりと、でも確実に強くなっていく。
夢の中に沈んでいく彼を引き止めるために、腕の中で寝返りを打つ。彼の瞳が、私だけを映してくれる、このわずかな時間を逃したくはないから。
彼の喉元に見える、ぽこりとした膨らみ。男の人だけに存在するその仏様にすがるように、するりと指でなぞると、それに応じるように仏様は少しだけ上下に揺れる。その動きに合わせて、何度もなぞると、彼はくすぐったそうに笑いながら、私の動きを封じるように一層強く抱きしめる。安いスチールのシングルベッドがギシリと音を立てる。
「みくる」
咎めるような彼の声の奥に潜む、とろけるような甘い響きを、私は逃さない。鼓膜にピタリと張り付いて神経を刺激し、脳に届くまでにそれは、音ではなく媚薬に変わる。
世界で数える程しかいない、私の本当の名前を呼んでくれる人。その中でも、最も私の心を震わせるその声。二人で会う時だけ呼び捨てにしてくれることに、脳がとろけるほどの喜びを感じているのを、きっと彼は知らない。
今、この時間に名前をつけるなら。愛しい、ではとても足りず、幸せ、ではあまりに陳腐で。だからといって、他にどんな言葉も思いつかないけれど、でもきちんと名付けておきたいから。けっして忘れずに失くさないように、そして、けっして誰からも見つからず、汚されも壊されもしないように、心の奥底に、鍵をかけてしまっておくために。
鼻を押し付けた彼の胸からは、香水と汗の向こうに、塩素の香りを感じる。「若い頃よりはずっとたるんだよ」と照れたように笑うけれど、学生時代はずっと水泳部に所属し、今でも時間があるかぎりジムに通って泳ぐという彼の身体は、三十代後半を迎えた今でもカチリと引き締まっている。夏の日焼けをまだうっすらと残している健康的な肌は、するりとなめらかだ。
彼の目元でまつ毛がほんの少し揺れた後、うっすらと開けたまぶたの奥に、暗く深い色をした、美しい鏡のような瞳が見えた。
そこには、確かに、私が、映っていた。
それを認識した瞬間、身体の細胞を満たす液体にさざ波が立つように身体中がざわついて、指先が内側からシクシクと痛み始める。鼻先がツンと熱くなって、せり上がってくる涙が視界を霞ませていくから,彼の姿がゆるゆると揺らめく。瞬き一つすれば、溢れてしまいそうなほど不安定なのに、それでも頭の中は穏やかで、呼吸はゆっくりと深い。
この感覚の根源にある感情を言葉にして伝えることを、私は躊躇う。伝えることを疎かにする気はないのだけれど、空気に触れた瞬間から朽ちていってしまうのが怖くて、口には出せない感情があることを、彼に出会って初めて知った。
だから私は、彼に触れる。
冷えた指先で口角の緊張を確かめ、火照った唇をまぶたにそっと押し付ける。健やかな胸板に頬を寄せ、柔らかな素足を絡ませる。そこから伝わるものは、どこかあやふやだけれど、今、この瞬間も、私を響かせる彼のゆったりとした鼓動と、少しずつ上がっていく体温は、本物だから。
数時間前、彼に会った瞬間から返された目には見えない砂時計は、こうしている間にも、音もなくサラサラと砂を落として、残りはあとわずか。その砂の止め方を知らないから、せめて、最後のひと粒が落ちる瞬間まで、見逃したくはないのに、彼の身体から溢れてくる穏やかな眠りの気配は、私のまぶたも重くしていく。とろりと溶け出した意識は、夢と現の間を、ゆるゆるとたゆたい始める。
次は、いつ会えるの。
形を失くしはじめた意識の中で、言えなかった言葉は結束力を失くし、バラバラになって消えていく。すでに光を失った部屋は輪郭をにじませて、私の生きている証の色さえ、もう見えない。
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