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映画日記:リトル・パレスティナ―包囲下の日々―

たまたま、UNWRA(国連パレスチナ難民救済事業機関)から各国の資金引き上げが始まったタイミングで観ました。
2009年にシリアを旅行した際、この難民キャンプの存在を知らずに近辺を呑気に観光して、戻った後もその封鎖などにも恥ずかしながら全く気付いていなかったので、更に何とも言えない気分になりました。
今回もネタバレで感想などを書きます。

ストーリーの無いドキュメンタリー映画で、ひたすら封鎖されたキャンプの日々が展開します。中での生活のリズムをトレースしているような雰囲気もありますが、実際は更にいびつな時間なのでしょうね。
監督はこのキャンプ生まれで、UNWRAの仕事を得ながら、2013-2019年に映像を撮り続けたそうです。
撮影されたのはシリアのダマスカス県郊外にあったヤルムーク難民キャンプ、ゴラン高原の戦いよりも前、1957年にできた、当時最大のパレスチナ(便宜的に画数少ない方で表記します)難民キャンプだったようです。
シリアのヨルダン寄りに位置するので、ヨルダン経由でのパレスチナ難民の流入もあった様子。映画の中ではヨルダン経由で住みついたらしい家族の疎外感も描かれていました。
難民キャンプと聞くとテント生活が即思い浮かぶけれど、ヤルムークは歴史も長く人口も多かった為か、コンクリートの建物で生活が展開されていて、少し驚きました。一見すると自治区のような風景。
それなりに安定した生活になっていたところへ、シリアでは、2011年ジャスミン革命からの連鎖で「アラブの春」が起き、革命を警戒したアサド大統領による弾圧、混乱に乗じたイスラム原理主義組織ISの勃興などが次々押し寄せます。
わたしは、旅行した場所が戦地になったのは初めてで、ショックでした。写真を撮らせてもらった人の中にも犠牲者が出たかもしれません。後でISに支配された街にも行ったので。

周囲にISやヌスラ戦線の構成員が潜伏しているとして、ヤルムーク難民キャンプはアサド政府によりバリケードで封鎖されてしまう、そこから映画が始まります。
バリケードは歩いて越えることも可能な、瓦礫の小山のような形状で、実際デモ行進のように盛り上がっ拍子に越えて歩く場面もあったけれど、手ぶらで歩く彼らに対し銃撃が加えられ、押し戻されてしまう。
封鎖された街では時折怪我人や病人が運び去られ、死者の遺体は棺桶が無い為白い袋に詰められたままで掲げられ、嘆きの歌とともに葬送されます。
まれに援助が入るけれど、普段は1人の住民のボランティアが大勢の面倒を見る状況で、食料はいつ届くか分からず、お湯にスパイスを溶いただけのスープにも大勢が群がり、餓死者が出る状況だったようです。
主食代わりに草やサボテンを食べて凌いで。
https://www.afpbb.com/articles/-/3009500
https://jp.globalvoices.org/2015/01/12/33009/
そこへ頻繁にロシア+政府軍からの空爆があり、建物も壊される。
空き地でハーブを摘んでいる小学生くらいの女の子は、空爆を「怖い?」と聞かれ「心臓が一瞬止まった」と言う一方で質問自体を可笑しがって笑います。日常なので怖がるということにぴんと来なくなってる。
子ども達は将来の夢として、何を食べたいかを口々に答え、あとは家族や親戚に会いたい、外に出たいと、笑顔で答えます。見ていてたまらんです。
そういうのは、平和に暮らしていれば夢とは呼ばない。
同時に、諦めて無口な大人の顔になった子もいれば、怒りを能弁な言葉にして解き放つ子達もいて、一様ではない。
男達は、集まるとアザーン(お経を歌寄りにした感じのお祈り)を唱えるような要領で、状況を嘆き罵るラップとともに踊り出したりします。
彼らは押韻はお手の物で、言葉を操るポテンシャルが高い。
グラフィティ文化も発達していて、閉塞した状況ゆえのストリートカルチャーが花開いている感じがしました。そこには若干の救いを感じた。救いを感じる資格なんかない気はするけど。
内戦の時も思ったけれど、シリア人は、虐殺されながらでもブラックユーモアを発揮するセンスの持ち主が多いです。
そうは言っても毎日空腹だから、極端な正義感で興奮したり、自暴自棄でろくでもないこともしたり、ということも監督のナレーションで表現されていました。
ピアノが外に運ばれて、楽団の皆でピアノに合わせ唄う場面が印象的です。唄われていたのは、封鎖生活での歪んだ時間の進み方について。

アラブでは、男性が外で女性は屋内で働く、という封建的な役割分担の家庭が多く、キャンプでもやはり女性はどちらかと言うと余り映っていなかった気がします。そもそもムスリムの女性はカメラに映されたくない、特に男性が撮るのにはという人が多い。そこは少し残念に思いました。
少数宗派やクリスチャンの人達も存在が感じられなかったけど、居ただろうし、より孤立していたはずです。性的マイノリティや障害を持つ人達も。
映画の中に、1948年のナクバ(イスラエルの戦闘的植民によりパレスチナを追い出されたこと)を経験した老人の言葉が登場します。動くべきでなかったと。
一度で終わりでなく、そこを締め出して次はあっちへと、動かされ続けて来たのです。ずっと命の心配をしながら飢えて移動させられ続けるなら、本当に居たい場所に留まって死んだ方がまし。
それと同時に、いつどういう攻撃が受けるか分からず、たとえ突然解放されたとしてもその先が全くの空白であることへの恐怖も語られます。
改めて、ガザに留まり続けている人達の気持ちがほんの少し感じられた気がしました。(彼らはそもそも出ることすら非常に困難ですが。)
ラストの老人の英語の替え歌(炭鉱夫の娘クレメンタインの歌)も、現在を思わせる後味が残ってたまらなかった。最初に攻撃を始め住む場所を奪ったのはイスラエルで、それでもたいていのパレスチナ人は共存で妥協しようとしていたのに。

映像が無ければ、やはり伝わらず知らずで終わってしまう。見ないふりすらできる。
けれど、SNSで惨状が拡散されそれに晒され過ぎることで、1人1人の存在の重みも感じられなくなる、ということも監督は話されています。
アブドゥッラー監督は、映画を構成する才能のある人だと思ったけれど、彼の目的は単に映画を創ることではなく、映像を通じてシリアやパレスチナ難民の状況を変えようとしている。司法裁判への利用やアーカイブの構築など、亡命後も尽力されているようです。
状況が彼を思慮深くさせ映画監督にした。でも、彼自身のまとめすぎない編集能力というのもひしひしと感じました。
2022年2月来日時の公開インタビューの記録↓
http://www.projectwatan.jp/wp-content/uploads/2022/04/Fieldnote4_al-khatib_JP_20220420.pdf
映画と同じくらい情報の多い、素晴らしい語りだと思います。お時間あればぜひご一読ください。

ヘッダー写真は、ヤルムークではないけれど、2009年ダマスカスで撮ったもの。封鎖前のヤルムークは、ここに似た場所が広がっていたのではないかと思いました。



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