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読書日記:村上春樹『1Q84』

ネタバレ的に考察します。
普段小説を読む時は、分析抜きでただ物語として楽しむので、書きながら考えた部分が多くて、長くてしかも半分はヤマギシ会(農畜産業集団)の説明になった。
ユートピア思想と宗教と政治の関係についての考察、みたいになちゃった。
他の作品についても書いてるので、春樹好きの人なら楽しく読めるかも。


村上春樹が繰り返し小説に出すモチーフのひとつに、学生運動があります。
熱心でなくそれなりに参加した人が、その経験を未消化なた手放さず視野の隅にずっと置いているどっちつかずさ。それが彼にも同世代の日本人全体にも漂っているのを感じていた。

学生運動の挫折は、今の日本人の政治への無関心とポピュリズム政治の台頭に、繋がってると思う。
他国の歴史を参照すれば、運動が成功して共産主義国になってたら、日本も内紛外紛で多大な犠牲を払ったはずで、そうならずに済んだのは良かった。
けれど、いずれにせよ歴史の検証と反省は必須で、それを避け続けたことが現在抱えている日本の問題に直結している。

近年、日本赤軍や対立軸にあった三島由紀夫もそうだけれど、過激派に走って崩壊した思想運動が、ぬるっと批評なしに人気が高まって見える。
わたしは、現代にそれらをそのまま甦らせることに全くリアリティを感じず、しかし学生運動を経験していないから尚更どう捉えたらいいか困惑していた。
東京都写真美術館での『風景論・以後』展を見たことでも、困惑に拍車がかかったので、頭を整理する為に『1Q84』の感想をまとめようと思い立ちました。


『1Q84』を雑に要約すると、家庭内性暴力と殺人を巡るサスペンスであり、美貌の殺し屋のアクションがあり、カルト宗教の超能力も出て来る神話的ラブストーリーで、時空を移動するSFでもある。

エホバの証人二世かつ元運動選手で今は殺し屋の空豆という女性と、彼女の小学校の同級生で、塾講師の傍ら小説家を目指しつつもある少女のゴーストライターをやらされた大吾という男性が、苦難の末に再会し性交抜きの疑似処女懐胎で子どもを授かる物語。

大吾が原稿の手直しをしたベストセラー本『空気さなぎ』の原作者は、かつてカルト教団から脱出した子だった。
空豆は、その教団の教祖に当たる男を殺害するよう依頼を受ける。殺害に向かう途中、彼女は月が2つあるそれまでと似て非なる世界(=1Q84年の世界と空豆が命名)へと入り込む。その世界で教祖を殺害し、追手からの潜伏の最中に大吾と再会する。

一方大吾は、『空気さなぎ』をモチーフとした新たなオリジナル小説を紡ぎながら、NHK集金人だった病の父を看取る。病室にリトルピープルが現われ、空気さなぎを形成する。などなど。


初読時は借りて読み、NHKの集金人の子と宗教二世の取り合わせの妙が興味深く、わたしの元同級生にも2人エホバ二世の子がいたので考えさせられたけれど、オウム真理教事件をメインに書いたものと捉えていた。

これまで個人の物語主体で描いていたのが、現実に取材したテーマありきの物語を拵えたように思えた。そのせいで空豆の設定がアクロバティックだ。
物語が恣意的でかつ暴力的なのであまり好みじゃなかった。

そもそも春樹は女性を主人公に描くのに向いてないと思う。
エンデのモモのような性的に未分化で茫漠としたキャラクターならまだしも、強烈な自我のある大人の女性を主役に描くのは無理ではないか。
『冷静と情熱のあいだ』のように、女性作家と協働したら可能になるかも?

安倍氏死後の騒動を受けて、その半年と少し経つ頃、古本で買い揃えてゆっくり読み直した。
当然、登場する架空カルト宗教の変遷が気になった。

元学生運動参加者で作ったコミューンが、日本赤軍に酷似した過激派と、ヤマギシ会に似た農耕団体のふたつに分裂、赤軍似が山荘の銃撃戦で自滅、農耕側がオウムとヤマギシをミックスしたようなカルト宗教に変貌する。

農耕スピリチュアルが残った点とリトルピープル、そして家庭内暴力の組み合わせは、学生運動などの新左翼とと日本の現状とを初めて真正面から表現したんじゃないか、未消化だったモチーフがついに批評へと昇華されたのかも、と今回書きながら思った。


のちに『パン屋を襲う』にまとめられた「パン屋襲撃」+「パン屋再襲撃」でも、似たようなことを短編として書いている。

一度目の襲撃では、貧しいけど絶対働きたくない僕と相棒は、小さなパン屋を襲う。
強奪する予定を妥協して、共産党員である店主(=中国⇒日本が植民地化した国?)がワグナー(=ナチスドイツ)を聴くのに付き合うことと引き換えに、パン(=日々の糧)を手に入れる。
その時こっそり店主に呪い(=日米安全保障条約?)をかけられたらしい。
客のおばさん=イギリスで、2個買ったクロワッサンは、フランス&肥沃な三日月地帯⇒パレスチナ・イスラエルとか?

再襲撃では、お腹が空いたけど深夜レストランに行きたくなくて、なぜか強力な武器を持ち手慣れた様子の妻(=自衛隊?)とともに、そこだけ開いていたマクドナルドを襲い、ビッグマック30個(=アメリカナイズされた消費文化)を手に入れ、飢えを鎮めた。
30は何だろう?最後まで眠りこける客は民衆?

冒頭にあるように、二度とも選択したつもりで何も選んでいないし、呪いは継続するだろう。(あれ?ロシアはどこ行った?)

解釈無しで読むとシュールで愉快なので、お勧めです『パン屋を襲う』。
「象の消滅」や『図書館奇譚』も、たぶん何かの寓話なんじゃないかな。
春樹は短編中編にも、印象的なのが沢山あるんです。
特に動物が出て来たりするシュールなやつが、好きだな。


1Qでは、リトルピープルを入れ、より民衆への批評を切り込んでいる。
選んでいないと自分達に思い込ませながら、同時に、顔を消し空気を紡ぎ糸を引いてもいる。

未成年の巫女と教祖との性的秘儀をスピリチュアルでぼやかしてる風なのが、この小説の一番苦手でもやっとする部分だ。
それを含めた家庭内暴力が、作品の主要テーマを表していることは間違いないだろう。

男性性を自ら背負った男性に女性と子どもが付き合わされるパターナリズム(家父長的温情主義)を表現しているとすれば、ある程度納得できなくはない。ただ、それだけでは子どもが積極的なことの説明がつかない。

以前の小説では20~30代くらいだったゆきずりの女性を、今作で10代に変えたことは、彼自身の嗜好というより、アイドルが複数化若年齢化していくような、幼さ集団への従順さ健気さを求め消費する、日本の状況を描いているんじゃないか。
ジャニーズの件も思い起こさせる。

今作では家庭と社会(政治と宗教)の両面から日本を解き明しているはずで、家庭部分については、わたしがまだ読み足りない何かが隠されていると思う。


ヤマギシ会については、何か事件を起こした農耕コミューン、映画『八日目の蝉』に登場する「エンジェルホーム」のモデルらしいという、わずかな知識しかなかった。
映画で、行き場のないふたりを匿うけれど、別件で遺体遺棄が疑われ警察の捜査が入る、白服の農耕集団。

『1Q84』でヤマギシ・オウム側が残存することにひっかかりを感じ、米本和広さんが身分を明かして入会前合宿を体験して書いた『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇(文庫改定版)』も読んだ。
洗脳体験レポートという意味でも、非常に興味深い本だった。

米本さんは統一教会関係の著作もあり、山上容疑者が事件を起こす直前に手紙を送ったジャーナリストとしても知られている。
実際に体験しかつ批判の先陣に立ったような人だから、信頼されたのかもしれない。

以下、『洗脳の楽園~』からの参照を中心にwikipedia他で検索したことも加えて、ヤマギシ会について書いてみる。


幸福会ヤマギシ会は1952年に山岸巳代蔵によって創始された。
かつては三重県が本拠地で、実顕地と呼ぶ世界最大規模のコミューンかつ売上日本最大の農畜産業法人を擁していた。刑事事件や裁判等を受け最盛期より規模縮小はしたものの、変わらず活動を続けている。

現在の本部事務局は東京都町田市。津市の豊里ファームなど対外向けの直売所やネットストアも経営。
現在も、海外にも実顕地を持っているし、実顕地の内外に会員を多数抱えている。2013年には、農業組合法人売上ランキングが日本一、総会員数が5万人ほどいたらしい。

細かい教義や神を持たないので、厳密に言うと宗教ではない。
ヤマギシズムの影響を全世界へ波及する「Z革命」を目標とする農耕コミュニズム集団で、無農薬のイメージで売り出していたが農薬は普通に使用。

鶴見俊輔や船井幸雄が肩入れして、思想界他でも一定の支持を得ていた。
フォークシンガー岡林信康も入会前合宿を体験しており、その直後「申し訳ないが気分がいい」を発表したそうだ(「どうしてこんなことに気づかなかったのか」など歌詞がいかにもそれっぽい)。

1998年、広島県弁護士会による児童虐待の告発とヤマギシ会の小・中学校設立申請を受けて、三重県がヤマギシ会に所属する全小中学生への大規模アンケート調査を行い、広範で日常的な児童虐待が発覚した。
(現在の状況は分からないけれど)親とともに入村した子どもは親から離され、世話役以外は子どもだけで住む集団生活を行い、外で義務教育を受ける傍ら過酷な労働も行っていた。
学校へは保護者として学園の世話係が登録されていた為、先生が子どもの様子を心配して親か祖父母と連絡を取ろうとしても、その連絡先すら不明な場合があった。幼児期に家を離れた子は、住所などを忘れている。

宗教でなく農業主体で、何より対外事件の規模が小さく見えたこと、財産返却などの裁決に応じられたこと、知識層に受け入れられていたことなどが、ヤマギシ会が生き残った理由ではないかと思う。

曖昧なイズムと農業の組み合わせは、不思議と国家神道に重なって見える。

特別講習(入会前合宿)は一生に一度だけ受ける。
初対面の人と2人組で布団を使うなど、寝にくい環境を作り、時計も回収し時間感覚も取り上げる。答えだけ有り解き方のない禅問答を繰り返す方式により、自我を徹底的に揺さぶる。
米本さんも、影響されてないつもりがおかしくなったと書いている。斎藤環医師の指摘によると、自我の揺さぶりにより精神の解離状態が起きる。
怒りや欲を手放す悟りに似た状態で、当初は多幸感が沸いて色んなことが気にならなくなる、しかし社会生活に戻ると多幸感が薄れて不安になる、らしい。

教義の骨子は、我執を手放し絶えず話し合って、正しく行動すること。
ガチガチの教義でなく曖昧な共産主義ユートピアのイメージを共有する。
一見問題なさげ、色即是空な禅思想風に響くものだが、命と財産を投げ出すようにとも言う。それらの所有に拘るのは我執のせいなので、手放した「自他一体」を目指す。

結局、大規模テロ事件は起こしてはいないものの、なぜそれができない・失敗したの?(=やれ)と総括で詰める点は、学生運動の主体となった過激派とそっくりだ。

ヤマギシ会では、例えば貼り紙に「〇〇禁止」と書かずに「○○しません」と書く。自己決定を尊重する態でも、結局禁止していることに変わりない。
そこまで分かりやすくなくても、「わたしならこうする」とソフトに言いながら、そうしない誰かを非難している風になってしまってるの、よくあるよなぁ。(ただ純粋に自分の意見を言うのって難しい。)

自我を投げ出して「ここは楽園」との刷り込みを信じれば、財産を供出し貧しい食事で労働して子どもと会わなくなっても、自分のものという考えが消えるから疑問が生まれない。

夫婦はお互いを束縛しない。
子作りが推奨され、男性が30~40代女性が20代での結婚が理想として、各自結婚相手をあてがわれる。何事も話し合いで決まり、断ると話し合いが終わらない為、会に残るなら受け入れる以外の道があまりない。
入村者は圧倒的に女性が多い為、夫側が夜に他の女性に会いに渡り歩き、取り残されて精神を病む女性が多かった、優生思想的で、会による出産統制が行われていたとのこと。

女性信者が多いことは、女性が実社会で悩み多く寄る辺が無いからでもあるだろうけれど、宗教などに入信してもその状況が追いかけて来るわけだ。

創始者の山岸巳代蔵による教義が曖昧なのは、個人の思考力と徹底した話し合いでの協働を想定していたからでもあり、出発点は純粋なユートピア思想だったようだ。
しかし、固定的な集団は序列を形成せざるを得ない。
お金がいらない世界をうたっても、会の外は資本主義のままだから、外とのやりとりを続けざるを得ず、当然お金が必要になる。
資本主義的な農業経営となり、児童労働も駆使してノルマ達成が測られるようになった。
実顕地への入村を勧められるのは、資産のある者が中心だったらしい。


箱舟のように、必要な種類の職業人と植物や道具を予め選別して中に入れることにしたら、あるいは完全な自己完結ユートピアができるのだろうか?
しかしまあ絵空事だ。

正義があまねく行き届く世界を創るというアイデアは、一聴すると良さそうに聞こえても、要するに全体主義に帰結する。はみ出す自由が許されなくなる。
左右や宗教の別に関わりなく、理想を突き詰めて現実の集団に反映しようとすれば、個人じゃなくシステム(外壁)の方を守るようになり、ユートピアのつもりのディストピアが出来上がる。
イスラエルの場合、反面分を一気にパレスチナへ押し付けてるわけだ。
あ~あ、世界平和、願っても実現しない夢な気がしてしまう。でもそれも完全に諦めたら最後とも思う。

ヤマギシズムの殆どは、個人的に一人で実行すれば、それほど問題は起こらないだろう。他人を巻き込もうとするから、破綻する。
そもそも、集団とは個人を犠牲にして成立するものだ。
個人の犠牲をどこまで良しと線引きするかが問われる。

移動や所有や意見表明、そして職や恋愛を制限したら、どこかで崩壊する。戦後日本は、微妙なところで崩壊への一線を回避してきたけれど、今後もずっと逃れられるかは分からない。

米本さんの本で、ヤマギシ会からの逃亡した子が「うまく言えないけど、怒りがあるのは、それが必要だからじゃないか」という風に言ってるけれど、慧眼だと思う。
自我を手放せば、正義を名乗る者にいいように使われる。
苦しくても手放さずに自分でコントロールするのが、自分に責任を取れる大人になることではないか。

悟ると言っても、名高い宗教家は、自分でやりたいことが決められなくなることはないし、普段は自由気ままにやっている一休さんのような人も多いように思う。
欲を消すこと=幸せでも悟りでもないのだろう。

自分で決めて正解を選んだかのように思い込ませ、信じることだけが問題が解決する状況を与えるのは、どの宗教も、いや政治も採る手法だ。
信じると迷いは無くなるけれど、迷いは本当に全て手放して良いの?

山岸巳代蔵による漠としたイメージの形成、そのぼんやり光り輝く何かいいものというイメージが、どうも様々な人を惹きつけるポイントになっているのでは、と米本さんも書いている。

理屈でなく感覚で良さそうだと思わせ、信じて実行すれば健康な生活を送れるのではないかという願いを吸い寄せる、ナチュラル系スピリチュアルの持つイメージの力や、ニュースを見出しだけ見てよく分からないけど良いはず・悪いはずだと反応するのも、同じことではないか。

コロナ禍前後で蔓延している陰謀論も、構成員それぞれが思い思いに膨張させていて、曖昧なイメージの持つ説明のつかない牽引力を感じた。
余白を致命的不安要素と受け取る人々は、それぞれに即した妄想で隙間を埋め、いびつな物語を拡散していく。

現代人は、大きく複雑な物語の共有が、そもそも出来なくなっているのではないか。
大勢を惹きつけるのに、物語の一貫性や方向性はもはや不要(或いは邪魔)のようだ。


『1Q84』に戻る。

神秘の手助けをするリトルピープルは、たぶん「TVピープル」の進化系、社会を動かす空洞(空気さなぎ)を紡いでいる、要するに日本の民衆をキャラクター化したものではないか。
河合隼雄が唱えた「中空構造」に似てると思う、読んだことないけど。

パシヴァとレシヴァからの霊もしくは性的エネルギーの受け渡しは、被支配層から支配層への権力委譲の相互作用にも思える。
精子の動きとは逆に、女性が能動的に男性へと受け渡していて、そこには「物語」(=因習や神話?)が介在する。

ふかえりが語り手で書き直す大吾がいる関係性は、古事記での稗田阿礼と太安万侶も想起させる。この物語で春樹は神話の再構築を目指したようにも見えるから。

春樹はギリシャ神話を好んで引用する人でもあるけど、わたしは児童書で一二度読んだ程度で、そっちとの類似は特に気づかなかった。
チェーホフやシェイクスピア、ニコマコス倫理学に平家物語に『サハリン島』と、引用元のほとんどを読めていない。まあいいか。
パシヴァやレシヴァ、マザとドウタについてはもっと複雑な引用があるのかもしれない。
空の月が増える意味も分からなかった。

『ダンス・ダンス・ダンス』のメイに似たあゆみの役割が、うまく読み解けない。『アフターダーク』の売春婦、『ノルウェイの森』のレイコさんも似ている。春樹が繰り返し描いているモチーフのひとつだ。
『ノルウェイの森』の緑に似た看護婦が登場して大吾とセックスするけれど、彼女の役割もよく分からず。
教団から消えたドウタの1人と解く説もあるみたいだけど、地方で働く女性としてそれなりにリアルな存在に思った。家庭と地方衰退の犠牲者とも言えるけれど、主体的で自我とユーモアを持ってもいる。

タクシーのステレオでヤナーチェク『シンフォニエッタ』が掛かっている時に時空の移動をするのも、意味ありげだ。
チェコスロバキア陸軍を想定して作られた軍楽曲で、「ファンファーレ」「城塞」「修道院」「街路」「市庁舎」の楽章で構成されているらしい。
城塞が教団施設、修道院がDVシェルター、街路が高速道路、市庁舎は病院、とこじつけられなくもない。

NHK集金人は、本来存在しなくていい形態のブルシット・ジョブで、身をすり減らし無感情化するサラリーマンの隠喩に見える。
実際の集金人がどんな経歴を持ち普段何を考えている人間か、集金される側も雇う側も誰も知らない、それでこんなに非現実的な人物に描かれているのではないだろうか。
ねじまき鳥と共通して出る牛河は、NOを言わず、割り切って厄介ごとを引き受けて悪の手足となる、小役人の化身みたいなもの?

『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君とメイとキキの関係、『ねじまき鳥クロニクル』の妻と義兄の関係、『海辺のカフカ』の佐伯さんと幼なじみの関係、『アフター・ダーク』に出て来たテレビの向こう側へ行く顔の無い男と姉、或いは売春婦を殴打するサラリーマン、『スプートニクの恋人』のミュウと観覧車から見える男に消えるすみれ、「TVピープル」。
『神の子どもたちはみな踊る」と「UFOが釧路に降りる」。
たぶん全部が『1Q84』と同じテーマを繰り返し描いている。

ねじまき鳥も1Qも、最終的に暴力を暴力で解決している。
物語の中では個人対個人の暴力として書いてあるけれど、パターナリズムとそれに支えられた今の政治体制を破壊することを指しているのだろう。
春樹は古い世代らしい偏見をそれなりに身につけた男性だから、その破壊を曖昧にしか描けないのではないか、逆に曖昧だから一般に受け入れられてもいる、と思ってしまうが。

『アフター・ダーク』は地味目な小説だけど、暴力で解決してないところ、スガシカオ「バクダン・ジュース」が流れ、バンドマンの高橋テツヤ(高橋徹也というミュージシャンが好き)が出て来るのもあり、わりと気に入っている。
こうやって解釈し始めると、中国がちらついたり『アルファビル』が出て来る意味が、気になっちゃうけれども。


なんせ、答えなんてないし、神は居たとしても人を助けてくんないと思う。
良識と他者への愛情と自由と我儘を、程よく持ち合わせることからしか、光は来ない。
オーウェルの『1984年』や『街とその不確かな壁』は、まだ読みかけ放置中なので、そちらを読み終えればもっと細かい考察は進むかもしれない。
この前読んだ『騎士団長殺し』についても整理した方がいいな。

ヤマギシ会絡みでは、幼児期に会を経験した小野さおり監督のドキュメンタリー映画『アヒルの子』もあるらしいので、それも見てみたい。
映画『星の子』を見たのも、参考になったと思う。

青空文庫の富田倫生が書いた『パソコン創成記』にも、中国研究者の新島淳良がヤマギシへ入脱会した経緯(その後再入会して実顕地で死没)、会の成立過程や抱える矛盾、脱会後の鬱状態、などが描かれているようだ。
全体的に面白そうなので、後で改めて読みたい。
宗教学者で作家の島田裕巳が退会した経緯なんかも、気になるな。

日本赤軍については、山本直樹の『レッド』が正確に再現しているみたいなので、それもいずれ読みたい。

バウハウスとワイマール体制がナチスドイツに呑み込まれ東西に分裂、ナチス時代を反省、東西統合、環境主義が起こり緑の党が誕生した一方で、移民増加に伴いネオナチは勢力を増している。
世界でも、民族浄化志向が紛争と難民を生み、難民を受け入れた国では更なる排斥運動と右傾化が起きている。

そういう他国の歴史も、日本のこれからと考え合わせるとよいだろう。
いつも皆に、考え過ぎだからもっと体を動かしたらと言われるけど、そういうこと考えるのが癖で、止められないんです。
研究者になれるような甲斐性があれば良かったのに。

ヘッダー写真は、浜松町駅で撮ったもの。

2009年2月15日、村上春樹が行ったエルサレム賞受賞スピーチの和訳を見かけたので、追加添付します。要するにこういうことです。
「壁と卵 – Of Walls and Eggs」
https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/


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