私が「コミュニティ・デザイン」を嫌いな理由

「住民が参加するまちづくり」という活動を支援する仕事もしてきて、もう何年にもなる。そんな仕事に携わることなんてないと思っていたのだが。
奈良で商店街の活性化を2年やっているときに、はじめて「コミュニティ・デザイン」のことをそれなりにしっかりと勉強した気がする。そこには、「一人一人が主体となり、まちのことを考える」「町の中で失われたつながりを再生させる」というテーマで、各地の取り組みなどがきらびやかに見えたものだ。

あれから7,8年ほどたって、いまいくつかの自治体の中で「つながりづくり」「まちの将来像」を創り上げるための仕事をしていると、あの時の「コミュニティ・デザイン」はいろいろ課題を孕んでいて、そのデザインを行う人材育成や、いくつもの事例に対して、論理的にいくつかの矛盾などを指摘ができる程度の冷ややかな目線・能力が自分に備わっているのを感じる。その昔とある案件で、某超有名まちづくり企業のえげつないやり方を実際この目で見たり、その人の評判をまちづくり活動実践者から事細かに聞くようになったせいもあるが。

① 弱者のためのまちづくりは可能か

そもそものコミュニティ・デザインの大元は、アメリカにおいて起こった「社会的弱者のまちにおける人権の確保(卯月盛夫氏による)」が最初である。
今の日本における「コミュニティ・デザイン」は「将来の世代のためのまちの在り方を共有」「つながりの再生産を目指す」など、既存の住民が人口減少や高齢化などで後ろ向きにならず、未来志向になるための活動が多い。それ自体はもちろん必要なことだ。ただ、そこには弱者の視点がない(せいぜい、子育て世帯への配慮と高齢者向けバリアフリーであるが、まちづくりに参画する人が地方は高齢化しているので「自分のため」のことである)。
まちづくりに参加する人の視点は、どうしても近視眼的になる。バリアフリー化が急務というのは、町に残っている人がそもそも高齢者しかいないからである。高齢者のためのまちづくり=コミュニティ・デザインではもちろんない。

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