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地雷拳(ロングバージョン5)

「そのまま俺の爪研ぎになるんだ! 死ねッ!」
 小鬼が動いた時だった。
 老人が視界から消えていた。5メートル先で確かに胡座をかいていたはずの姿がどこにもなかった。
 確かに見ていたはずだ。見逃すほどカメラのメンテナンスを怠っているはずがない。
 鋼鉄の足が宙をかいた。
 ヴァーユが探しだす前に身体が浮いていたのだ。小鬼は自分が投げられたのだと気づいた。頭の位置が地面に近づくにつれ、老人の姿が目に入った。
 衝撃が脳天に走る。ヴァーユは床に打ちつけられていた。ぐわぐわと視界にノイズが走った。立ちあがろうとすると、鉤爪が水に溶いた絵の具のようにぐにゃりと曲がった。
 ありえないことだった。
 ヴァーユの身体でも90キログラムはある。相手は枯れ枝のような老人だ。老人は見る限り、40キロにも満たない。体重差が50キロ以上はある。
 鋼の肉体が地面に背中をつけるなどありえないはずだ。
「爺さん、何しやがった……」
「奴は船越呂円だ」
 恋一郎が言った。
「お父様。そいつは誰なんです」
「ようやく思い出したぞ。沖縄で米軍を83人殺したとされる空手家がいた。琉球空手を学び、警察から逃げながら米軍基地を荒らした男」
 ヴァーユは呂円を見た。構えの形をとっていない。異様な立ち方だ。達人であるのは間違いない。
「やりなさい」
 紅が命じる。
 ヴァーユが一歩踏み出した。一歩の幅が広い。弾丸の速度で呂円の周りを走りはじめた。ヤクザものを屠った技だった。
 風を切る音が大きくなり、ヴァーユの残像がいくつも重なる。床に切り傷がつけられていく。
 呂円は曖昧に立ったまま沈黙している。ヴァーユは我が目を疑った。
 呂円は目を閉じていた。自分の技を見ることすらしない。
 耄碌してやがる。
 ヴァーユの身体に怒りが満ちる。ゔん、とさらに速度が増した。
「やりなさい」
「超人たれ!」
 ヴァーユは社訓を唱えると、呂円に襲いかかる。鉤爪が目玉を抉りだそうと煌めいた。
 枯れ枝のような腕がヴァーユの鉤爪を払う。血が滲んだ。致命傷ではない。
「ぬうっ」
 老人の平手がヴァーユのこめかみを打った。決して強くはない。連続して鉤爪を腹に食い込ませようとした。
 それは叶わなかった。老人の身体には切り傷がいくつか刻まれただけだった。
 鋼の小鬼は膝をついた。
「動けない……これは一体」
 ヴァーユには、一体何が起こったのか分からなかった。
「振動ね」
 紅が言った。
「微弱な揺れが金属フレームを共振させた」
「それがチップの読み込みを阻害させたのか。恐ろしい奴」
 興味深そうに瘤川教授は頷いた。
「いいサンプルだわ」
「琉球空手。それほどまでに」
 瘤川教授は眼鏡を直した。
 老人を囲むようにして並ぶカンフーロボは一切手を出さなかった。相手の力量を測り損ねれば評判は地に落ちる。目の前にいる鋼の小鬼のように。
 ヴァーユは狼狽していた。紅も瘤川教授も呂円を見ている。
 恋一郎はどうだ。
 彼は後ろを向いている。手には携帯を持っている。商談をまとめているようだ。
 一瞬だった。ヴァーユの信頼は底をついてしまった。
「しゃあっ」
 チップがなくても構わなかった。ごっ、ごっ、と重たい足音をたてながら老人に迫る。チップで風を切る自分の姿はもうない。無様でしかなかった。
 鉤爪を構える弱々しく光を反射した。
「まだ終わっていない……」
 そう。ここからだ。チップが無ければ、この腕で食らいつくまでだ。
 ヴァーユの気合いは十分だった。老人と目が合った。ようやく俺を認識したか。
 それが、ヴァーユにとって最後の思考だった。
「超人ではなかった。ただそれだけだ」
 配線が次々と千切れ、火花を散らした。首を180度回転させて捻じ切った。恋一郎がヴァーユの頭を放った。
 それまでざわめいていたロボ達は静まっていた。恋一郎の興味を失うこと。それは死に直結する。
「あとは紅。お前がケリをつけなさい」
 恋一郎の声は、先ほどと変わらない。先ほどまでの愉快な響きはない。紅はこの声を聞くと脚が震えた。
「はい」
 社長の命令を断る理由はない。
 紅が構える。胸骨のスロットにカンフーチップを差し込んだ。チップには女教皇が描かれていた。怪しげな光が両眼から迸る。
 老人が目を見開いた。
 危険を察知した時には遅かった。
 ごう、とかむぐ、とかいった音がした。空気が歪んだとしかいえない異様な音が室内に響く。
 紅は両手を合わせ何か呟くと、黒い球体が老人の右胸部から先を飲み込んだ。
 紅が合わせた両手を捻る。老人の身体の一部を球体は食いちぎり、霧散した。
 老人は倒れた。
 勝負は一瞬で決した。紅は老人を見下ろす。
「お疲れさまでした」
 瘤川教授が恭しく頭を下げた。
「ごっ……」
 紅はその場で吐血した。額には汗が浮かんでいる。
 想像以上の強さだった。老人の身体の中心を紅は狙っていた。
 老人は先を読んでいた。紅が何をするかは分からなかったはずなのに、先の先を読んで致命傷を外したのだ。
 あの一撃を外していれば勝負の行方は分からなかった。
「そいつを運べ」
 カンフーロボは呂円の死体を持ち上げる。
「紅。改善できるな?」
 恋一郎の言葉に紅は頷いた。
「お前たちッ」
「はっ」
 恋一郎が一喝する。カンフー戦士たちの空気が張り詰めた。
「カラテチップは我々の手中に収めねばならん。奪取せよ!」
 恋一郎が指令を下す。冷徹な鉄人たちが一斉に抱拳をした。
「出来ねばどうなるかわかるな?」
 そこにいたロボたちは皆、首のないヴァーユの身体を見ていた。負ければこうなるのだ。
 恋一郎の期待に背くことは死を意味している。
「瘤川教授。小娘はどこを走っている」
「今は……、マクセンティウスとともに調布にいます」
「こちらも準備を整えるぞ。ラポールはどうだ」
「メキシコから呼び戻しています」
「ポモドーロも呼べ」
「すでに呼び寄せました」
 ロボ達の視界に、黒い靄が室内に立ち込めた。そう錯覚してしまうほどの殺気が振り撒かれていた。カンフーを修めていなければ今頃舌を噛み切っていただろう。
 瘤川教授は紅の後ろに隠れた。
 男が恋一郎の前に立っていた。中折れ帽子を被ったトレンチコートの出立だ。帽子の影から見える目は他のカンフー使い同様に怪しく光を放っている。
 死神を思わせる鋼の戦士は、恭しくお辞儀をした。
「アフリカはどうだった」
 ポモドーロは王国を築いた節制のカンフーチップ使いを処刑しに行っていた。
 ポモドーロは沈黙したままだった。元より言葉の少ないカンフー使いだった。おもむろに黒いレザーの手袋をはめた手を差し出す。恋一郎の手のひらに破片が落ちた。
 割符のように半分に割れたカンフーチップだった。
「見事だ」
 恋一郎は満足そうに頷いた。
「お前も東京に残れ。カンフー使い達に小娘は任せる。お前は……、変わらず処刑しろ。小娘も腑抜けたカンフー使いも」
 どこからともなく風が吹いた。処刑人であるポモドーロによってカンフーロボ達の逃げ場はなくなったのだ。
 笑っているのは恋一郎ただひとりだった。

 それから数時間たった。
 所変わって瘤川教授の研究室。鋼鉄のハンガーがいくつも並び、制作途中のカンフーロボたちが架けられている。
 部屋の中央には手術台がある。無影灯に照らされ、横たわっているのは船越呂円だ。それを見下ろすのは瘤川教授と覇金紅だった。
「全く見事ね」
 手術台には、複数のロボットアームが搭載されていた。絶え間なくアームは体表を行き来する。
 呂円の抉り取れた右腕が、機械に置き換わっていく。
「本当にそいつは使えるの」
「任せてください。瘤川に嘘はございません。この空手使いこそ双龍計画に相応しい」
 瘤川教授の手には、小さな円盤が乗っている。円盤には小さく切れ込みが入っている。ちょうどカンフーチップが差し込めそうだった。
「ですが、良いのですかな。恋一郎殿は知らないようですが」
「いい? これは覇金の技術をさらに上げるために必要なの」
「分かっております。内緒、ですな」
「そう。お父様を驚かせるの。双龍計画を成功させれば、娘の成長に大喜びよ」
 呂円の消え去った右胸から先は、クロームに置き換わった。
 次にロボットアームはカッターで呂円の側頭部を切り取った。透明な液体がどろりと漏れた。手早く別のアームが液体を吸い込む。
「仕上げでございます」
 瘤川教授は円盤をはめ込む。容器を開いた。中にはカンフーチップが入っていた。
「これは」
「如月博士が考案した生体チップを応用したのです。これなら人体でも十全に動く」
 呂円の身体が震えた。電流を流されたように弓反りになる。
 両眼が溢れ出しそうなほど見開かれた。
 呂円の両眼は色違いのビー玉を嵌め込まれているようだった。左目は白く濁っている。右目からは怪しく光を放っていた。

(続く)

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