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第四話 チェーンソーの血脈【THE ASAXAS CHAIN SAW MASSACRE】

 黒の袴姿が、亡霊のように改札を抜けていく。
 浅草駅は静まりかえり、昼間の人だかりが幻のようだった。
 だが、柳平にとってそれは幸いだった。今、柳平は抗い難い一つの欲求に囚われていたのだ。
 ──人を斬りたい
 金烏を斬った瞬間によぎった記憶が、ふつふつとよみがえる。肉を裂き苦痛に歪む客の顔は、紛れもなく自分の落語が生み出したものだ。あの時、手に伝わる命の脈動と反応は、寄席で受けた時の何倍もの喜びをもたらした。
「くぁああっ!」
 柳平は駅の壁に勢いよくぶつかる。激闘で疲弊した身体に痛みが走っても構わなかった。
「寄席に出たくねぇのかお前は!」
 再び壁にぶつかる。
 柳平は自覚していた。暗い喜びに負けた、その結果が30年もの幽閉だった。
 そこにふぇふぇふぇ、とフクロウのような笑いが響く。
「夜薙屋嵐平次!」
 電子広告が流れる柱に寄りかかり、嵐平次は肩を揺らしていた。
「ずいぶんと荒れてるじゃねえか」
「御託はいい」柳平は嵐平次に歩みよる。懐から出した扇子は瞬く間にチェーンソーに変わった。
 嵐平次は薄ら笑いのまま語り続ける。
「瑞相亭の坊ちゃんの言いつけに熱心なんだな」
「黙れ、蘭満」
 柳平はチェーンソーを振りかぶる。
 刃は、嵐平次の目の前を過ぎ、柱を半分切った。連戦による疲労か。痛みはあれど身体はまだ動くはずだった。
 嵐平次が、柳平の額に自分の額を近づける。
「殺る気あるのかい」
 柳平を黒い瞳が捉える。
 チェーンソーの殺人圏内に、嵐平次はいる。なのに身体は動かなかった。
「なんで俺が殺れないかわかるか」
 嵐平次が額を擦り付ける。
「お前が自分を委ねきれてねぇからだよ。玉兎まで斬ってそろそろ思い出したろう。あの時の感覚を思い出せ、リュウ。お前は人を笑わせるより、痛めつける方が遥かに手応えを感じてるんだよ」
「違う」
「違う? リュウ、それなら斬る時に笑っているのはなんでだ? 俺にはお前が楽しくて仕方なく見えるぜ」
「黙りやがれってんだ!」
 柳平は首を振る。認めるわけにはいかなかった。
 嵐平次の眼に憂いの色が浮かんだ。
「勘違いして欲しくねぇがよ。俺はお前を救ってやりてぇんだ」
 柳平の返事を待たずに、嵐平次の言葉は続く。
「お前はどうしたって笑いの落語には戻れねえ。だから、俺と来いよ」
「裏落語家は、全員殺す」
「リュウ、お前の破壊衝動と落語の力を合わせればどこまでも行けるんだぞ」
「できねぇ」
 柳平は膝をついた。体力は限界に近かった。
 嵐平次はしばらく俯き、顔を上げた。すでに、憂いは目から消えていた。
「まぁ、気長に待ってるから考えといてくれや」
 そう言って、嵐平次は柳平に錠剤とミネラルウォーターを投げた。柳平が訝しげに嵐平次を見る。
「毒じゃねぇよ。ただの痛み止めだ。そいつで痛みを和らげるといい」
 柳平は噺家の勘を信じる。嘘を言っている素振りはなかった。
「年寄りはあちこち痛くなるからな」
 ふぇふぇふぇ、と笑い、背を向けた。
「蘭満!」
「せいぜい死ぬんじゃあねぇぞ」
 笑い声がこだますると、嵐平次の姿はなかった。
 柳平は、嵐平次の残した錠剤をかっくらいミネラルウォーターで流し込んだ。
 水が体に沁みていき、痛みが和らいだ。
 嵐平次の目論見も、残る裏落語家も考えることは山のようにあった。だが、今は身体を休ませたかった。
 駅の時計は2時3分を指している。1時間だけ眠ろう。
 柳平は壁にもたれ、目を閉じた。

 ◆

「柳平さん! 柳平さん!」
 自分を呼ぶ声で体を起こす。覚えのある芳香剤が鼻をくすぐる。よく眠ったからか、幾分か斬りたい欲求はおさまっていた。
 柳平が目を覚ますと、車の中だった。窓を見る。後部座席から景色が見えない。
 吸盤付きの矢が、何本も張り付いて目隠しをしていた。
「なんだいこりゃ」
「良かった! 死んでねぇみたいだな!」
 振り返ったのは番頭だった。顔は焦りに満ちている。
「どうしたい」
「あの後、妙な胸騒ぎがして、浅草駅まで行った。そしたら、倒れてるあんたを見つけたんだ」
 車が急カーブし、伝法院通りに入る。
「そのあと、車まで運んだ。ドアを開けた俺の額にぶつかるものがあった」
「ぶつかった?何がだい」
「ゴム輪さ!」
 番頭がそう言ったときだった。
 車を叩くような音がした。どこから飛んできたのだろうか。車の天井から鋭い鏃が覗いていた。瞬く間に2本、3本と増えていく。
「はじまった......! はじめはゴム輪だった! それがBB弾になっておもちゃの矢になり、エスカレートしている!」
 運転席の天井に再び矢が刺さった。
 身を屈めながら、番頭が叫んだ。
 柳平は、用心しながらバックミラーを覗く。背後には車ひとつない。
 今度は、どこからともなく銃声が連続した。
 街灯が砕け、銃痕は一筆書きのように土産物屋をずたずたにしていく。
「いよいよ本物になりやがった!蜂の巣にされちまう!」
「番頭よう、落ち着きな。柄にもねぇ」
「柳平さんよ、流石にあぐら掻いてられねぇぜ」
「まぁ、落ち着いて運転に集中しな」
 番頭がハンドルを捌き、蛇行運転をする。着弾した弾が石畳を割った。
「思うにアレは警告だ」
「あんな警告あるかい」
「俺を乗せてから激しくなってんだろう。だったらそうだ。それに銃痕を見な」
「あいにく運転に忙しくてな。どうなってんだ」
 鉄柱を折ったような轟音が響く。標的を逃した弾が、目の前の扇子屋を貫通した。
「鼠が通れそうな穴だ……。俺が起きてから、弾がどんどんデカくなってやがる。破壊力が段違いだぜ」
「オイオイ、じゃあこのまま走ってたら」
「果ては核弾頭よ」
「柳平さん、俺たちはいよいよ終わりだ」
「とりあえず広いとこを目指せ。花やしきに行けるか」
 花やしきは、伝法院通りから雷門通りを過ぎたところにある遊園地だ。遮蔽物も多く、反撃の場としては申し分ない。
「いや、ダメだ」
 番頭が却下する。
「なんでだ」
「こっから8分もかかる。その間に車がバラバラになっちまう」
「じゃあどうする」
「目の前にあるだろ」
 番頭が左をちらりと見る。その先には浅草寺があった。広い境内は、噺に適しており、伝法院通りから花やしきよりも近い。
「それは、そうだけどよ」
「どうしたんだ」
 苛立ちげに番頭が尋ねる。
「神様の前でドンパチやるのはどうもバチ当たりな気がしてよ」
「今更何言ってやがんでぇ!」
 命の危機と柳平の煮え切らなさに、ついに番頭が叫んだ。
 車はサイドブレーキを入れ、180度回転する。銃弾の擦過音が鳴り立てる。
 柳平は体を突っ張りながら呻く。
 轢々斎の時のような事故はごめんだったが、叶いそうになかった。
 ふと、目の端にきらり、と光るものがあった。とても速い。光が夜空を過ぎた瞬間、進行方向10メートル向こうで爆発が起きた。空気がびりびりと震える。
 窓ガラス越しでも、ライターを顔に近づけられたような熱を感じる。
「こりゃあ四の五の言ってられねぇな」
「だからそう言ってんだろ!」
 爆発を皮切りに、次々と周囲に光弾が着弾した。瓦が吹き飛び、「伝法院通り」の看板は支柱が吹き飛んで傾いた。
 命の危機に瀕した番頭の運転は冴えていた。瓦礫となった商店を縫い、浅草寺までは5分足らずで着いた。
 軽自動車は、対戦車ライフル向けに作られているわけではない。相手が、警告だけとはいえ、ルーフは弾丸で抉れ、エンジンオイルは垂れ流しだった。
「飛ぶぞ!」
「爆死よりは骨折だよな……それい!」
 境内につくなり、柳平と番頭は走る車から飛んだ。その後に爆音が響く。
 激しい熱風とともに、軽自動車は炎上した。
 夜闇に煌々と輝く炎に、柳平が目を細めていると、天から声が降りそそいだ。
「あんただな! あたしのおとっつぁんは!」
 若い女の声だった。
 柳平と番頭が仰ぎ見ると、五重塔の屋根、月影を背景にライフルを携えた影があった。
「俺に娘はいねぇよ」
 柳平が返すと、影が軽々と飛び、柳平たちに相対した。
 あどけなさを残した少女が目の前にいた。
 柳平を捉える双眸は黒目がちで、くっきりとした眉が気の強さを感じさせる。線は年相応に細い。だが、アタッチメントをつけた対戦車ライフルを肩に乗せており、見るものに力強さを与える。
 炎を反射して牡丹色の浴衣が照り映えた。浴衣は、胸元にジッパーのついた変形浴衣だった。
「アタシは夜薙屋えつぼ!! あんたのチェーンソーから生まれたのサ!」
 番頭が柳平を見やる。
「柳平さん、子どもがいたのか」
「だからいねぇ」
「おとっつぁん、アタシと勝負だ! 裏噺『道具屋』!」
 えつぼは、言うなり柳平に斬りかかる。ライフルはすでに、ヴァイキングが使うような戦斧に変わっていた。
 危険に気づいた柳平が、咄嗟に番頭を後ろへ突き飛ばす。
「毎度、馬鹿馬鹿しい噺を一席……」
 鋭い金属音が鳴る。赤い火花を散らしながら、えつぼの斧と柳平のチェーンソーがぶつかり合う。
「お前さんに俺は何をしちまったんだ」
「あんたはアタシのおっかさんを斬った! アタシがお腹にいる時にナ!」
「なんだって!」
 柳平は驚きを隠せなかった。動揺は反応を一瞬鈍らせ、柳平の右腕を刃が掠める。
「シィッ!」
 えつぼの会心の一撃が振り下ろされる。
 柳平は右に転がり、距離をとる。
「俺にはわからねぇ。そんな人殺しをどうしておとっつぁんなんて呼ぶんだ」
「あんたのお陰でアタシは裏落語の天才になったからさ」
「……どういうことだ」
「この噺サ」
 えつぼは、番頭に興味がないようだった。そう言いながら、えつぼの手中の得物が日本刀、狙撃銃へと形を変えていく。
「おっかさんが斬られて、アタシは変わった。生まれてすぐ嵐平次が気づいたんだよ」
 えつぼはサブマシンガンを乱射する。柳平は走りながら、自分を狙う弾をいなす。
「あんた、嵐平次が育ての親ってことか!」
 番頭が声を上げる。
 えつぼが不敵に笑う。
「だけどアイツが教えたのは『道具屋』だけだけどネ」
「『道具屋』は与太郎が次々、道具を売る噺だ。見立てを覚えるにはもってこいだな」
 元の『道具屋』はカメラや笛、鉄砲などを客に売る前座の修行用の噺でもあった。見立てと噺が強さに直結する裏落語において、『道具屋』はある意味最強と言える。嵐平次は子供の頃から仕込めば、唯一無二の裏落語家につくれると踏んだのだろう。
 そして、それが分かるということは。
「きっと俺もそうしたんだろうな」
 えつぼが柳平の前に踏み込む。得物はレイピアとなり、柳平の身体に何本も血の線を描いた。かと思いきや、いきなり後退し、矢を放つ。えつぼの噺は柔軟かつ、見立てでの再現は現実と変わらない。一朝一夕では叶わない芸だった。
「えつぼ……、お前さん、俺よりよっぽど才能あるぜ」
「ふん、アタシの才能はアタシが一番知ってる! そら、アンタの大事な喉が潰れるヨ!」
 至近距離から放たれた矢は、柳平の喉元を狙う。チェーンソーで薙ぐ。矢の欠片が月の光にきらめいた。
 一歩踏み込み、えつぼの脳天へ一太刀浴びせる。刃が、頭を両断することはなかった。えつぼは、瞬時に刀に変形させ、受け止めている。回転刃は顔と数センチまで接近し、橙の火花が散った。えつぼの闘志は尽きていない。
「ぐっ……」
 えつぼが唸る。右手は柄に、左手は棟に添えて柳平の斬撃に耐える。
「お前さんの落語の才能が惜しい」
 柳平は力を緩めない。
 えつぼが膝をつく。ついにチェーンソーが、脳天を割るかという時だった。
「えつぼォ! お前、出し惜しみしてんじゃねぇだろうな!」
 五重塔から声が降りそそいだ。嗄れているが、よく通る。
 柳平が忘れるはずがなかった。
「夜薙屋嵐平次!!」
「また会ったな、リュウ!」嵐平次が叫ぶ。「えつ公!お前の本気見せてやれ!」
 えつぼは注意が逸れたのを逃さず、転がるようにして、柳平から再び距離を取っていた。
「偉そうにベラベラ喋んじゃないよ! 言われなくたって殺ってやるサ!」
 嫌な予感がした。柳平は今の一撃で、仕留められなかったことを後悔するように感じた。
 えつぼが浴衣の袖を振ると、手首を扇子が滑り出る。
「見てなおとっつぁん。これがアタシの落語の集大成だよ!!」
 そう言って、えつぼは胸のジッパーを開いた。
 白い肌が露わになる。柳平と番頭は目を疑った。
「ありゃあ、なんだ!」
 番頭が声を上げた。
 胸の中央、胸骨があるべき部分には、木の虚のように黒い穴がぽっかりと開いていた。
 横幅は1センチほど、縦幅は3センチほどの四角い穴だった。その形はまるで……。
 柳平が声をかける間もなかった。
「襲ッ命ッ!」
 えつぼが叫ぶと、切腹するように扇子を胸の穴に押し込んでいた。
 次の瞬間、えつぼの腕全体に、樹木の根のように青い血管が浮き出る。そして、顔にも太い血管が現れ、虎の紋様を描いた。
「母体のストレスが子供に影響を与えたらしい」と、嵐平次。
「俺は生まれたあの子を見てたまげたよ。これはギフトだと思ったね。そこでコイツさ」
 嵐平次が取り出した扇子が月光を反射する。
「あの扇子は電流が流れる仕組みになっている。心臓に直に刺すことで、えつぼの意識が道具屋をさらなる次元に高める」
 嵐平次が喋る間にも、えつぼは形を変えていく。
 血管が膨らみつづけ、えつぼの体には夥しい数の風船が付いているようだった。
 少女の痛ましい変貌を、柳平はただ見続けるしかなかった。
 風船はぼこぼこと葡萄の実のように膨らみ続け、特大の血豆が浮かびあがる。
「何が起ころうとしてんだ」
「たぶん......、セミやカブトムシと同じだ」
 番頭の問いに柳平は答える。
「分かるように言ってくんな」
「嵐平次は生まれ変わらせようとしている……。落語で新しい生き物を作ろうとしてやがるんだ」
「おい、そんなことが許されんのか......」
 番頭の声は怒気を帯びていた。
「リュウ、お前にも分かるか」
 嵐平次は満足そうに頷く。
「アレは蛹だ。えつぼに流れる血の一滴一滴が、道具屋の噺を取り込んでいる」
 えつぼを包む血の風船が、一斉に弾けた。浅草寺の石畳を赤黒い液体が洗う。
「血球単位の噺。それはもはや噺家の手に届かない神の業だ」
 柳平は血の海を見つめる。禍々しい妖気が背筋を這い上がり、異形が姿を現した。
「新しい門出だ。こいつぁ、夜薙屋さんぐれ、とでも名づけようじゃねえか」
 異形──夜薙屋さんぐれ──は、見るものに得体の知れない恐怖を植え付ける。これは人が見てはいけないものだ。柳平は眼をそらそうとするも、さんぐれの細部に目が吸い寄せられた。
 えつぼの黒い髪は白い頭蓋に変わり、浴衣は剥き出しの筋肉繊維に包まれている。両肩と思しき場所には、皮を剥かれた顔たちがうごめいていた。
 ひきつった肉色の相貌に、柳平は見覚えがあった。夜薙屋芬弥と、夜薙屋金烏がいる。
 右肩にはわし鼻と青い瞳が張り付いている。左肩には切れ長の目に、通った鼻筋があった。
 よく見れば顔は全身の至るところにある。玉兎の顔は右胸の下に、芬弥と同じ眼をした女の顔が腰のあたりにあった。
 柳平は沈黙したままチェーンソーを振りかざし、さんぐれに駆ける。
 斬った奴が具現化している。だからどうした。生者が死者にできることはせいぜい忘れずにいることだけだ。
 自分はどうだ。30年間、牢屋の中で思い出せなかったではないか。
 そんな人間は死者を悼む権利すらない。
 柳平がチェーンソーを振り下ろす。さんぐれの右肩に刃を食いこむ。
「だけどなぁ、コイツは度し難い」
 暴力的な回転が、乱雑に筋肉を裂く。
 エンジン音が、柳平の怒りに呼応して絶叫する。
「噺のために人を弄んだら、それは芸じゃねぇ」
 肉片が飛び散る。チェーンソーは左脇腹に達し、さんぐれを無惨な二つの肉塊に変えた。
「蘭満……、次はお前さんだ」
 柳平は嵐平次を睨む。
 変わらず五重塔に嵐平次は佇んでいた。だが、その眼は柳平を捉えてはいない。
「柳平さんッ!」
 番頭が声を上げる。
 柳平の目の前には、さんぐれが立っていた。胸は骨に覆われ、斬られた部分を守るように再生していた。骨の隙間から、赤い顔たちが嘲笑うように口をパクパクさせている。
「そう上手くはいかねぇか」
 柳平は苦笑いする。
 がぱっ、とさんぐれの顎が開いた。
「お、おおおおとととっつぁあああん」
 全身が総毛立つ。えつぼとは似ても似つかない、聞く者の心を黒く塗りつぶしてしまう声だった。噺家の胆力がなければ、耐えられなかっただろう。
 ふと、柳平の脳裏に危険信号がちらつく。
「うぅ」小さなうめき声がする。
 振り返ると、番頭が壊れた車の窓フレームに腹を貫いていた。
 柳平が、番頭の体を支える。
「番頭っ! 大丈夫か!」
「なんだあこれは......」
 番頭が、熱病にうかされたように呻く。
「いきなり目の前が真っ暗になって......、気が付いたらこのざまだ。いや、ちがう。俺が高校の頃、カツアゲされて銭湯の売り上げをくすねちまったのを思い出したんだ。ずっと忘れてたのによ......、罪の感情で潰されそうになった。その時だ。車のフレームが視界に入って」
「もういい。喋んな」
 柳平は番頭の体に自分の羽織を押し当てて止血する。嵐平次の哄笑が響き渡る。
「さんぐれはお前に憑く死の影を道具にしている。思考に入り、希死念慮を増幅させる稀代の裏落語家だ......。リュウ、これぞ裏落語の真骨頂よ」
 嵐平次は歓喜に満ちた声を漏らす。
「おおおおおおおとつぁぁぁあああんんんん」
 再び黒い叫びがこだまする。同時に扇子の骨をかたどった翼が、さんぐれの背を破る。
 先程よりも恐怖が強まっている。柳平は脳を直接つかまれているような感覚を覚えた。
 番頭はすでに失神していた。
 さんぐれの叫びが闇夜に吸い込まれていく。
 遠く、伝法院通りの方角から女の泣き叫ぶ声が聞こえた。
 声の方角から、影がこちらに走ってきた。全裸の男だ。肋骨の浮き出た身体は、赤く染まり、右手には髪をつかんで女の首を振り回している。
「ほおおおおっ! 見てて! ほおおおおおっ!!」
 地獄の有様だ。柳平たちの目の前で、男は左手に持ったナイフで自分の首を切り落とした。
 それを皮切りに、絶叫、すすり泣きが柳平を包み込んだ。半径はまだ小さい。しかし、さんぐれの声は確実に浅草を壊滅に至らしめようとしている。
「見事だろう、リュウ。お前も噺家なら分かるはずだ。俺たちには寄席に留まらないギフトがある。お前も一緒に来い」
「そんなものは俺にもお前にもないぜ」
「何?」
 嵐平次の声が低くなる。
「分からねぇか。俺もお前も、ヒトゴロシしか芸のない人間なんだよ。そんな奴らが行き着く場所なんざこの世にない」
 柳平が嵐平次、さんぐれを睨み、言い放つ。
「裏落語はここで終わる」
「戯言を。さんぐれが次に叫べば、お前とて死ぬぞ」
「やってみな」
 柳平が笑みを浮かべる。
「まったく......、変わらねぇな」
 嵐平次も口角を上げる。知っている、人の心を温める笑みだ。が、すぐに真顔に変わる。
「またお前は間違えたよ」
 さんぐれの顎が、再び開いた。

 ◆

 柳平が眼を開くと、男の顔があった。
 丸刈り頭に、ぼさぼさの眉。食い気がないのか頬はこけ気味だ。
 鏡に映る30年前の柳平の顔だった。柳平は浅草大笑閣の楽屋にいた。
 周りを見回す。畳の上には座布団が敷かれ、師匠たちが談笑している。輪の中に桜円蘭がいた。円蘭の隣に座る師匠と柳平の目が合った。鏡のそばの文机を指す。
「柳平、ネタ帳見とけってよ」
 そう言った師匠の脇を、円蘭が小突く。笑いが起こった。
「ありがとうございます」
 柳平は、師匠に会釈して文机に向かう。ネタ帳を開く。
 高座に上がる前まで噺家は、互いにどんな噺をするか分からない。だから、事前にネタ帳を見ておいてネタ被りが起こらないようにするのだ。
 だが、今日の柳平にネタ帳は必要なかった。
「柳平さん、そろそろです」
 前座の声がかかった。
 円蘭をちらりと見る。円蘭は他の師匠たちの話に付き合っている。自分は喋らず、頷いているだけだった。高座以外ではこういう人だった。
 時刻は午後三時半を回っている。幾たびか拍手が聞こえた。高座では太神楽が客を沸かせているようだ。
 楽屋前に、華奢な着流しの男が待っていた。柳平に気付き、手を挙げる。
 兄弟子の桜蘭満だった。
「よう、リュウ」
「おう」
「まさか、先越されちまうとはな」
 蘭満は兄弟子だったが、二つ目に上がったのは柳平が先だった。
「お前さん、ホントにあの噺やるのか」
「当たり前さ」
 蘭満は、息を短く吐き顔を振る。
「信じられねえな……。お前の二つ目昇進記念なんだぜ」
「だからいいんだ」
「俺の作った噺がか?」
「だからいいんだよ」
 蘭満は、一瞬、信じられないものを見るような目つきで柳平を見る。そして、気恥ずかしくなったのか、すぐに目を逸らす。蘭満との記憶がよみがえる。
 初めて蘭満に呼び出されたときは驚いた。酒と博打で文無しの男が喫茶店に呼び出したからだ。
 蘭満は黙って自作の新作落語を柳平に差し出した。
 題名の無い原稿用紙の束だ。
 それが、チェーンソーの噺だった。
 円蘭の新作落語の腕は目を見張るものがあった。話の構成やサゲには粗いところもある。だが、この噺を作りたいという熱意と迫力に柳平は心を動かされたのだ。
 だから、二つ目昇進では蘭満の新作落語をやりたかった。
「馬鹿野郎……」
「お互い様だろ」
 柳平と蘭満は互いに笑う。
 高座から一際大きな拍手が上がる。太神楽の出番が終わったのだ。柳平は舞台袖に待機する。蘭満も今日だけは、と後につづく。
 演者が舞台袖にもどり、柳平の出囃子が流れはじめた。
「リュウ、行ってこい」
 蘭満が背中を叩いて柳平を送り出す。
 高座と舞台裏との間に、照明が橙の線を引く。
 この先が夢だった。
 影から光へ、一歩進む。
 客席からの拍手が粒子となって、体にぶつかった。柳平は拍手の波を一身に受け、高座に上がる。座布団につき、一礼する。
「しばらくの間、お付き合いのほどお願い申しあげますが......」
 挨拶とともに柳平は枕をはじめる。語り口は軽く、噺の筋からはズレないように気をつける。そして、客の熱は冷まさずに。円蘭師匠の高座を見て覚えたポイントを外さずに続ける。
 不意に、どっ、と笑い声が起こる。確かな手応えに柳平の胸は熱くなった。
 本題の噺へ入る。客の息遣いに注意を向ける。集中力は続いているだろうか。
 照明の暖かさが柳平の額に汗を浮かせる。眩しさが、柳平の意識を曖昧にさせる。勝手に口が動いて、客に反応して動いているような心地だった。
 だが、柳平の噺はキレを増すばかりだった。
 噺が佳境に入る。杣夫がチェーンソーで、木を切り倒しまくる場面だ。
 柳平が見立てをはじめる。動きは大袈裟にしても、重心を前に倒すことで、扇子にチェーンソーの魂を宿らせる。何千回と練習するうちに掴んだ柳平なりのコツだった。
 一心不乱にチェーンソーを振り回す。
 会場に爆発したかのような衝撃が走る。
 遅れて、客席からの爆笑だと気づいた。その日一番の笑いだった。
 ああ、これだ。この感覚だ。柳平は演じながら思った。
 自分が今、笑いを起こしている。研鑽してきた噺に対するこの反応を待ち望んでいた。
 噺は終わりを迎え、サゲに入る。
 ああ、これからずっと高座に上がれるのか。頑張らねぇとな。もっともっと上手くならないといけねぇ。
 柳平は、客席に一礼する。拍手が痩せた青年の体を包む。
 ありがとう。ありがとう。未熟な噺を最後まで聞いてくれるとは思わなかった。
 柳平の心は万感の思いで溢れていた。
 だが。
 柳平が顔を上げると、手には扇子があった。
「毎度馬鹿馬鹿しい噺をひとつ……」
 けたたましいエンジン音と、拍手が混ざる。柳平の手にはチェーンソーが握られていた。間髪入れずに、刃は座布団にめり込む。
「手に入れられない現実を見せれば、この世で死ぬ踏ん切りがつくと思ったか……?」
 苦悶の叫び声が座布団からあがる。
 突如、座布団が裂け、顔が現れた。白磁の頭蓋骨、顎を開いた夜薙屋さんぐれだった。
「悪いがよ、俺は綺麗に終わるなんてできねぇんだ」
「おどっっつぁゃあアあん」
 うおんうおおんんんうおんんんん
 さんぐれの額から顎の下まで切り下げる。さらにチェーンソーは唸り声をあげる。骨と肉に覆われた胸郭の内にたどり着くと、柳平は中に手を突っ込んだ。生暖かいものをかき分け、硬い異物を掴む。
 さんぐれは察知したのか、狂ったように叫び声をあげる。
 構わず、柳平は引き摺り出した。それは赤く染まった扇子だった。
「裏落語の正体見たり」
 扇子を空に放る。虚構の高座を照らす照明がきらり、と扇子を光らせた。
 そして、一閃、斬撃が空を裂く。
 扇子が青いスパークを放ち、二つに割れた。
 さんぐれの体がふたたび動くことはなかった。
 明かりが次第に強くなり、黒い幕が降りてくる。光から再び影に柳平は戻る。
 客席から拍手がいつまでも続いた。高座が現実と虚構のあわいに霧散していく。

 ◆

 柳平が眼を開く。高座は消え失せ、石畳に立っている。元の浅草に帰ってきた。虚構の照明も灯っておらず、星影に照らされた五重塔が屹立するのみだった。
「馬鹿な......」
 声の主は、五重塔の上の夜薙屋嵐平次だった。
「さんぐれが……、破れたのか?」
 柳平の眼前、夜薙屋さんぐれは顎を開いたまま固まっていた。その全身は白い結晶に包まれ、雪像を連想する。
 決着はついた。裏落語の真骨頂は力を失い、噺は繰り返されなかった。
 結晶が剥がれ落ちる。氷塊が崩れるように、さんぐれの首、翼が次々に砕けてゆく。
 中から、夜薙屋えつぼの顔が見えた。さんぐれの身体が砕け、えつぼが倒れこむ。柳平が支える。身体は年相応に軽く、頼りなさすら覚えた。自分に娘がいたら、こんな気持ちなのだろうか。不意に生まれた考えを、柳平は振り払う。
 すると、えつぼが薄目を開ける。目に殆ど光は湛えておらず、死相が浮かんでいる。血の気の失せた唇が微かに動いた。
「勘違いするな……、アタシはアタシの意志でここに立ってんだ。おとっつぁん……、アンタを越すためにまた戻ってくるからナ……」
 なんという気骨だろう。柳平は、えつぼの不屈の精神に目を見張った。
 頼りないと思った自分を恥じた。桜柳平を越える。その一念を貫き続けたこの娘もまた、芸を究めた噺家だった。
 柳平は、えつぼを静かに横たえる。
 嵐平次が、五重塔から音もなく降り立った。
「さんぐれを倒すとはなぁ。さぁ、やろうや」
 声はすでに普段と変わらない調子に戻っている。
「裏落語はもう死んだ」
「まだだ」
 柳平の言葉を、嵐平次は遮るように言った。
「俺がいる間は夜薙屋は続く。裏落語は死なねぇ」
「俺はお前が分からない」
「リュウ、俺とお前のどちらかが死ぬだけだ。今更分かる必要なんざ」
「ある。あるんだ嵐平次よ」
 扇子を取り出し、臨戦状態の嵐平次を今度は柳平が遮った。首を傾げ、嵐平次が柳平の言葉を待った。
「俺は、さんぐれの夢の中で円蘭師匠に会った。そして、蘭満にも。あの時、お前が書いた噺は本当に面白かったよ。嘘でも、お前が作った噺をサゲまでやれたのは幸せだった。なのに……、どうしてお前は落語を辞めちまったんだ。俺はそれが分からないうちは夜薙屋を潰せねぇ」
「……俺を殺すのが前提か」
 柳平と嵐平次の間に、沈黙が降りる。燃えたつ番頭の軽自動車が二人に影を揺らす。
「いいぜ。俺も万全のお前と演りたい」
 そう言って、嵐平次は柳平の前を過ぎ、浅草寺を後にしようとしていた。隙だらけの背中だったが、柳平に不意打ちする気はなかった。
 ふわり、と夜風が夏の浅草をさらう。
 ただ、柳平は後をついていくのみだった。
 二人の間にもう言葉は必要なかった。嵐平次の行く先は分かっていた。あの日に戻るのだ。柳平たちは、30年隔たりを持つことになった浅草大笑閣へ歩き出した。

【続く】

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