give up
久しぶりにこのお題で更新をしようと思う。
最近よく見るCMがある。
専門学校HALのCMである。
最後に言うセリフがある。
「あきらめないっていちばんの才能。」
別にこの学校を宣伝したいわけでもなくて、ただ本当に「諦めない」というのは、本来誰もが持っている1番の才能なのかもしれないと感じたのだ。
人間が何かを諦めるときって、何が原因なのだろうか。
そもそもやりたいと思ったことがあってそれを続けたいと思うのは、みんな共通して同じことのはずである。
なのに、人間は諦めることがある。
それは、たぶん。
「自分より優れた才能を持つ人がたくさんいるから」だろう。
もしくは、断念するほかない環境や事象があったか、なのだろう。
このnoteでよく言葉にしているけれど、他人とはあくまで比較対象。
これは変えられない事だと思う。
だって、この世の中に同じ人間は存在しない。
双子だとしても、性格は違うしどれだけ似ているとしても、違う部分は必ずある。その数だけ違いがあるのだから比較して当たり前なのだ。
どれだけ比較したくないとしても、自分が世間に対してどのような位置付けでどれだけの仕事ができているのかは、他人ありきでしか判断できない部分が大半だ。
また、スポーツや勉学、芸術、技術、知識などは遺伝にもよるし、遺伝のおかげか努力するスタート地点が既に違うということも多々ある。
だがしかし、どれだけの才能を持っているとしても「上には上がいる」ことが大半なのだ。
結論。
諦めないというのは他人という存在で大きな強者がいるにもかかわらず、見向きもしないで我を通せる人という事であるのだ。
この「我を通す」というのはあくまで自分自身に対してであって、他人の意見を聞かないという意味ではない。
それが才能なのだ。
この才能は、本来誰しもが持っているはずのものだ。
なぜかって、「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように自分が好きなことに我を通すのは至って当たり前で、上手くなりたいとか、綺麗になりたいとか欲望に忠実ということだ。
誰しもが持っているはずなのにこの差は何だろうか。
もちろん才能もあるし、技術もあるし、遺伝もある。
これらで片付けてしまうのはあまりにも浅はかだ。
スポーツで例えるなら今まさに世界陸上がオレゴンで行われているけれど、彼らは常に上を目指し続けている。
しかもだ。
彼らはどちらかというと選ばれていて尚且つ大舞台で挑戦する事ができる権利をもつ人たちだ。
その枠に入るために才能がとか天才だからで片付けていいものではない。
諦めないのが才能ということではない。
諦めない努力をしている人にある才能なのだ。
世界で活躍するプレイヤーは皆この諦めない努力を怠らなかった人が大半だ。ましてや、非凡だったかもしれない人でも活路を見出し、その世界で活躍している人もたくさんいる。
僕は正直、天才という言葉が嫌いだ。
それを言っている人は妬みを含み、言われている人はそれで片付けられたくないと感じると思っているからだ。
先がなくたって努力を続けられることは本当にすごいとしか思えない。
それが彼らが目指している境地なのだろう
でもその差は多分これだけ。
「自信」と「勇気」だ。
我を突き通すということは、自分を信じていないとまっすぐ進めないし、進むための促進力が必要だ。
これらを備える人はある程度のことではへこたれない。
僕はへこたれてしまった人だから分かる。この才能の難しさを。
人間が諦める瞬間はいつだってやってくる。
それは自分も含めてのことにはなるけれど
「誰かに言われた事がきっかけで」とか、「自分には向いていないんじゃないか」とか。
これらって他責にしたくはないけど、他責なのだ。
「他人に対して他責」じゃなくて自分に対してだ。
あくまで「自責」ではないという事だろう。
精神がものをいう世界で、勝手に折り合いをつけているのは大半自分なのだ。
その自分との戦いを人生を通して続けられる人にだけ与えられる才能。
それが「諦めない」だと思うのだ。