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どちらもきっと、皮肉なほどに、互いを羨む人生なんだろう。

「毎日が同じことの繰り返しでつまらない」。そんなセリフを耳にする度に「うそだ」と思う。

毎日同じことを繰り返せる。今日と同じ明日がやってくると信じられる。それがどれだけ幸福なことか、きっとそのセリフを口にする人は、知らないのでしょう。

私はレールの上を歩けたことなんてありません。用意されたことも、見つけられたこともありません。だから、その感覚が少し、うらやましい。

毎日が不確かで不安定な私にとって、「毎日が同じことの繰り返しでつまらない」なんてセリフは、胃もたれしそうなくらいな、ぜいたく品です。


1.時がとまったこの町で

レールがあるということは、ある程度、自分の未来が見えるということです。明日の自分が、どんな自分か、わかるということです。しかもこの国で敷かれるレールの先には、身を滅ぼすような不幸が待っていることなど、あんまりない。

私は現在、5月に地元で挙げた結婚式から一カ月ほど、自分の体調や、東京・大阪の緊急事態宣言など周囲の状況を見て、しばらく移動を止めて、地元に残り、在宅で仕事をしながら過ごしています。

村が町に名前が変わっただけの田舎では、時が止まったように「跡取り」「長男」「土地」といった言葉が日常用語として飛び交っています。室町時代からこの地を守り、地元の名士である祖父の息子である私の父は、次男坊。そして私は女。だから、土地や財産に縛られることなく生きて居ます。

けれど、父の兄であり長男である私の伯父は、祖父の跡取り。なので、定年退職後、東京の家を売り、地元に戻ってきました。あらゆる知恵、土地、財産を守るために毎日忙しそうです。そしてその息子である、私の従兄は、その次の跡取りとして、祖父に豪奢な家を建ててもらって、そのさらに次の跡取りとして、息子を生むことを望まれている。

時が止まったような、「跡取り」「長男」「土地」という言葉が、日常の言葉として飛び交う、そんな中で、私はどこか気まずい気持ちで、ここのところ過ごしていました。


2. 彼をぜいたく者だと思う私は、ぜいたくなんだろう

私は伯父を見るたびに、取り残されたような気分になります。

私は、義務教育は結局、ひとつも入学した学校で卒業することはできませんでした。中学は1-3年、全て違う学校です。やってみようと思ってはじめたピアノも、海外転勤でできなくなって、英語が話せるようになった途端、帰国が決まって。社会人になっても、部署異動ばかり。

「ここは、毎日が同じことの繰り返しでつまらないね」

跡取りとなった伯父は、たまにそうやって遠い目をしています。それが不思議でたまらない。明日が同じように来てくれる保証なんて、どこにもないのに、どうしてこの土地の人たちは、それを信じられるんでしょう?

「東京行って頑張ったなら、そのまま我が道を行けばよかったんじゃないですか?」

尋ねた私を、わかってない、とでも言いたげに、彼は苦笑して否定します。たぶん、伯父は自由気ままに生きている私のことが、苦手です。

「頑張ったって、結果は見えてるよ。俺は長男だし」

きっと伯父は、今日からここがあなたの居場所です、と言われた場所で最後まで過ごせたんでしょう。
やってみたい、と思ったことをやって、自分の限界を知ったんでしょう。己の力の無さを嘆いたのでしょう。
自分の意思ではないのに、やりたくもない部署に配属になって、数年間勤務して、どうせここで出世してもあの人レベルかぁ、なんて、ロールモデルに失望しながら、定年まで勤め上げた。

羨ましい。だって全部、伯父はやり遂げている。

自分の限界を知る前に、私のレールは落石によって、壊れてなくなってばかりでした。そのうち、未来のことを考えることは、私にとって無駄なことのひとつになりました。描いたところで、私のレールは途中で折れてしまう。

その虚しさを知らない伯父は、とっても幸福であると同時に、とっても弱い。いつだって未来は想定外に変わる、ということを知らない無防備さは、レールを描いてくれる人がいなくなった瞬間にきっと弱さに変わってしまう。

例えば祖父がこの世を去ってしまったら、この土地を長く離れていた伯父が、果たして地元の名士として、信頼されるためには、途方もない努力をしなければならないでしょう。その息子である私の従兄もしかり。

決して悪い人ではない伯父が、襲い来る様々な「想定外」に負けてしまわないことを願ってやみません。


3. レールとはあこがれだった

私は「明日も太陽が昇るとは限らない」くらいのレベルで、自分の未来を信じることを辞めました。

「明日の自分が元気とは限らない」と割り切ったら、とても生きやすくなった。それこそ、社会のレールからは思い切り外れたけれど、私はこのレールのないあぜ道を歩くことで、自分が生きるこの世界に、親近感のようなものが、湧き始めました。やっと地面に足先が届いた、みたいな感覚です。

明日の君も今日の君も、変わらず元気。日本社会とは、そんな想定のもと、回っています。平日5営業日、毎朝同じ時間に出勤して仕事をするなんて、毎日、自分が同じ状態であることを約束できない私には難しすぎました。

フリーランスになって、毎日違う仕事をして、自分のスキルひとつを頼りに生きるという、不安定なが自由でレールのない生き方は、今の私には合っているようです。

だから、毎日が同じことの繰り返しであることが「あたりまえ」なこの時が止まったような町は、私にはちょっと、居心地が悪い。

次男坊の娘で、海外生活が長くて地元に縁が薄くて。
東京で嫁に行き、特に跡継ぎを求められることもない私。

レールを見つけたことも、用意されたことも、一度もなかった私には、この町に居場所はなくて、ちょっとだけ、この社会から爪はじきにされた「要らないもの」のひとつのように感じて、さみしいのです。


背負うものがない不安定な自由と、背負うものを持つ安定な不自由。

どちらもきっと、皮肉なほどに、互いを羨む人生なんだろう。


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