101.「日本人のために カタカムナから生まれた 和語の意義」

今日は、日本人に対する、カタカムナ文献のもつ意義を、日本人の角度から考えてみようと思います。
現代の我々が勉強する科学は、ニュートンやアィンシュタインやメンデルやダーゥィン等の業蹟です。それは我々にとっては、遠い異国の人の考えた、異質な学説です。しかしそれらの人々は、西欧人にとっては身近な存在で、自分たちの教会の墓地にゆけば、そこに眠って居る。日本人にはこういう感じ方がありません。
又、それらの人々の顔は、我々にとっては異人種ですが、西欧人にとっては自分たちのオヤヂに似て居るのです。彼らはその同じような顔をしたベートーベンやモッァルト等の音楽をたのしみ、デカルトやゲーテを誇りにして居ます。しかし我々日本人にはそれがない。
この抜き難い劣等感、この感じは「学問を勉強」すればする程深くなる。もの心ついて以来、我々の教えられた学問も芸術も、みな「西洋」にむかって門を開いて居た。義務教育では、日本人でありながら、「能」の一曲に触れることも無い。西洋音楽や演劇理論の範疇にない「能」やその「ハヤシ」を、西洋人が高く評価して、はじめて見直すという有様です。又、「日本人には真の宗教も真の哲学もない」とか、「日本文化は、よせ集めの月光文化にすぎぬ」などと言われれば、西洋人のモノサシだけが尺度だと思いこんだ日本人は、みづから、輪入のモノサシを当てて、裁いたり反省したりする有様ですから、外国人が、日本民族に固有の尺度のあろうとは思いも及ばぬわけです。
今、一般の知識人には、エレクトロン、オクタント等と言へば一応スラリと受け入れられ、波動性、粒子性等の漢字言語はまだよいが、同じことを、日本の古い和語で、イカツ、ヤタ、イザナミ、イザナギ等と言えば、ヘンな顔をされる。まして、現代日本語にも西洋語にも醸訳できぬ優れた内容をもつ、アマ、アマウツシ、イヤシロチ、サトリ等の言葉を、やむなく原語で言い出すと、内容を判断するよりも前に、何かの神がかりか、マユツパのアヤシゲなイカサマに、騙されまいと警戒されたり、そっぽをむかれたりしてしまう。
 思へば、我々のうけた教育は、日本人の心理を、このように歪曲したのです。外国語を並べれば「学問」らしく感じるが、昔の人のやさしい和語で、現代の科学以上の高度の物理が表現できようとはそれこそ夢にも思い及ばぬのです。一たび日本を離れてみると、よその国の人々は、日本人には、その国の存在など気にもとめられなかったような小さな国であっても、実に自国の文化にプライドをもち、自分たちの祖先を大切に思い自分たちの民族に深い愛情を抱いて居ることに打たれるものです。
それは戦前の日本のような熱っぽい一時的な感情ではなく、静かな、落ついた庶民生活の雰囲気として感じられるのです。私たちも、個人のレベルでは、自分の家柄や祖先の大事さは知って居ます。しかし我々は、自分達の「天皇」を、彼らに正しく説明することさへ出来ない。「ヒロヒトの姓は何というのか?」「何の王朝か?」等ときかれて途惑うしかありません。この事は、皇室の側でも同様で、「戦後はイギリスの王家をお手本に……」などというムードが、あやしまれもせずに、上下に通用して居る有様です。我々は、日本人にとって精神のカテともいふべき仏の教へも孔子の思想も、皆シナ天竺からのイタダキモノであり、科学は西洋から学び、今、我々の使って居る文字さえも漢字から借りた、と思って居ました。
 
遺唐使以来、「学問」と言へば、外国人の智識を、熱心に勉強することであるかの如き錯覚的な態度が、大マジメにまかり通って来ました。外国文化にあこがれ、文字通り生命がけでこれを求めることが、学問探求の最高態度のように思はれ、美徳として疑はれもしなかった程です。そうした心理状態は外国人に弱く、「日本人には宗教も哲学もない」とか、「十二才の精神年令」などと言われても、「そうかもしれん」と反省するような、ナィーブな謙虚さとか、「これではならぬ」と自己起励して、至烈なバイタリティを発輝するという、ありがたい面ももたらしましたが、常に外国人の批判や外国の動向を、不必要に気にし、ミエやテイサイをはるといふ劣等意識が、日本人の心情に、数々のヒズミをおこさせてしまったのです。
日本人は、日本人でありながら、あまりにも自分自身を知らなかった。孤立した島国という条件から、今までは知らないですんで来た。知る必要はなかった。しかし、最近ではこの事に気付き、今度は異常なまでに知りたがって居る。日本人程、外国人の日本に対する評判を気づかう民族は無く、自分の国が、外国人にどう思われて居るか、どう扱われたかにピリピリと神経質です。ラジオ・テレビ・雑誌でも、この主題があきもせずにくり返へしとりあげられるところは日本以外にありません。
といふより、よその国では、そうした事を気にする発想のしかたが、日本人のように、民族の共通感情にまでなるという事はないから、日本程、テレビ番組にも新聞ダネにもならぬのです。ところが日本人は、実にリチギに、自分自身のことをアアでもないコウでもないと反省をたくましくし、外国人に何か批判されると猛然と反応する。これは要するに、日本人のどういうところが他の民族と違って居るのか?その違い方は、日本以外の他の民族間の違いと、どう異るかについて、日本人自身知って居ないという事なのです。
そしてその事は、少しくらい日本に住み、日本語を話せる程度の外国人にはわかりようのない事で、合の子や帰化人にもムリなのです。自分たちが彼らとは違って居るといふ事実は、折にふれヒシヒシと感じられる。外国人に触れる機会が増すにつれ、とりわけこの事は、日本の知識人共通の最大の関心事となり、ことごとに外国では……とか、日本人は……等と、分析したり、たしなめたりする事が、日本の評論家と称される知識人の、最も重要な仕事となって居る観があります。人々は、たまたま核心をつくような発言にあうとひどくこたへ、しかし解決策は無し、一旦、落ついてみると、どうもそれだけでは承服できない。どうもそれだけではないと感じ出し、なほさら気になって、時にはそれが劣等感を助長し、カタカムナに辿り着くまではあるいは独善的に変貌して現はれ、それが外国人の誤解をかい、それを又日本人が気に病む、という有様をくり返えして居たのです。
 
そしてそれはカタカムナが発見され、解読されることによって、そこから大きな研究のスタートが始まったと思われます。
 
今日はここまでです。


 

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