106.「カタカムナが解き明かす図象文字は現代物理学より根源的高度物理学」

  今日は楢崎皐月先生がはからずも入手して、遂に解読し得た「カタカムナ」の内容は、従来の、国学や神道研究による、古事記日本書紀等の解釈とは、全く趣の異なるものであった。個々の単語には同じものがありますが、古代神秘思想的な臭いは全く無く、しかも、現代科学とは、別体系の高度な物理に基く、哲科学が展開されて居た事が判明したのです。又、所謂「神代文字」として言われて居るものは、カタカムナの図象文字ではありません。それはおおむね、古事記以前の頃の、象形や朝鮮文字記号類似のものが多いのです。日本の古代の研究は、決して、古事記や万葉集がゆきどまりではなかったのです。
 カタカムナの図象文字や、カムヒビキによって伝えられた、これらの日本最古の五・七調のウタこそ、後に万葉のウタへも、又、爵曲にも、和歌・俳句にも発展した源流であり、真に、漢字渡来以前の「日本の文化」を、ありのままに示す、古代日本人のココロのヒビキに他ならぬものであったのです。しかも、それは、単に日本民族の起源のみならず、およそ「人間の文化」というものの「原点」に迫りうるものであることを、確信するに至ったのです。そして、ひいては、今日まで、ナゾのまとであった、日本史に於ける「天皇家」の立場をはじめ、古事記・日本書紀等の文献や、モロモロの古文書等の、正当な価値付けも、可能となす程のものでありました。
 「日本人の起源」は、「天皇家の起源」と、同一でなくてもよい、と考えても、差支へのない現代になって、このカタカムナの文献が出現した事は、まことに意味が深いことです。国家には興亡がありますが、民族は国家とは別に生きつづけるものであり。私達は、日本という「国家の起源」をではなく、我々日本語を使う「民族の起源」を明らかにしたい。むしろ、「国家」という枠にはめられる事でゆがめられた本性を、正すことによって、民族の、1人1人の「人間」という生き物の、本来の生き方を見直したい。
 しかし、フランス人はフランス語を誇りとし、その民族を愛するのが自然であるように、我々は日本語を誇りとし、その民族に愛着をもつのが自然であろうと思われます。おおむね民族は、国家と結びついて運命を共にして来た。民族と国家とは、区別ができない事が多く、人々も混同している事が多いのですが、しかし、民族は自然発生であり、国家は人為的、二次的なものです。「民族愛」と、「愛国心」とは、本来、次元の異なるものなのです。どの民族に於ても、個人としては、善良な夫であり父親である人々が、国家とか軍とか、大きな社会組織の中にあっては、おそるべき虐殺や、公害の執行者たり得ることもあります。ナチスやべトナムやミナマタ病など例をあげるまでもありません。個人としての人間と、社会組織の中の人間とは、別の人格をもつことになる。「個人」の人格や意見というものが、「社会」という巨大エネルギーの中では、無力に等しい現代のような世の中で、カタカムナ等という上古代人の文化をもち出す事に、何の意味があるか?という批判があります。たとえ、その文化が、いかにすばらしいものであったとしても、それは、カタカムナ人の生きた、上古代に於てこそ可能であったので、それは、もはや現代社会とは無縁のものです。なるほど、カタカムナの古代は良かったかもしれない。しかし、ひとたび異民族(天孫族?)が攻めて来たら、それは忽ち亡んだではないか?天孫族が勝った、という事が、近代化への進化の第一歩であり、古代文化は、古代に於てのみ成り立ち得た。古代とは、個人と個人の関わりの時代であり、それは、今日でも、個人と個人の間では生き得る世界です。しかし、個人の間でなら通用するものも、大きな集団社会となれば、もう別な力が発生するのです。従ってカタカムナの文献を保存し、個人のレベルでそれを尊重し、伝える事には文句はないが、それを出版物として世に問う事は意味がない。このような批判があるのも当然です。民族の原点を辿り、大本に帰って出直そうという運動が、「夢よもう一度」の感傷となり、「昔はよかった」と、歴史を逆行させようとする、ムダな努力に終り勝ちなのは、本来、「個人」の問題として扱はるべきものが、何らかの意味で、団体組織をもち、社会的に発言し出すと、忽ち「個人」の意志以外の力が発生し、本来のスガタを失い、「事、志と異る」結果となるからでしょう。
 例えば宗教に於いても、優れた思想家によって、人から人へ、直接に伝って居る間は、その精神は正しく生き続けますが、一たび、社会的な組織をもち、支持者がふえてくると、本人にはそのつもりはなくても、対外的には「挑戦」となって「抵抗」をまねき、内部的には、正しい理解をもたない未熟な信者があらわれ、それが又、対外的に誤解を増す原因となり、およそ運動というものは、大きくなれば初期の目的をソレてしまいますし、大きくならなければ、何の力も持たないという矛盾をはらむものです。
 カタカムナの文献が、数万年後の今日の私達の手に伝えられるまで温存し得たのも、それが、何ら社会的に参与しようとせず、個人の私物として、壁の中に閉じこめられる位に隠され、その内容は全くわからなくなる程に隠されたことによって、ようやく「消滅」だけは免れたのです、もしそれが、少しでも表に出て、何らかの「運動」を起して居たら、モトもコも無くすことになって居たかもしれません。このようにして私たちに伝えられたものを、今、私達が世に出すにおいては当然大きな配慮がなければなりません。私達が、個人の勉強会の「会誌」という方法をとって居るのは、これが、あくまで「個人」の問題である、という、本筋をわきまえているからです。「運動」は、社会や政治や学問の場に於ては有力ですが、個人の精神の問題は、「運動」によって片付くものではありません。


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