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『探墓行』琴古流系伝承者の墓巡り☆前篇


尺八好きが高じて「サムライ」に見切りをつけ、江戸にて尺八で身を立てることにしたとある福岡藩士。琴古流の元祖、黒沢琴古である。本名音次郎。

博多・一朝軒の誰かについていたであろう。そして長崎・正(松)寿軒の一計から古伝三曲はじめ七曲を習い、恐らく江戸を出たところで、縁あって「黒沢家」の養子となる。その後、江戸、京都で多くの曲を仕入れたり、曙調子、雲井調子の手付けをしたりなどする。製管でも名人で、現在まで残っている尺八も多い。

参照・神田可遊著「虚無僧と尺八筆記」


本名、

音次郎

という名が運命だったのか!


そして、二代目、三代目と続き、その後多くの門人が誕生する。

大師匠、竹内史光師もその一人だ。

(私は竹内史光師が創立した全国古典尺八楽普及会で古典本曲のみを習ったので琴古流の曲は一曲も吹けない…)


今回は竹内史光師の源流と言える琴古流の大師匠たちの墓巡り(墓参り)をさせて頂いた。させて頂いたというのは、尺八研究家の神田可遊氏が多くの尺八奏者やその奏者に纏わるお寺を巡る『探墓行』を企画していて、その予行演習に同行させて頂いたのだ。今回ここで紹介する琴古流系の探墓行はその一部。私は健脚な神田氏に遅れを取らぬようひたすらついて行っただけ。汗



まず最初は港区芝にある、


吉田一調の墓


浄土宗 西應寺


最初のオランダ公使宿館跡がある。

安政五年(1858)七月に締結された日蘭通商条約により、翌六年九月一日、オランダ公使宿館をこの西応寺に設置した。


吉田一調は文化九年(1812)生まれの旗本。

18歳の時に久松風陽(琴古流四代目)の弟子となる。

普化宗廃宗に際し、二代目古童(竹翁)とともに明治新政府に、尺八を楽器として残してもらうよう交渉したという人だ。

墓標には「墳墓」と書いてあり、下に「吉田」


目立って古いお墓である。

実は、このお墓にかかっている白いものは「こちらのお墓についてご存知の方はご連絡を。」というような意味のメッセージが書かれたもの。

それは大変と、神田氏は住職にお会いして、事情を伺ったところ、10年程前からこのお墓の面倒を見てくださっていた方から連絡が途絶えたとのこと。こちらのお墓の吉田一調とは、これこれこのような方でと説明し、今すぐには無縁仏とはならないように、おご親族が途絶えたのであれば琴古流の何処かで何とかしなければなるまいと、神田氏が今後どうするか思考を巡らせておいででした。

話をしている住職と神田氏

記念碑と違いお寺のお墓となると面倒を見る人がいなければならない。費用がかかる。お墓問題は社会問題でもあるが、尺八の歴史に名を残すような人でもそのような問題に直面するという、世の中なのだ。

神田氏は、青森での探墓行でも同じ事があったそうな。その墓は後日、親族が見つかったそう。



「墳墓」とは、「いかにもあっさりしている」と神田可遊氏が『虚無僧と尺八筆記』の尺八名人奇人伝の「吉田一調」にも書いてありますが、もしかして「墳墓」に他の意味があるのかもしれないと思い調べてみた。

ふん‐ぼ【墳墓】
〘名〙 (「墳」は盛り土のある墓、「墓」は盛り土のない墓所の意)
① 死体や遺骨・遺品などを埋めて供養する所。木や石などを立て、墓じるしとしたもの。また、日本では古墳、飛鳥・奈良時代の火葬墓、中国では墳丘をさす。はか。つか。ぼち。
※続日本紀‐宝亀一一年(780)一二月甲午「今聞。造レ寺悉壊二墳墓一、採二用其石一」 〔周礼‐地官・大司徒〕
② (「史記‐留侯世家」の「天下游士、離二其親戚一、棄二墳墓一、去二故旧一」による) 祖先代々の墓がある所。故郷。ふるさと。墳墓の地。

日本国語大辞典

殆どの辞書は「墓」という意味しか無いが日本国語大辞典にのみ、「故郷。ふるさと。」といった意味がある。

それを知ってしまうと、ますます切ない。

が、

調べておいてなんですが、昨今のお墓には故人の好きな言葉なのか、例えば「感謝」「信」だとか墓碑銘として彫られたりしていますが、オーソドックスに「吉田家の墓」ということなんだと思います…。



川瀬家と原如童の墓


臨済宗 全生庵 



川瀬家の墓


隣には素晴らしい観音様像が立っている。
残念ながら写真は無いので、是非足を運んでお参りして頂きたい。


偲ぶ碑
初代川瀬順輔(竹友)(1870-1959)
旧水野藩士、川瀬賢造の長男として山形市に生まれる。虚無僧榊原三虚山師の門付けに感銘し、尺八を学びはじめる。
21歳で上京、二代目荒木古童(竹翁)に入門し、また上原六四郎師(虚洞)に日本音楽の原点と符点式楽譜を学んだ。普化宗廃止の反対嘆願に奔走す。その後、尺八の発展につとめ、明治33年より全国を虚無僧行脚。尺八楽譜を符点式により手書きで仕上げ、明治33年に楽譜の出版始め、琴古流尺八宗家竹友社を創立。


本人の墓は多磨霊園にあるが、二代目の三十三回忌にあたり、分骨したそうな。


こちらにも初代川瀬順輔師の事が少し書いてあります。


明治になってすぐに生まれた初代川瀬順輔は17歳で山形県庁に雇用されるとのこと。


幕末の頃の水野藩とはどういう藩であったのかというと…、


1869年、幕末から明治維新の山形藩(いまの山形市にあたる)の筆頭家老として国元を預かる、水野元宣 もとのぶ、天保14年(1843年) - 明治2年(1869年)が処刑される。

水野元宣は、遡ること、2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政に携わる水野忠元の弟水野守信の子孫。

天保の改革に失敗した幕府老中首座の水野忠邦が失脚し、1846年に忠邦の長男である新たな主君の水野忠精が移封となり、浜松から山形に移住した。

同年水野元宣の父、水野元永は特段の咎めがないにも係わらずお役御免蟄居を言い渡され、筆頭家老を退く。元宣が家督相続するとともに、家老に昇格。さらに1861年に筆頭家老に就任した。

その僅か二年後に、藩主忠精は将軍家茂の突然の逝去に合わせて老中を罷免され、さらには隠居を申し付けられたため、僅か10歳の水野忠弘が新しい山形水野藩主となる。忠精・忠弘親子は元老中首座という立場から警戒されることとなり、朝廷を味方に取り込んだ薩長主体の新政府に勤王を誓約させられ、京都に軟禁状態で留めおかれた。

この難局に元宣が藩主父子に代わり、重臣らとともに国許を取り仕切ることとなった。

元宣自らの責任で奥羽越列藩同盟に署名、藩の武装装備から考えて負け戦と分かりつつ新政府軍と戦うものの、山形藩に戦火が及ぶことは食い止めた。一方で、戦況不利と見た奥羽列藩同盟の雄である仙台伊達藩、米沢上杉藩などは早々に降伏を決め、新政府側との根回しに入った。意図せず取り残された格好となった山形藩は、元宣が謝罪降服のために奔走し、自ら首謀者として名乗り出て、責を一身に負って山形藩地の長源寺で処刑された。


奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめいとは、

戊辰ぼしん戦争(1868年戊辰の年に始まった討幕派と旧幕府軍との戦争)に際して,東北・北越諸藩の間で結ばれた反政府軍事同盟
仙台藩・米沢藩などが中心になり徳川慶喜 よしのぶ の寛大な処分と会津・庄内両藩の赦免を求めたが新政府に拒否されたので,1868年5月,東北・北越の31藩が同盟して新政府に抵抗,9月官軍により平定された。

旺文社日本史事典


水野元宣の功績

山形藩、すなわち現在の山形市が戦火を免れたのは元宣の功績とされ、豊烈神社に合祀された。今年の2022年には、クラウドファンディングで資金を集め、銅像が再建されたそう。


話は少々遡りましたが、老中水野忠邦に翻弄された、出石藩のお家騒動、仙石騒動のことを思い出します。責を一身に負って処刑されてしまった元宣ですが、彼の功績で多くの命が救われたんですね。水野藩士であった川瀬家も戦でどうにかなっていたかもしれないと思うと元宣氏に感謝である。合掌



そして、同じ墓地内にあるのが、



原如童 はらじょどうの墓

正面「如童原信存之墓」


1833-92年 幕末-明治時代の尺八奏者。

筝曲作曲家・琴尺八演奏家。
本名、原信存。茨木水戸出身。
幼くして松延定雄に師事。
22歳で川越藩医・原泰原の養子となる。
技芸・資性に優れ、糸・竹・管弦をこなす。

二代目荒木古童(竹翁)に師事し、一派を創立する。


そして、

このお寺、全生庵には幽霊画コレクションがあるのですが、何と竹思庵一静画の「一節切を持つ幽霊」という幽霊画があるのです!👻

0:25あたりです。一瞬です。

竹思庵一静とは、
生没年、詳細不明。


一思菴・神谷潤亭と名前が似ているあたり、一節切奏者であったかもしれません。


こちらの幽霊画コレクションは、幕末~明治期に活躍した落語家・三遊亭円朝(1839~1900)が蒐集していたもので、伝円山応挙というものから、柴田是真、菊池容斎、松本楓湖、伊藤 晴雨、河鍋暁斎などによる作品。毎年、円朝忌の行われる八月の一ヶ月間、幽霊画展を開催しているそうな。

これは珍しいので是非行ってみたい!


さて、

脱線したりなんだりで長くなったのでここで一旦休憩🍵

後半は、初代古童から二代目古童の荒木竹翁、久松風陽の墓に参ります!

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