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尺八ルーツを辿る☆近代篇

最近、というか随分前からですが、自分のルーツを探るファミリーヒストリーなんてドキュメンタリー番組なんてありますね。私自身の先祖の歴史など、多分100年以上遡ってもお百姓さんなので人に話すほどのことも無いです…、が、自分の尺八のルーツは話さねばならない事なのです。


なぜ、話さねばならぬというかは、それは古典尺八界では大変重要視されるのです。


誰から習ったのか。
そしてその習った人は、それまた誰から習ったのか。


誰に聞かせるでもなく、一人で吹いてるなら何も問題ありませんが、この曲は虚無僧が吹いていた曲です。なんて言ったからにはその証拠がいるわけです。


その、虚無僧が吹いてた曲ですっていう証拠が、自分の習った師匠が誰かで分かるということなんです。


要は、本物か偽物かルーツで判明するということです。人に伝承している以上、その証拠が必要なのです。


「本物本物って煩いんだよ。」


なんて呟いている大物とされる尺八演奏家もいたりしますが笑


西洋の音楽のように作曲者がきちんと楽譜を残している音楽ではなく、口伝で伝わっている古典本曲は、そのままの形で後世に伝承しなければいけません。
それを忠実に真面目に実行している人の中の一人が、私の大師匠である竹内史光(たけうち しこう)という人です。


おかげさまで、私は胸を張って虚無僧尺八を吹いてますと言えるわけです。(ここまで言うとかえって胡散臭くなる?笑)


レコード「古典尺八楽全集」より

今回はそんな貴重な近代の尺八奏者である竹内史光師の歴史を辿りたいと思います。


そもそも、普化宗って?


虚無僧尺八である普化宗は、1871年(明治四年)に廃仏毀釈により廃宗廃寺とされます。
全国に多い時は200以上あったといわれる虚無僧寺は見事に解体され無くなり、そこにいた住職は還俗。元虚無僧の記録はほとんどありません。
寺にあった本尊や厨子などの寺宝は、かろうじて別寺に保護される形で今でも保存されている物もあります。

新政府側から尺八そのものも無くされる勢いでありましたが(か、どうか真相は分かりませんが)、吉田一調(尺八三曲会の中心)が説得。その後1890年、樋口對山が明暗教会設立し虚無僧活動を行う事が許された。


京都の明暗寺は1950年(昭和25)宗教法人明暗寺認可。その後、東福寺塔頭・善慧院(たっちゅうぜんねいん)内に合寺され、普化尺八明暗流の尺八根本道場になりました。善慧院には住職と、明暗尺八の法系を継ぐ尺八看主がそれぞれいることになります。


…と、普化宗は廃宗になってから、20年後に明暗教会として再び復興、79年後に宗教法人として普化正宗総本山明暗寺が再興されたわけです。


尺八の明暗寺に関して詳しくは明暗導主会のHPをどうぞ↓


今回は近代史ということで普化宗の源流には触れませんが、普化宗について気なっている方はこちらをどうぞ↓




それはそうと、普化宗やら虚無僧やらは伝説的要素がとても強いので、ネット上にバラまかれている適当な情報を鵜呑みになさらない様に。そもそも、普化禅師は弟子をとっていないので普化宗という流れは無いはずなんですが…、勝手に虚無僧は普化宗を名乗っているわけです。



ま、それはさておき、


明暗教会を設立した樋口對山とは?


1856年生まれで本名は鈴木治助。浜松にあった虚無僧寺普大寺の、玉堂、梅山に師事した兼友西園に尺八を学び鈴木孝道と称したが、1885年(明治18)30才の時に西園流本曲十一曲携え京都に出て、鈴木對山と名乗り明暗教会の設立に尽力。生田流箏曲(京流)に堪能な樋口家に入籍し樋口對山となる。その後上京して琴古流系の荒木古童、滝川中和から数曲習得、その後奥州流や一朝軒伝曲等とり入れ、自分流に製曲し晩年には30数曲になる。


と、いうことで明暗對山派といわれる伝承の曲は、樋口對山が今迄の古典の曲を整えて楽譜にまとめたものとされています。



明暗對山派、つまり現在の京都明暗の祖、樋口對山は、上京して荒木竹翁(二代目荒木古童)にも学んでいる。明暗對山派の曲に『一二三調』から『鹿の遠音』まで琴古流の曲が入っているのはその所以であるとのこと。(神田可遊著『虚無僧と尺八筆記』より)


結局、浜松の普大寺も一月寺の末寺なので、兼友西園に尺八を学んだ樋口對山の明暗對山派の曲は、関東の流れを汲んでいるわけです。


樋口對山について詳しくはこちら↓



こちらは琴古流系図

かなり昔に師匠からもらったもので出典元不明で画質が悪くてすみません。

竹内史光師の流れは青色の枠。緑の枠も史光師の師匠たちである。


では、ようやく



竹内史光師 (たけうち しこう)の略歴!


まずは史光師の師匠の面々。

竹内史光は、遠藤光洲に琴古流尺八を学び、初代川瀬順輔の元でも修行。師の紹介を得て、谷北無竹より明暗對山派本曲を伝授、折登如月乳井建道から根笹派錦風流、小山峰嘯から越後明暗を学んだ。また大阪の廣沢静輝より古典本曲、錦風流、明暗流、布袋軒鶴の巣籠を伝承。錦風流は折笠竹影からも伝承している。その他、明暗對山派の塚本竹甫や、塚本虚童稲垣衣白などからも学んでいる。



年表


第二次世界大戦下、当時20代であり軍事動員された経験を持つ史光師の尺八黎明期を詳しく辿ります。


大正4年(1915年) 岐阜県関市に生まれる。

遠藤光洲師に琴古流尺八を学ぶ。

昭和10年(1935)20歳 
師範となり尺八教室を開く。岐阜市美園町三木田方(1935-38年)
(当時月謝は一円五十銭くらい)

〈日独防共協定〉

昭和12年(1937)22歳 
竹友社宗家に内弟子として3ヶ月間修行。琴古流の奥義を学ぶ。(専門家の指導力強化の為)この期間に本曲一通りを習得。
曹洞宗に坐禅修行。

この間、折笠竹影師につき錦風流を学ぶ。
折笠竹影師は、二唐影空師の弟子で竹友社の人。横浜在住。
二唐影空師は、津軽の由緒ある寺で、錦風流尺八の祖・伴建之師の菩提寺でもある誓願寺の追善掲額にも名前がある人。
この掲額は、伴建之師を称え門弟月影や同好の人々50名で明治20年11月2日に掲額したもの。

帰郷後、名古屋にて教室を開く(名古屋城近くの食堂の二階)

〈盧溝橋事件〉日中戦争が日に日に激化。

会員は毎日の如く軍隊に動員される。
体調を崩し郷里関町(今の関市)に帰郷。

再び東京に修行。

昭和13-15年 
岐阜県関市いろは町稽古時代(木村一夫氏 代稽古)

史光師不在の時、空家を一軒借りて稽古場に。赤字の時は虚無僧をして基金を作ったとのこと。

昭和15年(1940)25歳 
賀茂野駅前稽古場時代。(岐阜県美濃加茂市)

昭和16年(1941)26歳 
大阪、広沢静輝師療養中の為、代稽古に行く。

照慶寺稽古時代(岐阜県関市)

〈真珠湾攻撃〉

昭和17年(1942)27歳 軍事動員 

昭和20年(1945)30歳 終戦後シベリア抑留

昭和23年(1948)33歳 無事復員 
11月18日舞鶴に上陸。故郷関駅では大勢の出迎え。


大勢死んだ中でたまたま拾って帰った命を、自己栄達の為には使うまいぞ。必ず世の為になる事に使うんだ。そうでなければ彼の地で戦死した大勢の戦友に申訳が無い、と心に誓う。


宗家の初代川瀬順輔師に東京での活動を勧められるが、先の決意と、芸術の中央集権主義は今後改めていかなければならない問題であるとの意向を伝える。その後中部地方で多くの門人を育てる。


昭和24-38年(1948-63)
川上先生方稽古場時代(関市金屋町) 

昭和60年(1985)70歳 
開軒50周年「古典尺八楽全集」レコード出版
『開竹友会 思い出の記』出版(以上の年表はこの本からの参照)

昭和63-平成14年(1988-2002) 『中部本曲同好会』

平成2年(1990年)7月 
全国古典尺八楽普及会』より「古典尺八楽譜録」発行。 

平成10年~(1998~現在) 
『尺八本曲愛好会』 岐阜市長良おぶさ 護国之寺にて春と秋に開催。

平成23年(2011)96歳 逝去。



…と、史光師の書いた『開竹友会 思い出の記』を元にざっと昭和期の頃の事をまとめました。

演奏会の記念撮影での史光師。
年月日不明。藤川流光師提供


毎年、春と秋に行われる『尺八本曲愛好会』とは、史光師門下や師にゆかりのある人々が集まる会です。

琴古流、明暗流、西園流の人々が集まり、情報交換がしあえる大変貴重な会だと思います。

昨今の状況で、会は2年行われておらず、ますますの高齢化が心配されます…。(実行委員の一人の方が「後期高齢者ならぬ末期高齢者ではありますが…」なんて自虐されてましたが、でもお元気です。なんとか頑張って頂きたいです。)


私は始めた頃、ぎふ中日文化センターの行われていた『全国古典尺八楽普及会』主催の尺八教室に通っておりました。20年数年前になります。
その頃は講師が代わり中根西光氏が講師でした。このようにカルチャーセンターで虚無僧尺八を(普通の尺八もですが)教えているのは珍しいと思います。今は、大学の邦楽部やサークルなどで尺八を始める人が多いかもしれません。
この会も、史光師が虚無僧尺八を誰でも吹けるようにという考えて、敷居を低くして始めたそうです。


しかしながらカルチャーセンターの尺八講座は当時から参加者は少なく、随分前に無くなったそうです。涙


私自身、尺八の「し」の字も知らず、当然流派も何も知らず始めて、尺八奏者は琴古流も含めて虚無僧尺八を演奏しているものだと思っていました。最近、やっとそうじゃないことを知った次第です。とある楽器教室のHPによると、尺八奏者の8割が都山流で2割が琴古流との集計がでておりました。古典本曲のみの奏者はおそらく1割にも満たないのではないでしょうか。当然琴古流奏者が、全員ではないにしても古典本曲は演奏しているはずなのでもっといるかも知れませんが。



そして初代川瀬順輔師のこと!


初代川瀬順輔(1830 - 1959)
山形県出身。近代尺八の祖のひとりと言われている。

岐阜の師匠宅で見せて頂いたもので出典元不明。
虚無僧姿、カッコいいです。


琴古流というと全般的な邦楽、三曲合奏というイメージですが、やはり最初は虚無僧からスタートだったんですね。


17歳の時、虚無僧の門付けに感激して入門し、その後21歳の時に上京して二世荒木古童(竹翁)に習う。東京音楽学校教授であった上原六四郎師にも師事する。青木鈴慕、山口四郎も、初代川瀬順輔に師事。

明治35年(1902)東京に道場を開き、上原師から学んだ点符式楽譜を基とする新たな楽譜(これが現在の竹友社の楽譜に繋がる)を刊行し、これにより竹友社の組織が確固たるものとなる。

初代は昭和34(1959)年逝去。女婿悌二が二代目順輔を継ぎ、その三男忠輔が三代目順輔を継ぎ、宗家竹友社を率いて現在に至る。


「芸は一代、名は末代」初代川瀬順輔名言


加藤清正の名言『人は一代、名は末代、天晴武士の心かな』の言い換え版。


こちらは流派を超えた三人組み!

中尾都山、谷北無竹、川瀬竹友

竹友とは川瀬順輔師の竹号です。

以前『流派を超えた五人の尺八演奏会』なんて映像があったので興味津々で見ていたら、5人中4人が琴古流でした。

琴古流内に居ないものですから詳しい事は分かりませんが、木々が枝分かれするように、流派もどんどん離れていくのでしょうか。


こちらは初代川瀬順輔師が史光師に送ったもの。

『得月』竹友


『得月』の意味はこちらをどうぞ↓
神田可遊氏宅を訪問した時の話です。



さて、自分の尺八ルーツ三代先までは、聞かれても答えられるようになりました笑



先日、尺八研究家神田可遊氏がこのように嘆いておられました。

誰から習ったのか、ちゃんと習ったのか、どのくらいの期間ついて習ったのか、まったく不明の本曲屋が跋扈しているのです。逆にそれがわかる人はどんなに下手でも評価します。昔、一朝軒の磯玄定和尚が「誰に習ったかもいえん人間がおる」と怒っていたことがありましたが、ここですよね。最低の矜持だけは持ちたい。

ご本人に許可無く掲載してますが、神田氏の危機感は全ての尺八奏者と共有したい事柄でもあるので、あえてそのまま載せました。


矜持、それはプライド。


プライドというと悪い印象もついてきますが、これらは自信につながるのですね。特に何においても自信が持てない性分の私にとっては(勉強ダメ、スポーツダメ、容姿全然自信無い等々…ついでに尺八の演奏もそれほどでも無い…汗)、尺八のルーツくらい矜持が持てれば有り難いってもんです。
そして、神田氏が言うようにどんなに下手でも評価される。そうなんです。上手い下手じゃない大事な何か含まれるのです。


改めて、真面目に伝承して下さった史光師はじめ、先輩方に感謝です🙏❤️



そんなこんなで次回の古典尺八楽愛好会は竹内史光師についてのミニ講座やります〜♪


古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇