面白かった話は面白かったためしがない

・はじめに

友達が昨日見て大爆笑したテレビの内容をきかされるのは、辛い。さぞ面白かったのだろうが、俺は全く面白くないのである。たしかに昨日のその番組は面白いのだろう。しかし、今日きみの口からきいても全く面白くないのである。笑いの二次情報というのは、報道以上にウンコである。そのような経験が皆さんにもないだろうか。自分の見てない漫才や漫画の内容などを友達に口頭で説明されて、しんから退屈しながら、しかし無碍にはできずに愛想笑いと相槌をうったことが。なぜ人の面白かった話が自分にはまったく面白かったためしがないのか、このままではただの愚痴なので、ここはもう少し掘り下げて考察してみようと思う。

・「事件」と「共有と共感」

友達付き合いにおいて、面白くて思わず笑ってしまうこととはどういう状態か。
一つは「事件」である。友達と横並びで歩いていたら、その友達が肥溜めに落ちた、など。ドブに落ちたでもいいし、思いっきりウンコを踏んだでもいい。このような事件が目の前で友達に偶然降りかかると、面白くて笑ってしまう。事件に遭った本人は面白くもなんともないかもしれないが、こちらとしてはその本人の真面目な感じさえ笑いの材料になる。
では、もしその場に自分がいなかったらどうだろう。友達がソロで肥溜めに落ちて、後日その友達からそのエピソードをきく、というのうな状況だ。その決定的瞬間を目撃した衝撃には敵わないだろうが、これもまあまあ面白いだろう。
では、友人が肥溜めに落ちた話を、共通の友達からきく、というのはどうだろう。この前Aと歩いてたらさ、あいつ肥溜めに落ちたんだぜ、と。これも上に同じで、まあまあ面白いだろう。その肥溜めに落ちたAというのがその場にいて、その内容を話してほしくない風の立ち位置にうまく回ってくれたら、これは上よりも面白い。話し手とAの立ち回り次第では、Aから直接きくより面白くなる可能性はある。
上に挙げたような場合、別に自分がその事件の瞬間を目撃していなくても、場合によっては面白くなるのだ。
ではこの場合はどうだろう。友達の友達が肥溜めに落ちて、それを友達からきいた場合だ。これは大して面白くないのである。友達の友達になった瞬間、急に面白味が減るのだ。友達や共通の友達と友達の友達の明確な差は何かといえば、それは同じコミュニティーにいるかどうかだ。人間は自分の属するコミュニティーの外の話では、面白味を感じにくい。
目の前でAが肥溜めに落ちた場合に笑う理由を「事件」としていくと、この場合は「共有と共感」とでもするのがいいかもしれない。自分が肥溜めの当事者であるAと同じコミュニティーにいると、Aが肥溜めに落ちたら面白いのだ。これは自分がAという存在を共有しているからだと考えられないだろうか。また事件で笑った場合にせよ、時を経て事件の笑いが共有と共感の笑いになる。後から酒の席などで肥溜め事件の話をすれば、これも面白い。なぜなら肥溜め事件を共有しているからだ。
このように、日常生活の友達付き合いでの笑いなどというのは「事件」か「共有と共感」がほとんどだといえる。そして事件というのは狙って起こせるものでないし、狙ったら寒いので、友達付き合いの笑いはほとんど「共有と共感」なのだ。だから学生時代の友人と酒を飲みながらする思い出話というのはゲラゲラ笑うのである。
少し話は飛ぶが、この「共有と共感」の笑いというのは非常に便利である。事件以外に、もっと身近な共有と共感がある。それがあるあるだ。なぜあるあるが笑えるかというと、誰もが体験したことがあるであろうことなので、共有と共感が生まれるのだ。だからあるあるネタというのはのは消えない。適当なものを思いつく脳さえあれば、ある種最も簡単に笑いが取れる。これを対人関係でどう活かすかといえば、初対面の人など、あまり親しくない人との会話である。あるあるとは初対面の人間との間にも共有と共感を生み出し、笑わせることができる。デートにこぎつけたけど、女の子を退屈せない会話がしたいのだ〜、などと思っている童貞諸君、あるあるで行け! 一笑いくらい取れるだろう。まあ、その後はきみ次第であり、あるあるだけで落とせるほど現実は甘くないが。

・まとめ

ここで冒頭の昨日のテレビの場合に戻ると、なぜ面白くないかはもう明白である。圧倒的に共有と共感が足りていない。テレビに出てる人達のことなど、パンピーには遠すぎるのだ。そして、そもそもがテレビなどは事件ですらない。人を楽しませるためにやっているある種の予定調和を、友人を介してきいたところで全く笑えない。あくまで俺の説だが、昨日のテレビの話というのは、日常生活で人が面白くて笑う場合における事件、共有と共感のどちらも満たしていないのだ。ただ、もし俺も昨日そのテレビを見ていたら、そのテレビを共有し、また面白さに共感できるので、あらためて笑えるだろう。それ以外は、話し手の話が死ぬほどうまくないとほぼほぼ無理である。しかし、そんなに話がうまいならわざわざ昨日のテレビを話で再現しなくても、もっと人を笑わせることができるだろう。

とにかく、面白かった話は面白かったためしがない。愛想笑いと相槌がマジできつい。あとあれもきつい、ネットでみつけたような面白画像とか動画を見せてくるのもきつい。あんなもん深夜に一人でネットサーフィンしていて自分でみつけて笑えるかどうかって代物なんだから、わざわざ見せてこないでほしい。本当に愛想笑いと相槌がきつい。この記事は愚痴と考察であるが、同時に祈りでもある。世界から面白かった面白くない話に愛想笑いと相槌をうつ謎の時間が消えれば、世界はもう少しだけ平和になるし、人類は争いをやめるだろう。


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