【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ第3作目『深夜の慟哭』第39話

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 一方、こちらはアーシェルの館。新月から一晩経った今、月はごくわずかに、細い細い消えそうな姿を見せていた。紅の月も、白銀の月も共に。

「オリリエ・シェザードと申します。初めてお目にかかります、領主令嬢エレクトナ様」

 ウィルトンの妹オリリエは、ややぎこちない態度でエレクトナにあいさつした。今はヴァンパイアと化したエレクトナが、あらかじめ英雄の妹の身柄を保護するために馬車を使いにやり、ここまで連れてこさせたのだった。

 ここは、アーシェルが女二人だけにしてくれた客間である。客を迎えてアーシェルが応接をする場所だ。だが今、アーシェルの姿はなかった。

 客間の隣の小部屋にはメイドが控え、呼び鈴を鳴らせば来てくれるようになっている。オリリエは、自分では呼び鈴を鳴らさないだろうと思った。貴族の娘であるエレクトナに任せるのだ。

 アーシェルは、オリリエにも丁重に接してくれた。メイドを呼んでかまわないとも言ってくれた。オリリエは、それでも緊張が解(ほど)けず、身を固くして立派な貴族の邸宅の椅子に腰掛けていた。

 アーシェルは、今は庭を出て夜の見回りをしているはずだった。彼がそう言ったから、きっとそうなのだろう。

 夜は静かだった。しんと澄んだ空気が、春の初めの夜風となって流れ込んだ。窓の一つだけは木戸を閉めず、硝子戸も細めに開けてある。

 木戸の内側に、格子の入った木戸があり、さらに内側に硝子戸がある。格子戸だけは閉めて、安全に風を入れている。

 暖炉の日は消えていた。魔術による暖気が室内を満たしている。

 エレクトナは客間の長椅子に腰掛け、低い長方形の卓をはさんで向かいの椅子に座るオリリエを、じっと暗赤色の目で見つめた。

「初めまして、ね。貴女をオリリエと呼んでいいかしら? 貴女の兄、ウィルトン・シェザード殿から貴女のことを頼まれているの。今晩から私の侍女として働いてもらうわ。それが貴女の身を守るのに一番良いやり方なの」

「はい、ありがとうございます」

 ここへ来るまでに、エレクトナから遣(つか)わされた使者から話は聞いていた。最初に馬車が迎えに来たときは驚いたものだ。

 兄の身に起こったことを聞くと、なおさらに驚いた。領主センドは、兄にも、兄の盟友アントニーにも、喜んで相応しい地位と褒賞を与えてくれるとばかり思っていたのだから。

「どうして、こんなことになってしまったのでしょう?」

 はっきりした答えが返ってくるとは期待していなかった。それでもエレクトナに尋ねずにはいられなかった。

「力のある者、大きな名誉を得た者は人から恐れられるの」

「まさか、兄がセンド様に取って代わり、領主になる野心を持っているとお考えなのですか? まさか! 兄はそんな面倒なことはしません。広い領地を治めるやり方など、村の田舎者にどうして分かるでしょうか? 貴族の作法も知らない、家臣の貴族の方々に笑われるでしょう。ええ、きっと妹の私も笑われます」

「作法など後から身に着ければよいし、領地を治めるやり方も、アーシェルや私が教えれば済むの。少なくとも、ウィルトン殿のことは、お祖母様は味方にしておきたかったのだから」

「エレクトナ様、そのような大それたことを」

「あら、貴女の兄はデネブルを倒した英雄よ、おかしくはないでしょう」

 エレクトナは、ほほと笑った。優雅な、どこか妖しい色香を感じさせる笑い方だ。

「私は貴女の兄が領主になりたがっているとは思わないわ。けれど周囲の者が持ち上げてその気にさせるかも知れない。そうお祖母様は、考えているの」

「そんなこと!」

「お祖母様は私に、ウィルトン殿をたぶらかせとおっしゃったわ」

「たぶらかす?!」

「ええ。もっと上品な言い方だったけれど、つまりはそういうこと。でも無理だと分かったの。あの方の盟友とあの方を引き離すなんて無理よ。そうでなければ、私のために戦ってくださる方だったかも知れないわね」

「引き離す? なぜそんなことをする必要があるのですか?」

 エレクトナは、深い赤の目でオリリエを見つめた。オリリエは、心の深奥まで見透かされる思いがした。それは気のせいなのか、とも思う。魔術の明かりが、貴族令嬢をより一層美しく神秘的に見せているから、なのか。

「二人が共にいればより危険だからよ。真のヴァンパイアとしての力を持つ者の方を遠ざけたいの。どの道、アントニー様には自らのお子を成すことはおできにならないのだから、私と婚姻しても無駄ということなの。少なくともお祖母様は、そう考えたわ」

「兄は、ともに戦った盟友を見捨てたりはしません。センド様には、お分かりいただけないのでしょうか」

「分かれば、止む無しね」

「やむなしとは」

「お二人を亡き者にする策をめぐらすのだわ。きっとそうなるのよ」

 オリリエは思わず立ち上がった。貴族令嬢の前で無礼である。にも関わらず、衝動を抑えられなかった。

「そんな、そんな……!」

「そんな顔をしないで。大丈夫よ。お二人が、やられるわけはないのだから」

 オリリエは、令嬢が自分を見上げているのに気がつく。あわてて、腰を下ろした。

「申し訳ございません。ご無礼を」

「いいのよ、愛しい人」

「い、愛しい……?」

 エレクトナは、誘いかけるように微笑んだ。

「ええ。貴女は私の愛しい人。必ず、貴女の身は私が守るわ」

 令嬢は繊細な作りの手を差し伸べて、オリリエの手を握った。

続く

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