突然だが80~90年代のフェミニストがやったような批評をしてみよう
なぜこんなことを考えたかと言うと、諸般の事情からである。
まあ一つには、今は80~90年代のリバイバルブームらしい。私が知るのは、その時代の漫画やアニメが宣伝されたり話題になることくらいだが、他にもあるようだ。
その時代の支配的な価値観、たとえば「やはり男性は女性を弱い者として守るべきである」そんな価値観が見直されるべきだとする、そんな見解もあるらしい。
そんなテーマのハイファンタジー小説がある。
で、もしも80~90年代の価値観がそのままの形でアップデートされずに復活するのなら、それに対するカウンターも、その当時のものをそのまま復活させれば済むのである。
様々な価値観や利害のぶつかり合いがあって、事はここに至っている。その流れを無視すれば、当然に、当時なぜそれが否定されたかも復活する。
もちろんそんな事はしないで、今の価値観で批判してもいいし、実際にはそのほうがマイルドになるのだが、まあせっかくのリバイバルブームらしいので、当時のフェミニストのような批判を繰り出してみようと思う。
フェミニストと言っても、当時からいろいろなタイプがいたと思うが、ここでは、女性の社会進出を目指し、男性と対等な立場になるために、できる限り弱みを見せないように頑張っていた、そんなタイプのフェミニストである。
それでは始まり。
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基本的に男性主人公に助けられる女性たちは、若く美しく高貴で、そして何より男性主人公に従順である。
彼女たちは、それぞれ強みも能力もあるが、それを作中で充分に発揮できることはない。
強さを発揮して、積極的かつ能動的に、戦ったり物事に取り組めるのは、常に男の主人公だけの役割である。
女性たちはそれを感謝して受け取る。このハイファンタジーに出てくる数多の美女たちは、みな口々に男性主人公を褒め称える。
その中のある一人の美女の家族は、その美女に対して、男性主人公と肉体関係を持つように、彼との間に子どもを作るようにと、ほのめかす。
そして男性主人公との間に生まれる子どもは、美女が望むような、優秀な子どもになるだろうと言う。
美女の側は、それを誉め言葉として受け取り、決して、助けられる事と、異性愛の対象となりたい事とは別だという話はしない。
この物語の中では、男性主人公に助けられる事と、男性主人公をほぼ全面的に称賛すること、あるいは恋愛感情を持つことはイコールである。
別にそれだけなら、珍しいタイプのフィクションではない。
問題は、このハイファンタジーを書いた男性の作者自身が、「この小説を読めば、現実の女性の気持ちが分かるようになる」と言っていて、ただ男性の願望を満たすだけのエンターテイメントフィクションとは、全く別物だと述べていることである。
単に、書き手の技術の不足から、そのような小説になってしまったのだと受け取ることもできるだろう。
しかし、だとしてもなぜ、ことさらに美女ばかりが、一方的に助けられるシーンだけを描きたがるのか?
そこには何らかの作者自身のこだわりがあるはずである。
芸術的な小説はエンターテイメント系と異なり、作者自身の考えや好みなどと、作品を紐つけて読み解かれることが多いようである。
であれば、このハイファンタジーにも、ある程度はそういったことが許されるだろう。
未熟なりに、美女が活躍する場面も、逆に男性主人公が助けられるシーンも、書こうと思えば書けたはずである。
それなのに、一方的に美女たちが助けられるシーンの連続なのは、どうしたわけなのだろうか?
そしてなぜ、エンターテイメント系とは違う、リアリティある物語と言いながら、助けられる事と、助けた相手に恋すること、少なくとも強い敬愛の念を持つことが、『必ず』イコールで結びつくのか?
私はそのあたりを大いに疑問に思うのである。
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よし、終わり!
少しパンチには欠けるが、まあ手堅くまとまったかな?
それでは今回はここまで。
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