見出し画像

またあしたもあそぼうね

8年前のミクシィの日記をみてみたら、当時6歳の次男坊の事が書いてあって、今読んだら迂闊にも自分の日記で泣きました。😅
以下コピペ。

去年の今頃こどもがハムスターを飼いたいと言い出した

同じ学童に通う友達の家でたくさんハムスターの子どもが生まれたので
それを誰かにもらって欲しい、と張り紙が出ていた

自分たちで面倒見るなら良いよ
とオッケーしたが
案の定、一月しないで飽きて子どもたちは世話しなくなった
当然世話は父親の仕事となる
そういえば私の父親もインコとか良く世話していたなあ

それでも下の子は気まぐれにではあったけれど、
ハムスターをゲージから出しては良く遊んであげていた

名前はハムスターなのに
リスとつけて

それが先月ゲージの中で
遊具のどこかにはさまったか
落ちたかで背骨をどうにかしたらしい
えさ箱から全然動かず、後ろ足は無反応
動物病院へ連れていこうか悩んでいると
ほどなく痙攣して死んでしまった

明日の朝になったら良くなっているかもしれない、と上の子は言い
死を受け入れられずにいた
下の子は良く理解できなかった様子だった

明日の朝、庭に埋めてお墓をつくってあげようね、と

夜床につくと母が
リスと良く遊んであげてたねえ、だけどもう遊べないねえ
と言った瞬間
下の子が大声で泣いた

遊べない もう遊べない

生き物が
死んでしまうってことがキチンと
自分の実感と照らし合わせて
腑に落ちたんだろう
まるで自分が死んでしまうような
実感として

子どもにとって
生きているってことは
明日も遊ぶことなんだなあ
死んでしまうってのは
もう遊べないってことなんだなあ

はたして
僕ら大人は
明日も遊ぶ希望を持って
毎日を生きているのだろうか
死んでしまったら
代替のきかない毎日を
送れているだろうか

ハムスターでさえ
明日の希望を持って生きていただろうに

また明日も
遊ぼうね

帰り際に友達と交わしあっていた言葉は
大事なものを内包していたんだなあ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?