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プロローグ|クィアのカナダ旅行記|水上文

 ニュースを目にしたのは、カナダから帰ってまだ1週間も経たない日のことだった。
 日本人の女性同士のカップルがカナダで難民認定された、と。
 漫然と眺めていたSNSのタイムラインに、そんなニュースが流れてきたのだ[1]。
ニュースでは、彼女たちが同性愛者や女性であることによって、日本でいかに差別されてきたのかが語られていた。「日本政府や日本の人々に一石を投じたかった」と言っていた。
 50代と30代の日本人女性である彼女たちは、2023年秋に難民認定されたという。カナダ政府の移民難民委員会は、彼女たちの受けてきた扱いを「難民」と認定し得るほどに不当なものだと判断したのだ。
 たとえば移民難民委員会は、同性カップルとしての彼女たちが、同性婚のできない日本では「法律上の家族と認識されず、異性婚夫婦と同じ利益を受けられない」ことを指摘している。また国連女性差別撤廃委員会の日本への所見なども踏まえ、日本には「家父長制的な観念が根強く残る」「職場には女性に対する複合的な形態の差別が存在する」とも言っている。妥当な判断だと思う。そこで言われていることを、わたしもよく知っている。
 なにしろわたし自身が日本で生きるクィア[2]の女性で、いまはライターとしてセクシュアリティをオープンにしているけれど、前に勤めていた職場ではそんなことは到底考えられなかったのだから。前職は、性的マイノリティに関する研修で同僚に「自分の家族にそんな人がいたら嫌だ」と堂々と言われるようなところだったのである。
 いったい誰が、そんな環境でカミングアウトしようと思うだろう?
 とはいえ、おそらく研修をしているだけマシだった。もしカミングアウトしていたとしても、少なくとも研修をやるくらいには建前上「差別はいけない」ということになっていたので、たぶんそれなりに「配慮」されたと思う。職場で居心地の悪い思いをしたかもしれないけれど、評価や昇進に障りがあったかもしれないけれど、わかりやすく不当な扱いをしたら問題であることくらいは認識されていたはずである。最も重要なことに、当時のわたしは正規雇用で働いていた。要するにわたしは、とても恵まれていたのである。
 もっとひどいことはいくらでもあり得た。今も至る所で現にあり続けているのだ。
 だからカナダの移民難民委員会の判断に、異論なんてないのだ。
 にもかかわらず、ニュースを目にした後、わたしはなんだかうまく言葉が出てこなかった。もごもごと言い淀むものがあって、喉の奥に言葉がつかえていた。
 わたしがカナダから帰国したのは5月14日で、ニュースを目にしたのは18日だった。本当についこの間まで過ごしていた国で、わたしのような人たちが「難民」認定されたらしい、ということを、いったいどんな風に捉えたらいいのか、わからなかったのだ。

 トロントを訪れたのは、人生で二度目だった。
 カナダのオンタリオ州にあるトロントは、オンタリオ湖を臨む北米屈指の世界都市である。わたしは2024年の4月後半から5月前半の3週間ほど、トロント(とすこしばかり遠出してマニトバ州ウィニペグというところにも行った)に滞在していた。昨年6月以来、実に10か月ぶりのカナダである。
 わたしはカナダに、恋人に会いに行ったのであった。
 恋人はカナダに住んでいる日本人で、タマ(仮名)という。カナダに住んでもう20年以上になるタマは、猫を愛し(この仮名は本人の希望によるものだが、もちろん猫好きだからタマという名前なのである)、料理が得意で運動と漫画が大好きな、ノンバイナリートランスマスクである[3]。
 要するにわたしたちは日本とカナダの、国際遠距離カップルなのである。
 約3週間のカナダ滞在は、タマと共に過ごすためのものだった。ほとんど毎日ビデオ通話していたけれど、実際に会うのは3か月半ぶりだった。だから心底楽しみだったのだ。
 でも正直なことを言えば、トロント観光にはさほど期待していなかった。
 去年意気込んで観光した結論として、トロントは観光地としてはたいしたことがない、というのがわたしの感想だったのである。たぶんカナダと聞いて、みなさんが思い浮かべるのはメープルシロップか美しく壮大な大自然、あるいは赤毛のアンあたりだろう(ちなみに赤毛のアンはプリンス・エドワード島なのでトロントとは違うところである)。
 だけどトロントには、いわゆる壮大な大自然はない。
 もちろんオンタリオ湖は広大である。なんと言っても四国四県全部を合わせたのと同じくらいの大きさなのだ。湖ではあるのだが、とてつもなく大きいので見ている方の感触としてはまるっきり海である。それはあまりにも広大過ぎて、綺麗に整備された海という感じなのである。カナダと聞いて期待する「大自然」とは別物の、なんというか横浜みなとみらい的に洗練された自然である。
 実際、わたしの個人的な印象だが、オンタリオ湖を臨む周辺の雰囲気は横浜の山下公園や赤レンガ倉庫のあたりに近い。たとえばディスティラリー地区は、だいたいマリン アンド ウォーク ヨコハマだというのがわたしの印象である。なら横浜でいいではないか——誇り高き横浜市民であるわたしは、トロントまで行った挙句そんな風に思ってしまったのだ。
 でも、トロントにさほど見るべき場所がなくても、横浜の方がトロントより上だと内心思っていても、まあなんでもよかった。タマと一緒に過ごすことさえできればよかった。
 わたしはタマに会うために、はるばるカナダまで行ったのだから。

ハーバーズ・フロントから見たオンタリオ湖の光景

 だけどそんな風にカナダに行って帰ってきたら、自分のような人がそこで「難民」認定されたというのだ。それは否応なしに複雑な気分になるものである。だって、ついこの間までわたしもそこにいたのだから。どう考えればいいのだろう?
 別にニュースに驚いているわけではないけれど、もちろん、確かにカナダと日本の状況が大きく異なるのは事実だと知っているけれど、それでもなんだかあまりにも近しくて、うまく受け止められなかったのだった。
 たとえば、日本では同性婚は未だ法制化されておらず、自治体のパートナシップ制度は法律婚で得られる保障にはまるで足らないけれど、カナダではもう約20年も前に同性婚が可能である[4]。さらにカナダの場合、1年以上同棲しているカップルは「コモンローパートナー」として法律婚とほとんど変わらない法的保護を受けることもできる。
 またトランスジェンダーをめぐる権利擁護の状況をランキング化したリストによると、日本が88位のD+なのに対して、カナダは3位のAランクである[5]。
 なぜなら、まずひとつには、日本では法的な性別変更にあたってひどく厳しい複数の要件があるけれど、カナダでは法的な性別変更に手術は必要なく、いくつかの州では成人なら医師の同意も必要とされないから[6]。それから、日本には性的マイノリティを対象とした差別禁止法が存在しないけれど——「理解増進」という珍妙な言葉を冠した理念法しかない——、カナダの人権憲章には性的指向も性自認もジェンダー表現も差別禁止事項のうちに含まれているから。もちろん、ヘイトクライムを罰する法も存在する——性的マイノリティのみならずあらゆる属性への差別がそうなのだが、日本ではヘイトクライムが差別の一類型として法的に位置づけられておらず、ある事件をヘイトクライムと認定するための基準や公的なガイドラインが存在しない——からである。
 さらにカナダのパスポートには、2017年から性別欄に男性でも女性でもないXを記載できるようになっている。パスポートは基本的に国外へ出る時に使うものなので、Xの記載を想定していない諸外国へ行く時にトラブルになることもあるようだけど、ともかくそのような選択肢が存在する。またカナダでは各州で出生証明書が発行されるのだけど、複数の州で出生証明書にXを記載できるようになっており、中には性別欄の記載自体を失くせる州もあるという。つまり実生活の運用における困りごとはまだまだあるだろうけど、少なくとも性別二元論はすべてではないということが、公的に承認されているのだ。
 一言で言えば、法制度的にカナダと日本はずいぶん大きく異なるのである。
 だからこそニュースの中の彼女たちは、日本を出てカナダに渡ったのだった。

 ニュースはちょっとした話題になって、いろんな人がいろんな風に反応していた。
 なかには「日本の状況が酷いことはわかっていたけれど、難民認定されるほど厳しい状況の中で生きているのかと思うと改めて辛くなる」と言う人もいた。
 ニュースを知らせるポストについた大量のヘイト——性的マイノリティは日本から出ていけ、といった内容——に批判的に言及し、「日本の同性カップルの苦境を、このポストについた反応が証明している」と言う人もいたし、「日本には同性愛差別なんてない、と言う人もいるけれど、これでもう否定できないはず」と言う人もいた。
 カナダで難民申請しようかな、と言う人もいたし、そもそも難民申請するまでにすでにハードルが存在すること——たとえば就労を継続することができず、だから移動するために必要なお金も、差別されたという認定の証拠になるものも持たない性的マイノリティは多い——に注意を促す人もいた。
 共感できるものもさほどできないものも含めて、少なくとも上記にあげた反応は、どれも不可解ではなかった。でもわたしは、自分の言葉を発することができないままでいた。
 だって本当にぜんぜん、他人事ではなかったから。
 なにしろわたしとタマも、いわゆる戸籍上「同性」のカップルとして、彼女たちと似たような困難に直面することはあるのだ。たとえば彼女たちは日本では同性婚ができないために「家族」として扱われず、だからこそカナダに渡ったのだけど、日本での扱いで言えばわたしたちも同様なのである。いろんなことが確かにぜんぜん違うのだけど、でも部分的にはあまりにも近くて、重なって、なにを言うべきかどんどんわからなくなる。言葉は滞り、指の間から零れ落ち、手短にはとても表現できない思いが渦巻いていく。カナダと日本とクィア。いったいどう考えればいいのだろう? どんな風に言葉にできるだろう?

 この旅行記は、それを言葉にするためのひとつの試みである。
 日本で生きるクィアのひとりとして、言い淀んだままになったものを言葉にしたいと思ったのだ。わたしたちが「難民」認定される国とは、いったいどんなところだっただろう? 実際カナダと日本では、何がどんな風に違うんだろう? どうしようもなく、そういうことを考えさせられたから。たったの3週間たらずの滞在で何がわかるはずもないのだけど、わたしは自分なりの印象を、自分の言葉で書き記したいと思った。他人から伝え聞いた言葉の向こう側にある現実の生活に、ほんのわずかでも触れてみたかったのだ。


【註】
[1] 大貫聡子・花房吾早子「日本人女性カップル、カナダで難民認定 「日本で差別逃れられない」指摘」『朝日新聞』2024年5月19日(https://www.asahi.com/articles/DA3S15937616.html)。
[2] ここでは「クィア」を、シスジェンダー(トランスジェンダーではない人のこと)の異性愛者を「標準」とする社会で、異物とみなされ得るあらゆる人を包括するカテゴリーとして用いる。クィアという言葉は、過去には男性同性愛者に対する蔑称(日本語では「変態」などの意味)だったけれど、性的マイノリティの権利運動の中で意味づけ直された言葉である。侮蔑を否定するよりむしろ「何が悪い?」と言わんばかりに引き受け、自ら名乗り、ネガティブな意味を反転させるパワフルな運動の成果が刻まれた言葉なのだ。クィアという言葉の社会運動的かつ理論的背景については、新ヶ江章友『クィア・アクティヴィズム——はじめて学ぶ〈クィア・スタディーズ〉のために』(花伝社、2022年)を参照のこと。
[3] ここでは「ノンバイナリー」を、性別二元論にあてはまらない様々な人を包括する言葉として用いる。ただノンバイナリーにアイデンティファイする人は極めて多様であり、人によってニュアンスが異なる場合も多々ある。日本語で読めるものとしては、エリス・ヤング(上田勢子訳)『ノンバイナリーがわかる本——heでもsheでもない、theyたちのこと』(明石書店、2021年)やマイカ・ラジャノフ/スコット・ドウェイン編(山本晶子訳)『ノンバイナリー——30人が語るジェンダーとアイデンティティ』(明石書店、2023年)が参考になる。また「トランスマスク」は、トランスマスキュリン transmasculineと互換的に用いられるもので、ジェンダー・アイデンティティやジェンダー表現が男性的——ただ必ずしも男性のアイデンティティを持っているわけではない——な、出生時に女性を割り当てられた人を指す言葉である。もちろん、ノンバイナリーやジェンダー・フルイドな人々を含み得るものだ。Gillespie, Claire. “What Does It Mean To Identify as Transmasculine?” Health, October 17, 2023 <https://www.health.com/mind-body/transmasculine>を参照のこと。
[4] 日本における婚姻の平等については、2024年現在、裁判が進行中である。「結婚の自由をすべての人に」訴訟全国弁護団連絡会『同性婚法制化のためのQ&A』(岩波書店、2024年)を参照のこと。
[5] Fergusson, Asher & Lyric. “203 Best (& Worst) Countries for Trans Rights in 2023.” June 05, 2023, https://www.asherfergusson.com/global-trans-rights-index/.
[6] 日本における、法的に性別を変更するための法律(=性同一性障害特例法)で定められている要件やその問題点については、高井ゆと里編『トランスジェンダーと性別変更——これまでとこれから』(岩波書店、2024年)が参考になる。

【連載の概要】
2023年6月に北米最大級のプライドパレード「トロント・プライド」を訪れ、そこで見聞きしたことを自主制作本としてまとめた著者(同年11月発行『クィアのトロント旅行記』)。本連載では、およそ1年ぶりのトロント再訪と滞在の経験を通し、プライド月間に限らない、カナダのクィアの日常について報告する。個人的な旅行記ではあるが、個人的なことこそ政治的である。カナダの旅を通じて、日本の現況を改めて照らしたい。

【著者略歴】
水上 文(みずかみ・あや)
1992年生まれ、文筆家。主な関心の対象は近現代文学とクィア・フェミニズム批評。文藝と学鐙で「文芸季評」を、朝日新聞で「水上文の文化をクィアする」を連載中。企画・編著に『われらはすでに共にある――反トランス差別ブックレット』(現代書館)。

注記:写真はすべて著者が撮影したものです。

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