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Belonging|まちは言葉でできている|西本千尋

手つかずの暗い森

 飛行機でとある地方都市に降り立ち、周辺集落まで車を走らせる。車窓から目に映る景色は、どこまで行っても暗い杉林の早送りであり、何千、何万という鉛筆のような杉林の屹立する景色が終わることなく延々と続く。ふと、むこうやまを見渡すも、山頂に至るまで、同一色のスギあるいはヒノキの人工林が続き、基本的にはどの季節であろうとまったく表情を変えない。ばっを過ぎても一向にり出される気配もない「手つかず」の人工林。ところどころ「あ、明るい!」と思って視線を向けると、かいばつされて、そこだけバリカンを当てたように山肌が剥き出しになっていた。何だろう。それもこの村だけではない。地方都市の山村集落は、少なからず似たような状況であった。この景色はどういう状態であり、どのような背景を持つのだろう。

 恥をしのんで、行く先々で、やまぬし(山林所有者)、林業・建設業の関係者にそうした山のことを尋ねてみると、林業が基幹産業だった先代の記憶や体験をとつとつと話してくださった。林業が、農業、漁業、酪農畜産などの循環を支え、建設、土木、商業、そして、暮らしを支えていたという往時の話は、ほんとうに面白かった。山が動けばまちも動き出す。両者がつながり、同じ律動を持つ時代があったのだ。ただ、その後、必ず、二束三文にもならなくなった山の現状の話に移った。

「伐り出すだけで赤字で、ビジネスとしてはまったく成立しない」
「輸送費ばかりかかって、丸太なんてトラックで水を山から運んでいるようなもんだ」
「林業もMOSS協議[*1]で大きな影響を受けた産業の一つ。結果、今日に至るまでの木材価格低迷につながった」
「コストを抑えてなんとか伐り出そうとすると、皆伐のような伐り方になるが、あれは山づくりではない」
「山は最低でも何十年という時間がいる。森づくりは百年の計なんだ」

 しまいきれず、滲み出てきた失意や諦念の言葉を胸に聞くも、東京に戻ると、わたしはまた、いつものようにただぼんやりと、山々を眺め、ときおり、「土砂崩れが起きました」、「豪雨で川下まで倒木が流されてきました」という映像を見るだけだった。川下の都市に住むわたしたちの暮らしと、山の人びとの暮らしが出会う瞬間は、災害時に報道でみるだけだったが、それも致し方ない、やむをえないなどと思っていた。

 ところが、2009年のことである。合併協議から離脱して、独自の構想を描く「岡山県西にしあわくらそん」の「百年の森林(もり)構想」[*2]を耳にした。

約50年前に、子や孫のためにと、木を植えた人々の想い。その想いを大切にして、立派な百年の森林に育て上げていく。そのためにあと50年、村ぐるみで挑戦を続けようと決意しました。

西粟倉村「百年の森林構想」2008年

 おりしも国は、総力をあげて「平成の大合併」[*3]推進の只中である。国は、高齢化・人口減少社会下、合併を通じた行財政能力の拡充こそが基礎自治体を持続可能にするとして、いわゆるアメとムチで、基礎自治体を合併へと誘っていた。経済性や効率性の観点から最低でも1万人、概ね3万人規模ほどの人口規模であることが相応しいとされていた。当時、西粟倉村は、5年ごとに130人ほどの人口が減少していくと予測された1500人ほどの村であった。そのような村が合併をせず、かつての基幹産業である林業に取り組み、村を興すという。いったい、どんな構想なのだろう。

 当時の「百年の森林構想」は、まだ歩き出したばかりだった。というより「言葉」そのものであった。それらは詩であり、具体でもあった。以下、今回はその「言葉」をみていくことにする。

百年の森林(もり)構想

■光の差し込む森づくり
 2009年秋、都内で催された同構想のプレゼンテーションの場で、ある一枚の写真が示された。 丁寧な枝打ちやかんばつがなされた杉林に光が差し込み、その森は明るく、土から新しい芽吹きがあった。それまで、鬱蒼とした真っ暗な森か、皆伐の荒々しい山しか知らなかった自分には、その光景は驚きだった。「丁寧に手入れされた森は暗くないんですよ」。いまも耳に残るその言葉は、詩的であると同時に、人が手をかけてそれを築くことができる希望を感じさせるものだった。

■森の再生のための商品化
 その「光の差し込む森づくり」のために、「森の再生のための商品化」(かわしも)と、次項に挙げる「皆様の山をお預かりします」(かわかみ)という取組が挙げられた。まず「森の再生のための商品化」(川下)から見ていくことにしたい。

 「百年の森林構想」では、「持続可能な」という形容詞を一段、降りていくような「言葉」が与えられていた。例えば、明日、1年後、3年後、10年後、50年後、「持続可能な」とは、何がどうなることなのか、誰がどのように関わり、いつ実現されるものなのか。まちづくりや地域開発の多くは、それに回答してこなかった。一方、西粟倉では同構想に基づき、繰り返し次のような「言葉」が語られていた。当時の記憶をたぐり寄せてみよう。

「地元に落ちる付加価値を最大化させる」こと
「川上(山)にいくらお金を支払えば、持続可能かという視点から、価格設定をおこなう」こと
「東京ではなく、地域側が価格設定決定権を持つ」こと[*4]

 価格設定の際に、まず、いくらで売るかに重きを置くのではない。まず、山が持続的にまわるには、いくら要るのか。そこから逆算して価格が決定されている。わたしたちの社会における、とても大事な視点の修正だ。わたしは西粟倉の村民ではなく、移住予定もないが、都市に住む自分にも、この構想の中では「森づくりを支える消費者」としての役割がある。

■皆様の山をお預かりします
 ところで、西粟倉の山は、大山主ではなく、その多くが個人によって分散所有されていた。相続等によって、村外の所有者も少なくない。そこで、役場が「皆様の山をお預かりします」として、2009年9月、森林所有者・村・森林組合の三者による長期施業管理契約を締結した。今は資産価値が減ってしまったけれど、元はスギやヒノキは先代が子どもたち、孫たちのために資産として残そうとしてくれた、物語や感情を持つ場所でもある。役場が責任を持って、今後50年かけて再興したいので、お預けくださいと語りかけること、実際に、森林所有者との関係づくり、地籍調査など、役場が責任を持って果たすこと。そのことが、その後の林業施策(例えば山林管理・施業管理、販売管理・経営計画の立案)の基礎になり、森の再生のための商品づくりへと橋渡しされるのである。

西粟倉、二度目の訪問

 わたしは、この春、西粟倉を訪れた。2009年の冬以来、二度目の訪問である。一度目は、構想の産声を上げた現場を見たくて訪れた。村はすっぽり雪に包まれていて、すべての命を閉ざそうとしているように寒かった。記憶のうすもやの中に残るのは、活動拠点とされた廃校の薄暗さと静けさの中に焚かれた一台のストーブだけである。今回、十数年ぶりの西粟倉村では「光の差し込む森づくり」、「森の再生のための商品化」、「皆様の山をお預かりします」の「言葉」が実際に仕組みとして動いていた。山が動けばまちも動く。村に再び、その律動が生まれ始めていた。それは遠くからでもはっきり聞こえていた。全国の地方創生のモデルとなっていたのだ。

「自治体にできること(川上の施業)は自治体で、川下の付加価値化、林業六次化に関しては民間(西粟倉・森の学校 [*5])で、ビジョンとシンボルプロジェクトを設定します。東京が価格決定するのではなく、地域(川上)で価格決定をし、ニッチでいいので「心産業」、市場を作っていくということに取り組んできました」[*6]

 役場のうえやまたかひろさんは語る。

「2008年時点では単純な林業だったんですが、構想着手から15年で、エネルギー、生態系、環境整備含めた産業と暮らしという流れがようやく生まれてきたんです」

 この15年で、地域経済規模が拡大(8億→21億)、ローカルベンチャー52社の創業(2社撤退)、移住者(Iターン221人)が増加。税収、村民税の増加。村内で100名以上の雇用が生まれ、林業関係企業の総売上高は1億→11億、取扱木材量は1万立米に成長。現在、林業、木工以外にもエネルギー、食、宿泊、建築、不動産、教育、デザイン、福祉などの産業クラスターが形成されているという[*7]。「百年の森林構想」のもと、持続可能な地域資源の活用を図るための商品開発・販売等を手がけてきた「森の学校」は、賃貸住宅やオフィスなどに置くだけで、西粟倉の無垢の杉床を体験できる「ユカハリ」という大ヒット商品を生んだ(我が家にもあるがとても気に入っている)。直近では、東京・代官山にオープンする東急不動産の開発でも、構造材として西粟倉の間伐材が使われると聞いた[*8]。

 西粟倉という小さな村で、多様な人々がともに住まう地域の内実を乗り越え、共通の「百年の森林構想」という「言葉」をもとに、森とまちを再興し、住むところも生まれも育ちも生き方もバラバラだった人たちが、新たな構想や物語に「属し」、自分の大切にしたいことをし、大切な人と一緒に暮らしている。

 村には伝統的な慣習もまだ残っているだろうし、移住者は、従来のコミュニティで強く要求されたような模範的な移住者としてではなく「風の人」として、これからも流動的に動いていくのかもしれない。というのも、西粟倉では、その地域に根付くことや、そこに骨を埋める覚悟を持つことを奨励するのではないからだ。この村で奨励されるのは「百年の森林構想」であり、それは「みんなの」新しい「自由な所属」のようなものだと感じた。そこから、個人個人は自らの理想を実現させて、それらが、森やまちという生態系を支えることにもつながっている。

 西粟倉の若林原生林に小さな開けた場所があって、そこに腰を降ろして、ふわふわな土を触った。この土の表面にある堆積有機物層を森林生態学の用語で「A0(エーゼロ)層」というのだと習った。このA0層が豊かであれば、土壌や川、生き物が多様に少しずつ育まれていくという[*9]。

 わたしたちのまちをつくる「言葉」も、いつかその枝葉を落として、安心して朽ち、そこへ還っていきたい。新しい始まりのために。


【参考文献】

まきだいすけ『ローカルベンチャー——地域にはビジネスの可能性があふれている』木楽舎、2018

【注釈】

[*1]木材等林産物の関税は、これまで数次にわたる交渉等により、引き下げが行われている(参考:農林水産省「主要品目の実行関税率の推移」)。中でも、1985年、日米間の貿易問題の解消として、テレコミュニケーション、電子機器、医療機器、林産物の4分野で市場志向型分野別(MOSS; market-oriented sector-selective talk)協議が開始された。翌年、木材の関税の引き下げや建築基準法や日本農林規格(JAS)などの非関税障壁の撤廃の合意がなされ、林業、建築等に今日まで多大な影響を与えている(参考:農林水産省「「日米林産物問題」の経緯」)。

[*2]西粟倉村役場ホームページ「百年の森林構想」より。

[*3]1999年以来、地方分権推進の受け皿となる基礎自治体の行財政基盤確立を図るため、合併特例債等の手厚い財政支援等を講じて、全国的に市町村合併の推進が図られた。結果、市町村数は、3,232から1,727(2010年3月末時点)と10年余りでおよそ半数になった。いわゆる「アメ」(合併特例債、地方交付税の合併算定替、合併特別交付金など)と「ムチ」(地方交付税の段階補正の見直しなど)の使い分けを通じておこなわれたとされるが、合併自治体の財政効率化につながっていない等、そもそもの目的が未達成であるとの指摘も少なくない。特例債発行でハコモノを量産し、財政危機に瀕した平成合併第一号のささやま市(現・丹波篠山市)の事例は有名である(その後、同市では、元副市長・きんゆき氏を中心に古民家等の地域資源を見直した地方創生の成功事例が生まれ、全国に普及したことを書き添えておく)。また、人口が1万人未満の合併自治体では投票率の低下が大きいという指摘も、非常に重要な点である。一方、西粟倉村のように合併をしなかった自治体の中には、行革に取組み、独自事業として地域資源を見直し、厳しいながらも自律・自立的な個性ある自治をおこなう市町村も少なくない(参考:真渕勝『行政学[新版]』有斐閣、2020、573-583頁など)。

[*4]ここに挙げた言葉の補足として、西粟倉「百年の森林構想」独自の概念及び手法として誕生し、現在、全国各地に展開している「地域商社」について、若干、記しておく。後出する「株式会社西粟倉・森の学校」は、地域商社「株式会社西粟倉・森の学校」として、地域外部の資本や技術に依存する従来型の開発(外発的発展)ではなく、地域で地域資源を耕し、地域内で社会・経済循環(内発的発展)を牽引してきた。「地域商社」とは、原材料・部品の調達、生産、流通、販売といった一連のサプライチェーンを独自のネットワークで執り行う、いわゆる「商社」機能を東京ではなく「地域」内で持とう、そのことが地域の「持続可能な」=内発的な発展の鍵となるのである、という考え方に基づくものである。

[*5]西粟倉・森の学校は、2009年に設立された株式会社(代表取締役:牧大介)で地域商社である。「百年の森林構想」のもと、持続可能な地域資源の活用を図るための商品開発・販売等を手がけ、本文中にある「森の再生のための商品化」(川下)を牽引してきた。主なヒット商品として、間伐材の有効利用を図る「ユカハリ・タイル」がある。当初は個人向けに展開を図りつつ、事業者向けにも販路を拡大している。2023年4月1日、後述する株式会社エーゼログループ(代表取締役:牧大介)と合併。

[*6]2023年春、西粟倉村地方創生特任参事・上山隆浩氏による取り組み説明より。

[*7]2023年春、ヒアリング配布資料「「百年の森林構想」から「生きるを楽しむ」へ」(西粟倉村地方創生特任参事・上山隆浩)より。

[*8]株式会社エーゼログループ社会関係資本事業部・西にしおかふと氏による取り組み説明より。

[*9]この春、西粟倉の民間部門の事業を牽引してきた、株式会社西粟倉・森の学校、エーゼロ株式会社が合併し、株式会社エーゼログループ(代表取締役:牧大介)となった。同社は「未来の里山」の実現、人と自然が共生する持続可能社会の一つのモデルとして世界に発信していくことを目指している。「私たちは地域のA0層でありたいと思っています。森林土壌におけるA0層のように、地域で連綿と受け継がれ蓄積してきた自然や歴史、文化、経済を守りつつ、未来に繋がるチャレンジを育んでいくための地域の土づくりに貢献していくことを目指します」。詳しくは同社のホームページプレスリリース)を参照されたい。

著者:西本千尋(にしもと・ちひろ)
1983年埼玉県川越市生まれ。埼玉大学経済学部社会環境設計学科、京都大学公共政策大学院卒業。公共政策修士。NPO法人KOMPOSITION理事/JAM主宰。各種まちづくり活動に係る制度づくりの支援、全国ネットワークの立ち上げ・運営に従事。埼玉県文化芸術振興評議会委員、埼玉県景観アドバイザー、蕨市景観審議会委員、歴史的建築物活用ネットワーク(HARNET)事務局ほか。
大学時、岩見良太郎(埼玉大学名誉教授/NPO法人区画整理・再開発対策全国連絡会議代表世話人)に出会い、現代都市計画批判としてのまちづくり理論を学ぶ。2005年、株式会社ジャパンエリアマネジメントを立ち上げ、各地の住民主体のまちづくり活動の課題解決のための調査や制度設計に携わる。主な実績として、公道上のオープンカフェの設置や屋外広告物収入のまちづくり活動財源化、歴史的建築物の保存のための制度設計など。
以上の活動経験から、拡大する中間層を前提とした現行の都市計画、まちづくり制度の中で、深まる階層分化の影響が看取できていないこと、また、同分野においてケアのための都市計画・まちづくりモデルが未確立であることに関心を抱くようになる。2021年、その日常的実践のためNPO法人KOMPOSITIONへ参画。同年、理事就任。

連載『まちは言葉でできている』について
都市計画は「都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与すること」を目的に掲げ、新自由主義体制の下、資本の原理と強く結びつきながら、私たちの生活の場を規定してきた。そうした都市計画制度の中に、住民や市民が登場することはほとんどなかった。しかし今、経済成長と中間層拡大という「前提」を失った都市は、迷走している。誰のための都市なのか、それは誰が担うのか……。
「都市計画」はそもそも得体が知れない。だからこそ私たちは、それと対峙し、言葉で批判を展開するのに苦労する。しかも、言葉を飲み込んでしまえば、その沈黙は計画への「同意」を意味することになる。望んでもいなかったものが、望んだものとされてしまう。あまりに理不尽で、あまりに摩訶不思議な世界ではないか。
本連載では、「みんなのため」に始まる都市の暴力に屈しながらも抗うために、「わたしたちのまち」を「わたしたちの言葉」で語り直すことから始めたい。都市計画やまちづくりのもつ課題を「ケア」の視点からパブリックに開くためにも、「言葉」を探っていきたい。