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不惑の喫茶|常識のない喫茶店|僕のマリ

本連載の書籍化が決定しました(2021年8月4日付記)

 朝7時、開店前の店内でこの原稿を書いている。静かな店内、冷えた空気、花のつぼみ。新緑が芽吹く大好きな季節を、この店で何度も迎えてきた。カウンターに座り、誰もいない店内で、ここで起きた数々の事件を思い出す。喫茶店の仕事なんて長閑なものだと思われがちだが、意外にもハードである。店の規模や人気の度合いにもよるが、当店はとにかくタスクが多いので、最初はギャップに驚いた。最終回は、そんな喫茶店の日々の業務を紹介してみよう。

 わたしは早番なので、店の鍵を開けるところから始まる。モーニング用の大量の卵を茹で、おしぼり入れのスイッチをオン。納品されたパンや牛乳を所定の位置に置き、サラダをこさえてお冷やの準備、掃除や朝刊のホッチキス留めなど。まだ完全に起きてはいない頭ではあるが、5年もやっているとロボットのように作業をこなせる。開店5分前からドアの前で待っている人もいる。祝日や日曜日などは開店前から列ができていてコミケのような風景だと思った。ドアを開けた瞬間、お気に入りの席へ猛進するお客さんを見ていると、失礼だが年末の幕張を想起してしまう。そのくらいすごいのだ。

 朝はモーニング。パンの焼ける香ばしい匂い、凄まじい回転率、好きなお客さん限定の「おはようございます」。常連客が多い時間帯なので、顔を見ればもうオーダーを作り始めている。松井さんという、母親くらいの年齢の女性客とするおしゃべりが楽しみな時間。いつもわたしたちの愚痴や悩みを聞いてくれる強い味方である。松井さんは店が忙しかったり、嫌なことがあったときに美味しいパンを買ってきてくれるので、こういう女性になりたいと思う。

 モーニングを出す傍らで、昼のピークタイムに向けて在庫の補充を行う。スパゲティを茹でたり、サンドイッチのパンにからしマヨネーズを塗ったり。余裕があればこのあたりで花瓶の水も替える。喫茶店の枠から少し外れる業務かもしれないが、わたしはこの作業が好きだ。花で季節を感じる幸せを享受しながら、この花瓶はどのテーブルに置こうと考えたりする。花は週に1回、馴染みの花屋さんが配達で持ってきてくれる。それをセンスのある先輩が10個以上ある花瓶に器用に生けているのだ。

 お昼は軽食が出るので少し忙しい。食べ物を作りながら飲み物も作るので、マルチタスクすぎて最初は大変だった。慣れたいまではオーダーを捌きつつ在庫の補充もできるが、スパゲティ7人前という無慈悲なオーダーが出ることもあって、1分くらい絶望した後「お時間いただきます」と言って冷静に作る。たまに10分も待てないタイプの人がいるが、喫茶店に向いていないのでファストフードを推奨します。ランチタイムが終わってからは客入りも少し緩やかになるので、おしゃべりタイム。昨日こんなお客さんがいたとか、彼氏が家事をやってくれないとか、今度あの店に行きたいとか、とにかく話題が尽きない。おしゃべりがうるさいとお客さんに注意されたことがあるほどだ。そのときはしーちゃんが「うちらが静かにしなきゃいけないほど大事な話でもしてんの!?そんなの家でやってよね!!」と厨房で逆ギレしていて面白かった。ガチ恋の翁たちから差し入れもよく頂くので、お茶を淹れつつしっかり食べる。甘いものの差し入れ、大歓迎でございます。

 明日のぶんの牛乳やパンを業者さんに発注して、夕方になったら遅番と交代。引き継ぎをして退勤する。遅番はスパゲティのソースやケーキの仕込み、ゴミ捨て、シンクやコンロ周りの掃除、後片付けなどをやっている。卵や砂糖などの買い出しもこの時間に行う。これが結構重たいのだが、買い出しのおかげで筋力がついたと思う。夜のしっとりとした雰囲気もまた一興。たまにお客さんとして行くが、お酒も飲めるので楽しい。わたしは出勤前だけでなく、退勤後にも店で原稿を書くことが多いのだが、結局みんなとおしゃべりしてしまって進まないことも多々ある。しかし、人と会いづらいコロナ禍ではこうやって誰かと話ができることがありがたかった。自粛生活であまり寂しくなかったのも、接客業の特権かもしれない。

 平日はこんな感じなのだが、土日や祝日は戦争のよう。止まらないオーダー、溜まる洗い物、足りない在庫、ひっきりなしに訪れるお客さん。おしゃべりする暇がないときもある。とにかく必死に作って運んで片付けて、を繰り返す。時間が経つのもあっという間で、気づくと退勤時間になっている。忙しすぎるとミスもあるが、それはお互い様。人手が足りないとマスターやその妻が参戦してくるのだが、後期高齢者に差し掛かっている二人にはかなりの重労働だと思う。しかし元気に頑張っているので、「店をやっている人老けない説」がわたしのなかで浮上している。現に、二人が体調不良を訴えることはほぼないので、自営業のたくましさを思い知った。マスターに関しては、日頃の筋トレも功を奏しているかもしれない。

 ざっくばらんだが、業務内容としてはこんな感じである。平日でも忙しいときは忙しいし、混み方は読めない。体力勝負な仕事であるのは確かだろう。現にわたしはこの仕事を始めてから痩せたし、なんだか同僚もみんな痩せている。結構食べる人が多いのに痩せているので、相当エネルギーを使っているに違いない。

 これまでの人生、仕事が続かなかったわたしだが、この喫茶店で5年近く勤めていられるのは自由にやらせてもらっているからだと思う。もしここがおしゃべりも禁止で、嫌いなお客さんにもへこへこしなければいけなくて、同僚にいじめられたりして、決まり事が多い店だったらとっくに辞めている。この店では素の自分でいられるから、精神的に楽なのだ。最初はびっくりすることも多かったけれど、戦いを重ねたいまでは物怖じすることもなくなった。そして思ったのは、この店は面白おかしいことが起こる強力な磁場だった、ということだ。「だって全部本当のことだもんね」と、この連載を読んでくれている同僚は言った。全くその通り、わたしはありのままを書いてきた。「こんな店行きたくない」という感想も見かけた。わたしはそれを否定しない。万人に認められる店でないのはわかっているし、合わないなら来なければいいのだ。だってここは個人店なのだから。
 
 常識はないが、良識はあったと思う。いいお客さんにはきちんとサービスをするし、そのお客さんたちが居心地よくいられるように、マナーの悪い人は追い出してきた。第三者からすれば面白おかしいことかもしれないし、「サービス業としてどうなのか」と眉を顰める人もいるかもしれないが、出禁にするのは体力も気力も消耗する。20代の女というだけで下に見られることが多いわたしたちは、少しでも抗議の声をあげただけで「生意気」「店員の躾がなってない」などと攻撃されてしまう。ひどいときには無視もされる。それでも戦い続けるのは、自分や働く仲間を大切にする強さを身につけたから。

 この世の中は狂ってる。悔しいがそれが事実だ。でも、だからなんだ。何の主張もせず、狂った奴らの言いなりになって働くのか。店員だから格下なのか。お客様だから何をしてもいいのか。若い女だからなめられても仕方ないのか。わたしは日々考え続けた。小さな喫茶店で働きながら、色んなことを自問自答した。間違っていることを間違っていると言えない弱さは、後に自分を苦しめることとなる。どんな相手でも対等であること、嫌な気持ちに素直になること。そういう当たり前のことをやっと思い出せたから、「常識のない」人たちを出禁にし続けることができた。店にだって、お客さんを選ぶ権利はある。罵倒されても、言い返されても、わたしたちは黙らない。

 常識から逸脱したこの店で見つけたのは、ブレない心と本当の優しさだった。不快な出来事に声を上げることで、自分を大切にすることを学んだ。多くの人と関わり合ううちに、色んな優しさの形を知った。自分を殺さずに、自由に生きていいという当たり前のことを、わたしたちは本当によく忘れてしまう。だからわたしは書いた。出禁にするだけじゃ足りないから、この場をお借りして、声を大にして、ただの喫茶店員の立場で物申している。このおかしな世の中が、少しでもよくなりますようにという願いを込めて書いている。人生はどう転ぶかわからないから、わたしもそのうちこの店を辞める時がくるだろう。それでも、この店で働いた日々のことを思えば、自分らしく、強く生きていける気がする。そう思わせてくれた場所に出会えた奇跡を噛みしめている。

 最後に、1年間にわたるこの連載を読んでくださった読者の皆様、支えてくれた同僚たちに感謝の意を伝えたい。この連載が、わたしの物語が、働くすべての人々の勇気になることを祈って。すべての人が、自分らしくいられますように。もしご縁があったら、読者の皆様と「お客様と店員」として出会うこともあるでしょう。ようこそいらっしゃいませ、魅惑の喫茶、不惑の喫茶。

僕のマリ(ぼくのまり)
1992年福岡県生まれ。物書き。2018年活動開始。同年、短編集『いかれた慕情』を発表。ほか、単著に『ばかげた夢』と『まばゆい』がある。インディーズ雑誌『つくづく』や同人誌『でも、こぼれた』にも参加。同人誌即売会で作品を発表する傍ら、文芸誌や商業誌への寄稿なども行う。
Twitter: @bokunotenshi_
はてなブログ: うわごと
連載『常識のない喫茶店』について
ここは天国?はたまた地獄?この連載では僕のマリさんが働く「常識のない喫茶店」での日常を毎月更新でお届けしていきます。マガジンにもまとめていきますので、ぜひぜひ、のぞいてみてください。なお、登場する人物はすべて仮名です。プライバシーに配慮し、エピソードの細部は適宜変更しています。

追記:ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。連載は今回で最後となりますが、これからは「書籍化」に向けて動いて参ります。2021年9月刊行を目指します。引き続き、著者の執筆活動を応援いただけたら幸いです。それではまたお会いできる日まで。