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モア4番街のオープンカフェ|まちは言葉でできている|西本千尋

ある日の公園、子どもたちと禁止看板

 6歳と2歳と一緒に近所の公園までやってきた。持ってきたボールで2、3分はなんとか蹴って、ボールが返ってきて、そう、蹴り合ったね! というようなことをしただろうかという頃合いに、6歳が叫んだ。「あ! ママ、ここサッカー禁止だよ!」指差す方向に視線をやると、たしかに「野球・サッカー禁止」と書かれた錆びた看板が金網にかかっている。「ほんとうだ。ねえ、でもさ、ちょっと待って。うちらはさ、サッカーっていうより広場の片隅でさ、小さい子がほら、コロコロ〜って3人でボールを蹴ったりしているだけだよ。サッカーってのはもっと大人数でやるもので」と言うと、「チームメイトが11人いるやつでしょ。でも、俺たちがやってるのは間違いなくサッカーだよ。ほら、まず、ボールを蹴ってるし、おまけに、これはどうみてもサッカーボールだ。ママ、帰ろう!」帰るだって? 来たばっかりなのに? ボールを持ってごきげんな2歳をどうするんだ? やれやれ。

 わたしはずっと「まちづくり」の仕事をしてきた。具体的には、各地の駅前再開発の広場や公園、商店街の景観、イベント等の活動にかかわるルール作り。そこではルールを守らない人への対応を考えることはあっても、守る人への対応は正直あまり考えてこなかった。秩序保持にご協力くださりありがとうございます。書かれていることは一定範囲内で守られ、書かれていないことは周囲との関わりの中で自律的に判断されることが前提だ。

 ただし、日本の公共空間が禁止看板だらけなことから想像されるように、使い手による自律的な秩序形成を歓迎すると言うよりはむしろ、自由な活動の裁量の幅を積極的に狭めようとしてきた。何が安心安全か、快適かは上から示されるものであり、使い手はそれに従うものなのだ。バスでベビーカーを畳むか畳まないか、マスクをどの条件で外すのか外さないのか。コロナ禍でこの傾向は強まったと感じる。

 冒頭に話を戻すと、親の言うことにはぽこぽこ反抗する6歳が、自分の行動を規制するような息の詰まった上からの管理と支配のルールを自ら欲した水のようにごくごく吸収している様にびっくりしてしまった。そういえばこの前は、子ども園で友達にもちゃんとルールを守るよう、ちょっといばっている姿を目撃したこともあったっけ……。あれ? でも公共空間って、いろんな人がいて目新しい出来事を見物できたり、取り返しのきくようなヘマをたくさん体験できる場所じゃなかったの? このまま公共空間で学んだ命令形や禁止形を手放さずに大人になったら、どうなるんだ? へその緒の代わりに社会とつながらないといけないからって、おぎゃあと同時に得た自由をすすんでじゃぶじゃぶ捨てるだなんてもったいないことではないか? 

 あの日、禁止看板を見て即座に「帰ろう!」という6歳に対し、禁止看板を読めない2歳はぼくの広場、ぼくのボールといったふうに満足そうにボールを蹴っていた。親の支配、すなわち親が描く物語の外へ一日も早く出たい6歳が、代わりに公共空間のルールを師としている。皮肉だなあ、と苦笑してしまう。

 というのも、正直なところ、わたしは自分が携わってきた仕事やまちづくりのルールのことを考えると、子どもたちにそのルールを文言通りにただ守ってほしいなどとはとても思えなかった。むしろ、ルールが適切に開かれ、広く使い手の判断や求めに応じて、改「善」されていくことを強く望んでいた。なぜか。端的にいうと、わたしの関わってきたまちづくりのルールが、階層格差や不平等を狭めることに主眼を置かず、様々な階層の自由な活動の現れであるカオス的景色を文化的・景観的によくないなどと言い、時に眼前から見えなくすることを企図してきたためである。

2005年、モア4番街のオープンカフェ

電柱がない緑陰道路の巾広な歩道に、洒落たオープンカフェがあり、そこに色とりどりのパラソルが立てられている光景は、新しい都市文化そのものです。特に海外からの観光客が最も気に入る休憩場所です。オープンカフェに集まる人々の会話は明るくて楽しい話題です。暗くて秘密っぽい話しは店の内部の薄暗い場所で行われているのでしょう。オープンカフェは人々を元気にさせる最も手近かで安上がりな舞台です。

都市再生戦略チーム座長 伊藤滋「オープンカフェをひろめよう」『小泉内閣メールマガジン』第108号、2003年9月4日

 時計の針を2005年に戻してみる。新宿駅東口を出て、紀伊國屋書店に向けて新宿大通りを歩くと、ABCマートとみずほ銀行の間に、靖国通りにつづく「モア4番街」と呼ばれる通りがある。わたしのまちづくりの最初の仕事は、小泉内閣が推進しようとも、ただ「前例がないから」という理由で実施ができなかったオープンカフェをこの「モア4番街」で実現させる、そのためのルールづくりだった。

 細かいことで恐縮だが、今でこそよくみられるようになったオープンカフェの設置には、道路占用許可等の許可を取る必要がある。そもそも道路をまちづくりのために使わせることは、道路行政としては例外である。オープンカフェを置くためには、なぜ道路を一定期間、特定の事業者に占用させるのか、そこでどのような公的な目的を実現するのかを明らかにする必要があった。

 ヒアリングを重ねていくと、「モア4番街」の商店主や地権者、新宿区の抱える課題は、一向になくならない駐輪問題と治安の悪化とわかった。「新宿駅東口には、大きな公園や寛げる広場も少ない。オープンカフェを置いて、女性も安心して過ごせる安全で快適な空間づくりをしたい」。納得できる理由だと思った。

 さて、オープン当日。商店会、自治会、警察、行政、イベント会社、カフェ事業者との果てしない調整業務が終わり、やっと報われる日が来た。素直にうきうきしていた。区長や商店会会長、企業クライアントの参加するオープンセレモニーを間近に控えた折、みずほ銀行を少し先に行ったあたりの路上にホームレスの男性が座っていることに気がついた。イベント会社の男性がわたしのほうに近づいてくる。そして言う。「にしもっちゃんさ、あのおじいちゃんのところに行って、他所よそにどいてもらってきて。少しの間でいいから。はい、これ」。受け取ったのは、お札とタバコだった。

 まちづくりはいつも「安心安全」「快適」といったスローガンを掲げ、「みんなのため」のまちであることを強調する。今回も「みんなのため」にオープンカフェを置いた。だから駐輪はなくなった(それらは別のエリアに移動された)。ついでにホームレスも「みんなのため」に移動してもらった(ということにされた)。これは、問題の解決なのだろうか? 自分たちが視界から見たくないものを除けて、見たいものを置いただけではないか? 「女性も安心して過ごせる安全で快適な空間」であることを企図されたオープンカフェは、ホームレス排除、抑圧移譲の景色そのものだった。

 「地域の住民・事業者・地権者などの資産価値の向上」を果たすために、公的な空間を標準化し管理する手法。初めて立ち会ったまちづくりの現場。セレモニーでにこやかに笑顔を散らしてテープカットする女性区長を遠目に眺めながら、「自分たちのしていることがいったい何なのか」考えようとした。言い訳もたくさん考えた。吐きそうだった。この先、この分野でやっていけるのだろうか。そういえば、先の伊藤滋の言葉が国家管理下の大衆社会をからかう皮肉だったのかどうかは、20年近く経った今もわからない。

都市の暴力は「みんなのため」に始まる

 まちなかで、あるルールを見かけたとき。それが誰の自由を支えそうなのか、損ないそうなのか。それは何の目的を達成しそうなのか。それによって誰へ、どの階層への資源配分を後押しそうのなのか、阻害しそうなのか。わたしたちは問う必要がある。

 そもそも都市計画やまちづくりなるものは、拡大する中間層を前提としてきた。また、困難さを抱える人やケアの担い手は、青壮年男性のようには、まちなかに出てくることができなかった。いないから、計画のなかでもいないものとされてきた。そして、今後いっそう階層分化も著しくなり、分厚い中間層そのものが消えゆくのだとしたら……。これまでの都市計画やまちづくりは、もうほとんど限界を迎えていると言っていい。むしろ、とっくの昔に改「善」されなければならなかったはずだ。

 この連載では、都市計画・まちづくり制度へのアクセス権、さらにはルール制定権を住民自らの手の中に取り戻し、制度やルールそのものを再構築する道を探りたい。そのために、わたしたちは何よりもまず、「わたしたちのまち」を「わたしたちの言葉」で語り直す必要がある。お上が掲げる「安心安全」が、「みんなのために」というその一言が、もしわたしたちの求めるそれと違っているのだとしたら、わたしたちはその齟齬を、欺瞞を指摘し、そこに新たな意味を込めていかなければならない。わたしたちの間に、言葉と日常的実践の自由が残されているうちに――。

 もう一度、2005年に時計の針を戻そう。

 セレモニーの翌日、わたしは再び「モア4番街」に出かけた。今さら何ができるわけでもないし、そんな資格はないことは承知のうえだったが、「昨日のこと」が気になったためだ。真っ暗な気持ちで地下街を進み、ようやく地上に出て、通りに目をやると、昼下がりのオープンカフェの一席に昨日と「同じ姿」を見つけた。「戻ってた、戻ってきてくれた」。わたしはうれしくて悲しくて、泣き出したいのか笑い出したいのかも、わからなかった。

 パラソルの下、おじいさんは両脇の椅子にたくさんのビニール袋を置いて足を前に投げ出し、背もたれに深く寄り掛かるように座って新聞か何かを読んでいた。少し離れたテーブルには、昨日は見かけなかった客がちらほら座り始めていた。

著者:西本千尋(にしもと・ちひろ)
1983年埼玉県川越市生まれ。埼玉大学経済学部社会環境設計学科、京都大学公共政策大学院卒業。公共政策修士。NPO法人KOMPOSITION理事/JAM主宰。各種まちづくり活動に係る制度づくりの支援、全国ネットワークの立ち上げ・運営に従事。埼玉県文化芸術振興評議会委員、埼玉県景観アドバイザー、蕨市景観審議会委員、歴史的建築物活用ネットワーク(HARNET)事務局ほか。 
大学時、岩見良太郎(埼玉大学名誉教授/NPO法人区画整理・再開発対策全国連絡会議代表世話人)に出会い、現代都市計画批判としてのまちづくり理論を学ぶ。2005年、株式会社ジャパンエリアマネジメントを立ち上げ、各地の住民主体のまちづくり活動の課題解決のための調査や制度設計に携わる。主な実績として、公道上のオープンカフェの設置や屋外広告物収入のまちづくり活動財源化、歴史的建築物の保存のための制度設計など。
以上の活動経験から、拡大する中間層を前提とした現行の都市計画、まちづくり制度の中で、深まる階層分化の影響が看取できていないこと、また、同分野においてケアのための都市計画・まちづくりモデルが未確立であることに関心を抱くようになる。2021年、その日常的実践のためNPO法人KOMPOSITIONへ参画。同年、理事就任。

連載『まちは言葉でできている』について
都市計画は「都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与すること」を目的に掲げ、新自由主義体制の下、資本の原理と強く結びつきながら、私たちの生活の場を規定してきた。そうした都市計画制度の中に、住民や市民が登場することはほとんどなかった。しかし今、経済成長と中間層拡大という「前提」を失った都市は、迷走している。誰のための都市なのか、それは誰が担うのか……。
「都市計画」はそもそも得体が知れない。だからこそ私たちは、それと対峙し、言葉で批判を展開するのに苦労する。しかも、言葉を飲み込んでしまえば、その沈黙は計画への「同意」を意味することになる。望んでもいなかったものが、望んだものとされてしまう。あまりに理不尽で、あまりに摩訶不思議な世界ではないか。
本連載では、「みんなのため」に始まる都市の暴力に屈しながらも抗うために、「わたしたちのまち」を「わたしたちの言葉」で語り直すことから始めたい。都市計画やまちづくりのもつ課題を「ケア」の視点からパブリックに開くためにも、「言葉」を探っていきたい。