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わたし、たちのいる場所|まちは言葉でできている|西本千尋

マンション建設反対運動

 とある夏の日。10歳のわたしは煎餅屋の軒先の角に腰をおろして絵を描いていた。煎餅屋は交差点の一角にあって、そのすぐ隣には11階建てのマンションが立っていた。わたしは道路をへだてた向かいにある古い蔵造りの町並みを写生していたのである。蔵造りの建物は2階建てで、鬼瓦が屋根の上にどしんと載っていた。その下で、一枚一枚の瓦が鈍く光っていた。画用紙に向かって、鉛筆を走らせていると、後ろからとつぜん声をかけられた。「上手だねえ。このまちは古い建物がたくさん残っていてすごいねえ」ふりかえると、おじさんが立っていた。観光客かもしれない。地元の人だったら、わかる。知らない人だった。「でも、ここにこーんなに高いマンションが建っちゃったんだねえ」ぽかんとした。わたしは、そのマンションで生まれ育ったのだ。
 
 18歳になったわたしは、大学の図書館で、自分の住むまちをタイトルに付した、とある論文の中に「住民主体によるまちづくり」という名の年表を見つけた。「住民主体」という文字を他人事のように眺めて年表を下ると、「マンション建設反対運動(1978〜79年)」という一文が目に留まった。誰に確かめるまでもなく、すぐに自分の生まれ育ったマンションのことだとわかった。年表にはその後、1983年に蔵造りを保存しようとする会が誕生し、蔵のある町並みを保存するための地域ルール『町づくり規範』ができたことが書かれていた。また、わたしの友人の家(蔵造り)の復元改装が行なわれたことも触れられていた。わたしは生まれて初めて、自分の生まれたマンションの道路一本挟んだ隣の地区で、何が起きていたのかを知り、それらが「まちづくり」と名付けられた行為なのだと知った。

小料理屋のお母さんに話を聴く

 わたしの生まれたマンションの目と鼻の先に小料理屋がある。引き戸を開けると左手に小さなL字のカウンター席、右手に畳の小上がりがあり、ローテーブルが2卓。店の奥にも小上がりの座敷が一間。多くの人が孤独とか自分の思ったことや感じたことをこの店に安心しておいていってしまうのだろうなあ。いつも常連客であふれていた。小料理屋の店主のお母さんを介して、濃密な情報交換の場でもあったし、次期市長などを決めてしまうようなインフォーマルな地域政治の場でもあった。このお母さんには、ここ十数年、折あるごとにお話を聞かせてもらってきた。「マンション建設反対運動」が展開された当時の様子については、こう語っている。

 ここいらはね、あのマンションの問題が起こる何年も前から、昔のにぎわいがうんとなくなって、商店のガラスの向こうにぼろぼろのカーテンだけが見えてばっかしの、寂れて古い建物ばっかりになってたの。駅前にはどんどん新しいビルもマンションも建つし、郊外も栄えたけど、旧市街は、高齢で後継がいないとか、店の経営も苦しくてね。建物も蔵もぼろぼろだった。あと、だいぶ前から役所の道路拡幅の話もあったりして、でも本当にその道路を作るんだったら、今のこの店をセットバック[*1]しなきゃなんだから、今の建物で今のような商売は続けられない。今のような商店街はなくなる。そりゃそうだ。おまけに、拡幅したら、ただ車が通過するだけの、ただの通り抜けのための道路になるって声もあったの。

 ちょうどそんなときに、マンション建設の話が立ち上がった。近所の人や商店街の人は開発に猛反対してね、工事現場の前を夜も車で詰めて、開発事業者が車ごと運んで行っちゃうなんてこともあった。でもあたしは、あそこの土地を手放さざるを得なくなった前の所有者の人の事情もよく知ってたしね、そのほかにもいろんな理由があって、結局あたし、反対するのをやめたの。そしたらもう反対派から、罵声を浴びたり、怒鳴られたりした。ひどかったね。あたしらみたいな商売人はね、マンションが建っちゃえば、住民が引っ越してくるし、町会も子どもたちが増えたらにぎやかだし祭りのときもいいじゃないか、とか言ってたんだけど、一方で、この蔵の景観や町並みがこのまちの価値だ、どのまちでも壊しちゃってるけど、ここはこんなに残ってる、壊すのはもったいない、って声が強くなってね。景観や日照の問題で対立が激化して、マンション建設反対運動、今につづく町並み保存が始まったの。

 まあ、でもマンションはね、もう役所の建築確認[*2]もおりてるし、止まらなかった。蓋開けてみたら、商店街のなかで反対していた人のなかにもマンションを買ってた人がいてね、住んだんだよ。不思議だねえ。ただ、その後もね、町並み保存運動は進んでいって、役所も地元がまとまったら応援するって、国のほうからも県のほうからも補助ももらってちゃんとして、今となっちゃ、ほら、おかげさまで、こんな風に町並みが守れて、こんなに観光客がくるようになって商売も続けられているんだからね、まあ、色々あったけど、この町並みを守ることが商店街が生き残る道だって決めたんだね、その結果、それがうまくいった。市としたってさ、観光地として有名にもなってよかったってわけだね。

「規範」のなかにある自由

 〈でもマンションはね、もう役所の建築確認もおりてるし、止まらなかった。[…]ただ、その後もね、町並み保存運動は進んでいって〉――今回注目したいのはこの点である。そう、反対運動にもかかわらずマンション建設がなされたのち、それでも蔵造りの町並みを残そうとしたその地区の「住民」は、専門家と一緒に「まちづくり」原則集を作成した。それが「まちづくり」業界では有名な『町づくり規範』である[*3]。この地区で大事にしたい67の原則が、「言葉」で綴られている。

一番街[筆者注:蔵造りの町並みのある地区]において町づくりに関する行為を行なう場合は、「町づくり規範」を尊重するものとする。

Ⅺ頁

 さらにこう書かれている。

町づくりに関する行為をしようとする者は、できるだけ早い段階でその計画を「町並み委員会」に届け出、協議しなければならない。町並み委員会は「町づくり規範」にしたがって、当該計画が一番街の町づくりの目標に適合するかどうかを検討し、問題があると考えるときは意見を述べることができる。

同上

 では、この「町づくりに関する行為」とはなんだろう。

1.土地・建物の用途を変更する場合。
2.建物の新築・増築、改修・改装、撤去を計画する場合。
3.道路・広場等公共的施設の新設・増設、改修・改装を計画する場合(標識その他ストリートファニチュア類を設置する場合を含む)。
4.看板、塀、その他工作物の新設・増設、改修・改装、撤去を計画する場合。
5.土地・建物の所有権または利用権を譲渡または設定する場合。
6.その他一番街の環境に影響を及ぼす行為をしようとする場合。

同上

 実は、通勤途中に前を通るたびに、ちょっと気になっていた建物がある。さてさて。思い立って地元の不動産屋さんに話を聞きに行くと、以前そこは乾物屋だったそうで、4、5年前に大家さんがご高齢のため店自体は閉じて、ご夫婦で裏のはなれに住んでいるという。表通りに面したその店舗は、周囲と比べてやや背丈が低い築90年ほどの蔵造りで、20年ほど前に大規模な改修をしているようだ。うーん、ここを借りて、1階に本屋。2階に小さな軽食・コーヒーを楽しむスペースなどできたらいいなあ。なかを見せてもらう。薄暗い店舗内からは、うっすら昆布やら鰹節削りの匂いがした。店の奥へ進むとその後ろに住棟、その後ろに中庭、さらにその後ろにはなれ、蔵と続いている。中庭もいい。空が見える。前のお店部分だけでも貸してもらえないかな。裏の住棟も空いているのなら、宿機能も持たせられそうだな。まずは、土日だけ店を開けてみるとかそんな使い方ができたらいいのだけれど――。もし、わたしがこの地区でこういう「町づくりに関する行為」をしたいと思ったら、まず「町並み委員会」に届け出を出さなければならないわけだ。

 続いて、『規範』の具体的な中身も見てみよう。目次を見ると、大きく〈都市〉と〈建築〉に分かれている。「合言葉」のようなタイトルを追っていくだけでも面白い。パラパラめくって、上にあげた「わたしのまちづくり計画」と関係がありそうな項目を読んでみる。
 まずは〈都市〉について。

【都市C.北部市街地の構成】
5.旧城下町地区を自律的なコミュニティとしてたてなおす
 
自治体は規模が大きくなりすぎた。個人の声が最も的確に反映される規模で自律的なコミュニティをたてなおす必要がある。

15頁

【都市E.地区環境を守るための原則をたてる】
16.年齢バランスのとれたコミュニティ 
[…]歴史的地区では高齢化の傾向が著しい。コミュニティがいきいきとしているためには、年齢構成が適切に保たれていなければならない。そして、各年齢にふさわしい生活・活動の場が用意されてなければならない。
[…]
住宅を増やす修復型の再開発をすすめよう。
若者が店を開きやすい条件をととのえたり、高齢者に社会活動の場をしつらえるなど、人生の各段階で必要となる場をコミュニティの中に用意していきたい。

41頁

【都市K.点的施設を配置する】
40.人の集まるスポット
都市生活を楽しくするような、人の集まる、居心地良い空間をもったお店や場所があちこちにあるべきだ。

91頁

 〈建築〉についてはこんな具合だ。

【建築E.店づくり】
62.中庭を店づくりに生かす
さほど広くない店舗空間の魅力を[…]独自のやり方でどうしたら高めることができるだろうか

141頁

【建築F.構法・仕上げ】
65.材料は自然的素材、地場産を優先
[…]建築材料には、できるかぎり、自然的素材、伝統的な素材を用いる。

147頁

 本当はもっと関係する項目がたくさんあるのだが、〈都市〉→〈建築〉という順番で書かれているので、順番に読み進めると鳥瞰的なスケールから段々にレンズが「わたし」(の使用したい建物)にフォーカスされていくような感じがして面白い。何を大切にしながら計画を進めていけばよいかが一目瞭然だし、これらの言葉は本質的には「規制」の言葉であるはずなのに、何かが制限されている感じもしない。写真やスケッチも豊富に盛り込まれているため、イメージがどんどん膨らんでいくのも心地よい。

「利害対立」の先に進むために

 さて。この地区で起きたマンション建設反対運動の流れは、最終的に蔵造りの町並みを残そうというより広い「住民」運動へと輪を広げてゆき、〈自律的な個人の行動と総合的な町づくりの連動を図ることを目的〉(Ⅸ頁)とする『町づくり規範』という「言葉」集に結実した。「商売を継続し、ここで暮らしていくために蔵造りや町並みを残そう」。その実現のために、住民や地権者など、さまざまな主体が総意工夫をもって「まちづくり」を行なっていく。そのための「言葉」集である。

 まちは、個人と個人/個人と集団/集団と集団とが、互いに異なる利害を持ち、権利と権利がぶつかり合う場だ。地元住民とよそ者(たとえば新築マンションの入居者)、商人と勤め人、高齢者と若者、大人と子ども、男性と女性(もちろんこの二分法によりとりこぼされる性のあり方もある)、障害のある人とない人、外国人と日本人、地域団体とお役所、地域団体AとB、建物所有者と借家権者、土地所有者と借地権者、大規模地権者と小規模地権者、地元企業と外部資本……登場するプレイヤーはさまざまだ。そして、プレイヤー同士は無論、対等ではない。「マイノリティ」や「社会的弱者」などと一言で括られがちな集団のなかにも、書ききれないほどの格差や利害対立があり、それぞれに無数の細かい分断線が走っている。

 本連載の第1回、第2回で見ていたように、「こんにちのまちづくり」は、そのような(大なり小なり)権力同士のぶつかり合いが顕在化する前に、一部のプレイヤーたちを置き去りにしたまま、地権者や行政主導の「言葉」により、まちの形を大きく変えてしまうことが少なくない。だが、そうしたケースだけではなく、今回のように、深い対立と分断を前にしてもなお、「言葉」によって調整と調和の仕組みを構築し、出来る限り対等なコミュニケーションを指向しようとした試みもまた、確かに存在してきたわけである。その歴史を忘れてはいけない。

 同時に、同じくらい重要なのは、わたしたちはこの歴史的な『規範』を無批判に受容する必要もない、ということだろう。『規範』のⅧ頁にはこんな一文がある。〈今後の実戦の中で、鍛え、修正し、真に自分達の言葉として身に着けていく努力を重ねていきたい〉――これは、現在のわたしたちから見て、この『規範』に時代錯誤な原則が含まれていたり、不足が見つかったりした場合には、議論を経たうえで「更新」していける可能性があることを意味している[*4]。「まちづくり」は終わりなきプロセスだ。

 わたしが生まれ育ったマンションは、1980年の4月に建設された。いまや、いわゆる「旧耐震基準」の建物であり[*5]、耐震性が課題とされている。高齢化も進んだ70戸を超える区分所有者が、今後どのように合意形成を図り、この建物を維持管理し、建替えを行なっていくのか、とても難しい問題に直面している。わたしたちは、1972年3月16日の「プルーイット・アイゴー」(米ミズーリ州セントルイス)のように荒廃してスラム化が進んだ団地をダイナマイトで爆破するのではなく[*6]、「言葉」でまちを更新し、建て直していくことができるだろうか。

 「わたし」と「あなた」は同じではないけれど、「わたし」は「あなた」と、「わたしたち」の暮らす場所を「言葉」で築いていくこともできる。伝統を継ぐ「言葉」。コミュニティを守る「言葉」。自由な活動を歓迎する「言葉」。新しくやってくる他者と共にあるための「言葉」。どのような「言葉」でわたしの/あなたのまちは作られ、今日まで残ってきたのだろう。現実の「まち」に、すでにたくさんのヒントがあるはずだ。その可能性を一つひとつ手繰り寄せつつ、利害対立の先に新たな「言葉」を紡ぎたい。


【注釈】
[*1]建物を前面道路から後退(セットバック)して建築すること。

[*2]建築主は、工事に着手する前に、建築物の計画が法令建築基準関係規定に適合するものであることについて、建築主事等の確認を受けなければならない(建築基準法第6条)。

[*3]川越市一番街商業協同組合『町づくり規範』1988年4月14日。

[*4]例えば、『町づくり規範』が書かれた当時、「町並み委員会」22名中全員が男性だったという点は(あくまで名前のみでの判断でしかないので正確なことはわからないが)、その制定プロセスにおいて、置き去りにされたかもしれないプレイヤーがいた可能性を示唆しているだろう(1999年に女性が加わったが、それでも25名いるうちの1人だった)。わたしたちはこの『規範』を前に、現在の視点から新たに議論を積み上げていくことができるし、していかなければならない。その更新作業は、この『規範』の持つ価値や歴史を矮小化することにもならない。

[*5]1981(昭和56)年以前に建築された建物は、建築基準法に定める耐震基準が強化される前に建った建物として、「旧耐震基準」の建物と呼ばれる。「旧耐震基準」の建物は、耐震性が不十分なものが多く存在するので、耐震診断を実施し、その結果、耐震性が不十分であった場合は、耐震改修や建替えを検討するように推奨されている。詳しくは国土交通省ウェブサイト「住宅・建築物の耐震化について」を参照されたい。

[*6]「プルーイット・アイゴー」は1951年、アメリカのミズーリ州セントルイスに日系の建築家ミノル・ヤマサキの設計により建設された11階建て、33棟の団地。建設目的は、セントルイスの過密と貧困と荒廃の解決、つまり「スラムクリアランス」であった。しかしながら、次第に暴力、犯罪、麻薬、ゴミ捨て場となって荒廃、再びスラム化が起こり、1972年に自治体によってダイナマイトで爆破された。爆破された時刻である「1972年7月15日午後3時32分」は、アメリカの建築批評家チャールズ・ジェンクスの著書『ポスト・モダニズムの建築言語』(1977年)のなかで、「モダニズム建築の死亡日時」とされた。

著者:西本千尋(にしもと・ちひろ)
1983年埼玉県川越市生まれ。埼玉大学経済学部社会環境設計学科、京都大学公共政策大学院卒業。公共政策修士。NPO法人KOMPOSITION理事/JAM主宰。各種まちづくり活動に係る制度づくりの支援、全国ネットワークの立ち上げ・運営に従事。埼玉県文化芸術振興評議会委員、埼玉県景観アドバイザー、蕨市景観審議会委員、歴史的建築物活用ネットワーク(HARNET)事務局ほか。
大学時、岩見良太郎(埼玉大学名誉教授/NPO法人区画整理・再開発対策全国連絡会議代表世話人)に出会い、現代都市計画批判としてのまちづくり理論を学ぶ。2005年、株式会社ジャパンエリアマネジメントを立ち上げ、各地の住民主体のまちづくり活動の課題解決のための調査や制度設計に携わる。主な実績として、公道上のオープンカフェの設置や屋外広告物収入のまちづくり活動財源化、歴史的建築物の保存のための制度設計など。
以上の活動経験から、拡大する中間層を前提とした現行の都市計画、まちづくり制度の中で、深まる階層分化の影響が看取できていないこと、また、同分野においてケアのための都市計画・まちづくりモデルが未確立であることに関心を抱くようになる。2021年、その日常的実践のためNPO法人KOMPOSITIONへ参画。同年、理事就任。

連載『まちは言葉でできている』について
都市計画は「都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与すること」を目的に掲げ、新自由主義体制の下、資本の原理と強く結びつきながら、私たちの生活の場を規定してきた。そうした都市計画制度の中に、住民や市民が登場することはほとんどなかった。しかし今、経済成長と中間層拡大という「前提」を失った都市は、迷走している。誰のための都市なのか、それは誰が担うのか……。
「都市計画」はそもそも得体が知れない。だからこそ私たちは、それと対峙し、言葉で批判を展開するのに苦労する。しかも、言葉を飲み込んでしまえば、その沈黙は計画への「同意」を意味することになる。望んでもいなかったものが、望んだものとされてしまう。あまりに理不尽で、あまりに摩訶不思議な世界ではないか。
本連載では、「みんなのため」に始まる都市の暴力に屈しながらも抗うために、「わたしたちのまち」を「わたしたちの言葉」で語り直すことから始めたい。都市計画やまちづくりのもつ課題を「ケア」の視点からパブリックに開くためにも、「言葉」を探っていきたい。