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「わからないけどわかるよ」小沼理さん『共感と距離感の練習』はじめに全文

 2024年5月23日、小沼理さん初のエッセイ集『共感と距離感の練習』が配本となります。

装画=岡田喜之
装丁=木庭貴信+岩元萌(オクターヴ)

【内容紹介より】
初めて物語の中に私に似た人を見つけた日のこと、東京とソウルで参加したプライドパレードのこと、日本の同性婚訴訟やパートナーシップ制度のこと、同じ時代を生きている/生きていたクィアのこと――

誰かの痛みや怒りや悲しみが、まるで自分のことのように思えることがある。乳化した水と油のように混ざり合ってしまう。だけどあなたはあなたでしかなく、私は私でしかない。他者同士である私たちが、重なったりずれたりしながらともにあるための、「共感」と「距離感」。その可能性と難しさについて。

「わかる」なんて簡単に言えない、「わからない」とも言いたくない。ゲイとして、シスジェンダーの男性として、著者が日常の中で直面したエピソードを描きます。

 「何か一緒につくりたいですね」――小沼さんとぼんやりそんな話をしたのは2023年4月のこと。都内の喫茶店。いま思っていることを互いに共有し合い、思いつくままにアイデアを出し合い、でもそんなに話は膨らんではいかず、会話も尽きかけた頃に、ふと「あなたに起きたことなのに」という言葉が私たちのあいだに浮き上がってきたのでした。

 あなたに起きたことなのに、わがことのように思えてしまう。実際には混ざり合ってなどいないのに、混ざり合っているかのように思えてしまう。

 そんなどちらともつかない場所に立ちながら、何かを表明したり、他者とコミュニケーションしたりすることに伴う引き裂かれ、割り切れなさ、葛藤、あるいは躊躇ためらい。簡単に言えば、「あわい」にとどまることの話。しかし、ともすると何か言った気になりそこで終わってしいがちな「あわい」という言葉を、安易には使いたくない。そんなところから出てきたのが「共感」「距離感」「練習」するというキーワードでした。

 共感することも距離感をとることも難しい。限界を見定めながらも、その可能性を手放したくない。そのように編まれていったのが本書です。

 本稿では特別に、本書の「はじめに」を全文公開します。小沼さんの文章、ぜひご一読ください。

編集部=天野


はじめに――わからないけどわかるよ

 「わかるかも」が、口癖だった時期があった。友人の話を聞きながら、映画の感想を話しながら、ニュースを見ながら、最初に口をついて出るのがこの言葉だった。
 口癖は友人に指摘されてから、気恥ずかしくなってやめた。だけど言わなくなっただけで、今でもよくそう思っている。
 今も昔も、口喧嘩をするのが苦手だ。相手の言い分が「わかる」気がしてしまって、素早く言い返せないから。ある時から、なるべくSNSを見ないようにしている。文章に託されている無数の大きな感情に流されてしまうから。

 誰かのことを「わかる」と思うのは不思議だ。痛みや悲しみが、自分の中へ流れ込んでくるように感じる。私が体験したわけではないのに、まるで自分のことのように思えて、楽しそうなら私も楽しくなるし、つらそうなら同じようにつらくなる。混ざり合ってしまって、境界線があいまいになる。混乱しながら、ほんの少しだけ、神秘や魔法のようだと思う。
 よく振ったボトルの中で、水と油が混ざり合い乳化するのを思い浮かべる。かくはんされてきらきらと輝いて、きれいに見える。だけど言葉を交わしたり考えたりしているうちに、少しずつまた分離していく。あなたはあなたでしかなく、私は私でしかないことを思い出す。お互いがはっきりとした輪郭と異なる質感を備えていて、混ざり合ってなどいない。
 錯覚みたいなものだ。「わかるかも」は、「共感」は、神秘でも魔法でもないのだった。

 「共感が大切」とよく言われる。「共感は危ない」とも聞く。
 この能力を使えば、他者の痛みに素早く寄り添うことができる。細部が違っていても、似ているところを見つけて親しみを覚えることができる。他者の経験を想像して、その人が訴えている問題を一緒に解決しようとする原動力にもなる。
 一方で、自分の経験や感じ方をもとにした共感は、理解しやすいようにものごとを歪めたり、相手にとって大切なことを見落としたりすることがある。相手との立場や経験が異なるほど、見落としや歪みが増えていく。立場や経験を共有しているほど、小さな誤解が大きな違和感になることもある。安易な共感は、される側にとっては暴力的にもなる。
 自分自身と照らし合わせてもそう思う。例えば、ゲイ男性である私がその経験について話した時。相手にもよるけれど、あまり安易に「わかるかも」と言われたら、「本当に?」と警戒してしまうだろう。話を打ち切られなかったことに少し安心しながら、どこまでちゃんと伝わっているのか確かめようとする。軽んじられることも、大げさに受け取られることも、別の何かを投影されることもないように、説明を付け足したり、相手のこれまでの経験を聞ける範囲で尋ねたり、感覚的なことを言って反応を見たり、その反応を受けて訂正したりしてみる。
 それでも自分にとって重要なことが共有されなかったり、歪みが修正される兆しがなかったり、とにかくあまり伝わっていないと感じたら、私はなるべく穏便に話を切り上げようとするだろう。
 それで、やっぱり共感なんかいらないとうんざりする。こんな不具合だらけの能力、と思う。誰かを理解しようとする行為にはやさしさが含まれていると思っているし、その気持ちも「わかる」。だから、ちょっと申し訳なくもなる。差し出した手をこんなふうに振り払われて、「相手をわかろうとする努力を怠っている」と怒る人もいるかもしれない。でも、隅に追いやられている人や、社会に想定されていない人こそ、日常的にその努力をたくさんさせられてきた、とも思う。

 そうやって隅に追いやられている立場から中心にいる人たちに苛立つ時、その矛先は翻って私自身にも向けられる。私も男性として、シスジェンダーとして、病気や障害がない者として、都市生活者として、日本で暮らしていることに疑いの目を向けられない者として、日本国籍を持つ者として、植民地支配の歴史の延長線上を生きる者として、無自覚に誰かをうんざりさせているからだ。
 「痛い」と声を上げた人を見て、反射的に私の胸が痛む。この痛みは一体なんだろう? 話を聞いて想像したその人の痛み、その痛みを想像するために参照した私の過去の痛み、かつて自分が同じように誰かを傷つけたことを思い出した痛み、かつて傷つけたその誰かの痛みを想像して生じた痛み……よく見てみれば色々な痛みが混ざっているはずで、全然わかってなどいない。だけど話を聞いているその瞬間は、「わかるかも」と思っている。
 私は人よりも混ざり合った世界を漂っている時間が長いのかもしれない。乳化した世界を揺蕩たゆたい、はっとしてまた分離しようとする。境界線を、自分の立場を確認する。それを繰り返している。

 本当は「わからない」からはじめるべきなのかもしれない。安易に共感するよりも、その方が安全だと思う。でも、スイッチのように共感を切ることはうまくできないのだった。私にとって、共感は「する」のではなく、「してしまう」ものだから。それは勝手に動いたり、動いてほしい時に微動だにしなかったりする。不具合だらけだ。それで無理やりスイッチを切ろうとすると、今度は誰も傷つけないけれどわかりあうこともないような距離感になってしまう。実際、暴力的になるよりはいいと思って距離をとりすぎてしまって、親しくなる機会を逃すことがよくある。
 共感も距離感もうまく使いこなせない。だからこそこだわってしまうのだろう。なんとか組み合わせて、練習しながら上手になっていきたい。混ざり合った世界と分離した世界を同時に生きるように。言葉にならないものと言葉を重ねて一つにするように。

 初対面の人たちが、会話の弾みで少し込み入った話をする場に居合わせたことがある。そこでは、相手の発言に同意する時にも「ちゃんとわかっていないかもしれないけど……」と前置きしたり、話し声のニュアンスを調整したりするコミュニケーションが交わされていた。そうやって、同じところと違うところを確かめながら、暴力的になる可能性を減らすための距離を測っていた。共感の危うさを知りながら、どこまでいっても「わかる」ことなんてないと思いながら、それでも何かを伝えて心を近づけようとしていた。
 その姿を見て、あの頃口癖のように言っていた、そして言わないだけでいつも思っている「わかるかも」の意味に、ふと気づいた。それは「わかるかもしれないし、わからないかもしれない」では、なかった。どちらかだけではないのだ。「わかるところもあるし、わからないところもある」というのとも、少し違う。思っていたのは、矛盾しながら、それでもその二重性を細いピンで留めるような言葉だった。

 「わからないけどわかるよ」。中途半端で、どっちつかずの言葉だと思う。でも、いつもそう思っている。「わかる」とは言えない。「わからない」とは言いたくない。その「あわい」を、中途半端を生きている。
 いつも自分のことを中途半端だと感じている。わかるともわからないとも、イエスともノーとも言い切れない。ああでもないこうでもないと明確な結論を出せずに、ぐるぐると考え続けている。
 だけどそれならせめて、ちゃんと中途半端でいたいと思う。答えを急がず、単純化せず、抱え続けていたいと思う。そのために、自分に問いかける。「考え続けている」という顔で思考を放棄していないか。たまには羽を休めてもいいけれど、そればかりになっていないか。多くの人が積み重ねてきた蓄積があり、どんな立場を取るべきか明白なものに対して「それぞれの正義」などと安易に相対化していないか。時間をかけて考えた言葉に固執して、別の重要な言葉を見過ごしていないか。揺らいでいるか。無防備でいるか。

 穏やかに見えていたあわいがうねりだす。不完全な力のせいで、どの波もきらきらと輝いて見える。不完全な力のせいで、どの波にも乗り出せない。
 居心地が悪い。でもこれはきっと、引き受ける価値のある居心地の悪さだ。

小沼理


『共感と距離感の練習』目次

はじめに――わからないけどわかるよ
重なりと異なり
別の複数の色
善意
「男性的」
空気と柔軟体操
水の中
アップスパイラル
シーンが救う
もっと大きな傘を
ありあまるほどの
ここにいない誰か
無関心について
安全なファンタジー
未来がない気分
男性への愛(切り裂いて)
プレイリスト
いつかどこかで
あるいは
おわりに――無防備になる

著者略歴

小沼理〈おぬま・おさむ〉
1992年、富山県出身、東京都在住のライター・編集者。著書に『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』(タバブックス)。本書がはじめてのエッセイ集となる。

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