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韓国語版によせて|まとまらない言葉を生きる|荒井裕樹

 2021年5月の刊行以来、多くの読者の支持を得ながら読み継がれている荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』(現在6刷)ですが、このたび、韓国で翻訳される運びとなりました。タイトルは『言葉に救われるということ』(말에 구원받는다는 것)、日本語版の終話をもとに名付けられたようです。(韓国版のジャケットにもぜひ注目ください!)

★韓国語版の書影★

 本稿では韓国語版の出版を記念し、著者が序文として新たに寄せた文章とインタビューをお届けします。新たな読者との出会いを楽しみにしつつ、出版に尽力くださった関係者の皆様に、この場を借りて心より御礼申し上げます。

▼同じ内容が以下からも読めます(韓国語版)

韓国の読者へ

 本書『まとまらない言葉を生きる』は、タイトルが示すとおり、「言葉」について綴ったエッセイ集です。「まえがき」にも書いたように、特に2010年代の後半あたりから、社会にあふれる言葉がものすごい勢いで壊れつつあるのではないかという不安や焦燥感が私の中に降り積もっていきました。誰かのことを貶め、黙らせ、生きることを「楽」にも「楽しく」もさせてくれないような言葉に接する経験が増えてきたのです。

 こうした風潮に対して何かをしたいのだけれど、具体的に何をすればよいのかわからない。本書の基になったWEB連載をはじめた頃は、とにかく居ても立ってもいられないような思いで文章を綴っていました。文学者の一人として、自分がそうした言葉に慣れてしまいたくない、心を麻痺させてしまいたくない、少しでも抗う言葉を社会の中に放ちたい。そんな気持ちを燃料にして、とにかく筆を動かしました。

 その後、WEB連載を書籍化するにあたり、本書のテーマや構成を明確に整えた方がよいとのアドバイスを受けたのですが、著者として、これが本当に苦しく困難であったことをここに書き留めておきたいと思います。大きく、不気味で、捉えどころのない社会の空気感に抗おうとする際、分かりやすく理路整然と言葉を整えることは、少なくともあの時の私にはできませんでした。苦しくてもがいているところに、「その苦しさの中身が伝わるようにもがいた方がいいよ」とリクエストされたようで、頭が真っ白になったのです。

 その後、「この本はきれいにまとめることなんかできません」という私の開き直りのような気持ちを受け止め、諦めかけていた書籍化への道を拓いてくださったのが、WEB連載時からサポートしてくれていた担当編集者の天野潤平さんと柏書房の皆さんでした。この場を借りて改めて御礼申し上げます。

 本書で私が試みたのは、日本社会の歪みに悩まされ、苦しめられてきた病者や障害者や女性たちの切実な声から、少しでも「言葉への希望」を見出そうとすることです。こうした言葉が、日本と歴史的に深い関係のある韓国の読者たちにどのように受け止められるのか。正直、少し不安もありますが、それ以上に興奮にも近い期待を抱いています。この中で紹介した言葉が韓国の人たちの心にも響いたとしたら、私たちはきっと「似たような社会の歪み」の中で、「似たような痛み」を抱えながら生きていることになるからです。

 振り返ってみれば、本書の原形となった連載をはじめたのが2018年のこと。この年、日本の論壇ではチョ・ナムジュさんの著書[*1]が翻訳されて話題になりました。その後、韓国のフェミニズムに関する書籍が立て続けに紹介され、今や関連書籍のコーナーを常設する書店も少なくありません。2022年には車椅子ユーザーで作家・パフォーマー・弁護士のキム・ウォニョンさんの著書[*2]が続けて翻訳され、こちらも大きな話題になりました。このことも更なる波の到来を予感させます。

 私たちの間には、すでにいくつもの架け橋があります。更なる架け橋を求めて手を繋ぎ合おうとする人たちもいます。互いの「似たところ」を分かち合い、「違うところ」から学び合うことで、更に同じ方向を見ることができるのではないでしょうか。本書が、そうした架け橋の一部になってくれることを願っています。
 
 最後になりましたが、本書の翻訳を担ってくださったペ・ヒョンウンさんに心から敬意を表し、感謝を申し上げます。

2023年4月 荒井裕樹

[*1]チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』斉藤真理子訳、筑摩書房、2018年
[*2]キム・ウォニョン、キム・チョヨプ『サイボーグになる テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』牧野美加訳、岩波書店、2022年。キム・ウォニョン『希望ではなく欲望 閉じ込められていた世界を飛び出す』牧野美加訳、クオン、2022年。キム・ウォニョン『だれも私たちに「失格の烙印」を押すことはできない』五十嵐真希訳、小学館、2022年。

著者インタビュー

——『言葉に救われるということ』の中では、SNS上で広がっていく言葉の危険性が描写されていますが、他人の苦痛を軽視し想像できない傾向もインターネット文化によって強化されているようです。 荒井先生のご意見はいかがですか?

 そもそも言葉は毒にも薬にもなるので、「悪い言葉」と「良い言葉」をきれいに分類することはできません。またインターネットを通じて「悪い言葉」と「良い言葉」のどちらの方が拡散力が強いかを検証することも難しいでしょう。ただし、SNSが普及した現代、「私たちが発した言葉が、そのまま私たちの社会の在り方に影響を及ぼす」という傾向が加速度的に強まっているのではないでしょうか。今後AIの発展にともない、こうした傾向に更に拍車がかかるはずです。なぜならAIは「私たちの言葉」を学んでいくからです。私たちは、自分たちが生きる社会をどんな社会にしたいのか。それが今、一人一人の「言葉」にかかっているのです。それはとてつもなく恐ろしいことなのではないか。一度、私と一緒に、立ち止まって考えてくれる人を増やしたい。『まとまらない言葉を生きる』を書いたのは、そうした思いからです。

——本書の第9話では、「青い芝の会」に関する説明の中で、障害者集団内での女性差別を扱われていますね。 マイノリティ集団の中でも女性の人権は後回しにされることがあるようですが、その理由は何でしょうか?

 差別されるマイノリティ集団の中にも、残念ながら差別は存在します。日本の障害者運動のグループ内にも女性差別が根強く存在しました。社会は長らく女性に対して「後回しを受け入れる」「他人にゆずる」「がまんする」という性役割を押しつけてきたからです。

 1960~70年代にはじまったフェミニズムは、こうした問題は政治的・社会的な問題なのだと訴えました。『まとまらない言葉を生きる』を書いてみて、改めて、半世紀前のフェミニズム(当時はウーマンリブ)から、今なお学ぶべき点が多いことに気づかされました。

「性の多様性」が重要視され、セクシャル・マイノリティの人権尊重が叫ばれる昨今、フェミニズムはとても難しい立場に置かれているようです。SNSやマスメディアなどで「女性の痛みだけを特権的に扱おうとする人々」といった雑で不正確な描き方をされています。しかし、フェミニズムが訴えたのは「この社会の中で、ある特定の“性”を生きることが何故こんなにも苦しいのか」という問題です。こうした問題提起は、すべての性差別を考える上で、今なお貴重なヒントを与えてくれるはずです。

 現在、日本ではセクシャル・マイノリティへの差別、特にトランスジェンダーへの攻撃が悪化していて、強い危機感を覚えています。トランスジェンダーへの差別は「この社会の中に、差別したり攻撃したりしてもよい“性”を作り出すこと」に他なりません。『まとまらない言葉を生きる』で紹介した性差別に関するエピソードが、こうした危機感をもつ人たちとの連帯に繫がることを望んでいます。

——先生が本の中で言及されたように、「文学的だ」という言葉は、韓国でもよく「悪い評価」として使われます。 「感傷的で、曖昧で、実質的に役に立たない」と言いたいときに、よく使われるのです。 このように「文学」を軽視する風潮は、結局どんな社会につながると思われますか?

 文学を軽視する風潮は、多様な価値観を認めない社会を造っていくでしょう。そもそも、この社会には「多様な価値観」をもつ人たちが存在します。私たちは、一人一人、いろいろな物事に、さまざまな価値を見出しながら生きています。お金が大事な人。宗教が大事な人。効率を重視する人。義理を重んじる人。「私が大事にしたいものを、大事にさせてくれない社会」を造らないためにも、私は「文学者」を名乗り続けようと思います。

——先生はこの本を、どんな読者に読んでもらいたいですか?

 寝るのが怖い夜に、ぬいぐるみを抱きしめた経験がある人。そうした人に読んでほしいです。

(了)

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