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[連載小説] 「青春の外堀 -TOKYO1980」第一話<外堀前夜>

第一話「1980.3月。僕は完全な田舎者だった」


不動産屋に紹介されたアパートは3件だった。下北沢と下高井戸と荻窪。1980年の3月、東京市ヶ谷にある外堀大学に入学することになった「かしゆお」が最初にしなければいけないのは住む場所を探すことだった。2月に受験で東京に来て驚いたのは、若者たちがみんなヘッドホンをして歩いていたこと。東北の地方都市出身の「かしゆお」は、「ウォークマン」を見たことがなかったのだ。だから、「ウォークマン」というのはヘッドホンのことだと思っていた。腰に本体をつけているのを知らなかったのだ。「シティロード」という雑誌も買ってみた。情報誌というものらしい。「ぴあ」というのもあったが、「シティロード」の方が信頼できそうだった。1979年のランキングというのがあって1位は「イエローマジックオーケストラ」という全くわからない名前が書いてあった。沢田研二の「TOKIO」とか、竹内まりあの「不思議なピーチパイ」とかクリスタルキングの「大都会」とかが流行っている年で、受験勉強ばかりやっていたが、音楽をまるっきり聞いてないわけじゃなかた。でも「イエローマジックオーケストラ」というのは、テレビで見たことはなかった。受験する大学の下見に行くついでに、池袋とか新宿とかにも行ってみた。私鉄という概念を知らなかったので、小田急線とか京王線とかに乗っていく大勢の人たちは、一体どこにいくのだろうと思った。京王線という電車の先には何があるのだろうと思った。新宿駅南口の「ルミネ」というデパートのようなところに行ってみた。本屋しか行くところはなかったが、どのフロアもカップルばかりだった。僕は、全く一人ぼっちだったが、その後に受験する第一志望の地方の国立大学のことは、もうどうでもよくなっていた。東京は、なんか面白いぞと、心のどこかで思ったのだ。地方の進学校なので、まずは国立大学を目指す。「かしゆお」自身は特別東京に憧れがあったわけでもなかったが、受験で来てみると、東京の街の何かが、何かを感じさせていた。

4つの東京の私立大学を受けたが、「外堀大学」しか受からなかった。そもそも、戦略を間違えたのだと思う。田舎の高校だと国立大学受験を基本目指すので、そのころは共通一次試験というのがあって、「かしゆお」の世代は2年目。今の若者はもう知らないと思うが、共通一次試験制度の前には国立大学は一期校、二期校に分かれていた。今思うと差別的だと思うが、本郷大などの旧帝国大学系の大学を中心に、その地方を代表する一期校とその他の二期校があり、どちらも一つずつ受けられた。首都圏だと本郷大が一期校で、その人たちの二期校としては神奈川国大を受けるという風に。しかし、共通一次でそれがなくなり、国立大学は一つしか受けられなくなった。そこで起きたのが、私立大学の難化だった。西早稲田大や三田大を頂点に私立がぐっと難しくなった頃だった。あとで考えると共通一次の勉強だけで、私立専願の人たちに太刀打ちできないのは当たり前だったが、そんなことはちっとも知らなかった。東京に来てわかったのだが、東京の普通の受験生は国立なんか受けない。受験といえば私立大学だった。英語と国語と社会の3科目だけ。5教科7科目の、例えるならオリンピックの陸上十種競技の選手が、短距離専門の人と100メートル走って叶うわけない。浪人して次の年に東京の難関私立にバンバン受かった高校のクラスメートたちは、東京の予備校で驚いたという。「予備校でやった問題がそのまま出るんだよ。うちの高校の受験対策では無理だよ」と口々に話していた。「かしゆお」は予備校に行ったことがないので、本当のところはわからないが、「そのまま出るなんてあるのか?」と、それをあとで聞いて損した気がしたが、その一年前、かしゆおは浪人することなく、外堀大学に行くことにした。東京の何かが、心をドキドキさせてくれたし、何より大学までの外堀の並木道がとても気持ちよかったのだ。(写真は現代の外堀、中央線より)      
 本日は2023年1月1日 毎週土曜日更新



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