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潔癖症が炸裂

 エッセイ連載の第16回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)
 今回は、ひかれそうな内容ですが……

口に手を突っ込まれる

 コロナ禍でずっと歯医者に行かないようにしていたのだが、ついに虫歯で行かざるをえなくなった。
 感染対策がきちんとしてある歯医者で、ほっとしたが、それでも人前でマスクを外すのは、コロナ禍以降、初めてのことだった。
 さらに、歯医者だから口に手指を突っ込まれる。ずっとひきこもっていた人間には、なかなかインパクトがあった。

 感染対策がきちんとしてあったと書いたが、それでも潔癖症な私には、気になることが多々あった。
 潔癖症の人間が、いったいどんなことを考えているのか、その一端を、今回ご紹介してみたいと思う。

まずはOK

 まず歯科医院に入ったとき、ドアが閉まらなかった。換気のために開け放しにしてあるのだ。これは嬉しい。
 スリッパは殺菌のためのボックスに入っている。そして、手指をアルコールで消毒してから待合室に入る。これもいい。
 院内はマスクを着用するよう壁に掲示がある。もうコロナは5類になったわけだが、それでも院内のマスクや消毒は継続中だ。

 診察室に入るときには、またあらためて手指をアルコールで消毒させられる。これも嬉しい。
 外したマスクを置く台もあって、「消毒してありますから」と説明される。これも助かる。

 いよいよ診察で、そのときの器具が消毒されていることや、医師や歯科衛生士の手袋が患者ごとに替えられていることは、これはもう信頼するしかない。
 問題はここからだ。

ポールペンの疑惑

 歯科衛生士に歯周病のチェックや歯石取りをしてもらったのだが、歯周病のチェックをしながら、歯科衛生士はカルテにボールペンで何か記入している。

 そのポールペンは、患者ごとにちゃんと消毒してあるのか?

 それが気になる。
 私の口の中をさわって、その手でポールペンを握って記入しているのだ。当然、私の唾液がそのポールペンにつく。他の患者のときも同じだろう。
 とすると、もし患者ごとにポールペンを消毒してなければ、前の患者の唾液がそのポールペンにはついていることになる。
 とすると、ポールペンを握ったその手指には、前の患者の唾液がつくことになる。

 その手指が、また私の口の中に戻ってくる。
(ギャーッ!)と、心の中では楳図かずおの漫画のように恐怖で叫んでいる。

 しかし、実際には何も言えない。
 私は潔癖症であると同時に、気の弱い人間でもあるからだ。
 どうかポールペンが消毒してありますようにと祈りながら、黙っている。

「ボールペンを消毒してありますか?」と聞けば答えてくれるだろうし、「消毒してもらえせんか?」と言えば、拒否はされないだろう。
 しかし、「面倒くさい患者」と思われるはずだ。それくらい、なんだ。コロナなどの感染症になって苦しんだり後遺症が残ったりするくらいなら、「面倒くさい患者」と思われるほうが、何千倍もましだ。比べものにならない。
 それなのに、何も言えない。気が弱いとは、そういうことだ。優先順位を守れない。
 しかも私の場合、持病があるから、長年の医師と患者の関係から、医療者に対しては、お代官様の前に出た平民のように、つねに卑屈な笑顔を浮かべるのが習い性になってしまっている。

フェイスガードの落とし穴

 歯石取りに入る。歯科衛生士はマスクだけでなく、フェイスガードもつける。これも嬉しい。
 しかし、歯石取りの最中に、ときどきフェイスガードにさわる。それはそうだろう。作業中にちょっとズレてきたりするから、位置を正したくなるものだ。

 ただ、「そのフェイスガードは消毒してあるのか?」と気になってしまう。

 どの患者のときも、当然、同じフェイスガードを使っているだろう。ひとりごとに、フェイスガードも消毒していればいいのだが、そこまではしていない可能性もある。そうすると、フェイスガードには患者の唾液も飛んでいるかしれない。それをさわれば、手指にそれがつく。
 その手指が、私の口の中に──。
 また、(ギャーッ)と内心で叫び、実際には何も言えない。

椅子の裏は見逃されがちでは

 歯科衛生士が、椅子の位置を直す。これも当然の行為だろう。しかしそのとき、椅子をさわる。その椅子ははたして、患者ごとにちゃんと消毒してあるのか?
 歯科衛生士の手指の先は、椅子の裏側のほうまでさわっている(潔癖症の人間はそういうところを見逃さない)。椅子の表面はまだしも、裏側まで、ちゃんと患者ひとりごとに消毒しているだろうか? かなり疑わしい。なかなかそこまではできないのでは。
 そうすると、椅子の裏側には前の患者の唾液がついていて、それをさわった手指がまた私の口に──以下同文。

無意味にへとへと

 というわけで、かなり感染対策がきちんととられている医院でも、潔癖症の患者は、さまざまなことが目につき、そのたびに心配し、心の中で不安な絶叫をくり返している。
 消毒を要求しないのだったら、何も心配せずに治療を受けている人たちと感染リスクは同じだ。心配したり絶叫したりしてへとへとになっている分、かえって免疫力が落ちて危険なくらいだ。
 しかし、やめられない。それが潔癖症だ。
 これでも、私はもともとの潔癖症ではなく、病気になってからの、いわば「にわか」なので、もともとの人はもっと大変かもしれない。

パン屋の完璧くん

 歯医者の帰り、パン屋に寄った。
 何かにがぶりと噛みつきたくなったからだ。
 歯医者からの帰り道にある、初めてのお店。パンはガラスのショーケースの中に入れてある。いい感じだ。

 ただ、油断はならない。店員さんがパンをどうあつかうかが肝心だ。ビニール手袋をするのはいいが、その手でパンだけでなく、お金をさわったり、レジをさわったりすることもある。手袋の意味が何もない。

 若いイケメンの店員さんだった。爽やかな印象にだまされてはいけない。爽やかに無神経ということはいくらでもある。

 パンを注文すると、彼はビニール手袋を右手につけ、パンを入れる紙袋にその手を突っ込んだ。紙袋を開けるためだろうが、突っ込んだまま、左手でパンのショーケースを開けたり、引き出しを開けたりしている。ビニール手袋をつけた右手を、そういうことにいっさい使わないのだ。そして、その右手でパンを入れた。それから、ビニール手袋を外して、お金を受け取った。

 完璧だ!

 右手を紙袋に入れたままにしていたのは、その手でうっかりどこかをさわらないようにするためかもしれない。おそらく利き手ではない左手で、他の作業をすべてやるのだ。

 なんて素晴らしい人なんだ! 称賛したかったけど、気の弱い人間は、ほめることもできない。

 でも、またここでパンを買うよ!


これは、木村セツさんのちぎり絵のポストカード


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