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人生でがんばりたいのは、そんなことではなかった

 エッセイ連載の第21回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 ある人の文章を読んでいて、その一節に、胸をわしづかみされました……。

 どなたが書いたものだったか、申し訳ないことに、もうわからなくなってしまったのが、たしかネットだったと思う。
 ある闘病記を読んでいたら、病気に対処するために、当人もいろいろ工夫したり努力したりしていて、それがある程度、うまくいって、ちょっとほっとしたという箇所で、たしかこう書いておられた。

 でも、私が人生でがんばりたかったのは、こんなことではなかった。

 この一文に、私はとても胸を打たれた。
 まったくだと思った。
 こんなことでがんばりたい人がどこにいるだろう。
 しかし、がんばらざるをえない。がんばらないと生きていけない。
 よくがんばったなと自分をほめたいときもあるだろう。大きな喜びもあるはずだ。
 でも、ちょっとほっとできたときに、むなしさがおそってくる。
 自分はいったい何をがんばっているのだと。
 このがんばりを、もっと別のこと、たとえば自分の夢をかなえるためとかに使えていたら、どんなによかっただろう。

 冤罪で長期間、無実を訴え続けて、ついに認められたというニュースがしばしばある。どれほど大変だったかと思う。想像を絶するがんばりだ。
 しかし、冤罪ということは、もともと事件とは関係がないのだ。それなのに、がんばらされたのだ。
 人生でがんばりたいのは、そんなことではなかっただろう。

 病気とか冤罪とか、極端な場合でなくても、今現在、仕事にしろ、学校にしろ、家庭にしろ、何かすごくがんばっていて、でも、本当はそんなことでがんばりたいわけではないのだ、という人は、たくさんいるだろう。
 本当は、もっとぜんぜん別のことでがんばりたいのだと。

 あなたは、がんばりたいことでがんばれているだろうか?
 それとも、がんばりたくないことで、がんばっているだろうか?
 私は後者のほうが多いように思うのだが、どうだろう?

 夢のあきらめ方についての本を出したことがある(『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』河出書房新社)。

 この本の話を、ある人としていたら、
「じつは自分も夢をあきらめたことがある」
 と言い出した。

 あるスポーツの選手を目指して、自分のすべてをそこに賭けていたそうだ。
 しかし、ケガもあり、夢はかなわなかった。
 そして、今はぜんぜん別の仕事についているのだが、その仕事がとても好きで、がんばりがいがあり、結果的にはそのほうがよかったから、夢をあきらめたことはぜんぜん残念なことと思っていない、ということだった。

 すごく明るい顔をして元気よくそう言っていたので、私もそうなのだろうと素直に受けとめていた。

 ところが、もう帰ろうというときになって、彼は突然、こう言い出した。

「本当はいまだに受け入れられません。選手として生きたかったです。今もがんばっていますが、私ががんばりたかったのは、本当はこんなことじゃなかったんです」

 この言葉にもとても感動した。
 それまでの明るい顔から一転した、彼の暗い顔に、とてもひきつけられた。こういうことを言える人が好きだと思った。
 なぜ、私と話がしたかったのかさっぱりわからなかったのだが、これが言いたかったんだと、最後になってわかった。最後でないと言えなかったのだろう。
 会ったのはそのときだけだが、忘れられない人のひとりだ。




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