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読書メモ:だれにでも「いい顔」をしてしまう人

▽この本がおすすめな人

「嫌われたくない症候群」はこんな人
・友だちがいっぱいいるフリをしたり、幸せだと誇張する
・「かわいそう」「つらかったのねー」といつも慰めてほしい
・ことなかれ主義者で、自分からとにかく謝ってしまう
・たとえお世辞でも褒めてくれる人が「いい人」だと感じる
・他人の眼差しが気になり、心のそこを見られるのが怖い
・自分が相手を嫌いなのに、相手が自分を嫌いだと思いこむ

第一章 ケンカができないさびしいピエロ

人とのつきあいは「接待」と同じ感覚

愛されないで育った子どもは、だれにでも好かれたい、だれにも嫌われたくないから八方美人になる
「専横な母親において直面する(あるいは解釈する)愛情の欠如の結果として、子どもは早くから誰にでも愛情をもとめる強迫的欲求を発動させ、それは一生残って、彼を不安定にし、他の人々に依存的にする」ー『人間関係の病理学』
彼らは依存心が強いから、劣等感にも悩まされる、依存心と劣等感とは相関関係がある
「嫌われたくない症候群」の人はみんなに嫌われたくないからケンカをしない
表面的にはだれとも仲良くする
しかしステレオタイプのつきあいで、実存的レベルでの深いコミュニケーションはない
要するに、つきあいは接待である

自分を安売りして他人に尽くす

「嫌われたくない症候群」の人で能力がある人は、どんどんと自分を安売りしていく
そしていつのまにか自分がほんとうに安いものと思いはじめる
自分の能力を客観的に評価することは社会生活をしていくうえで、きわめて大切である
能力があるのに能力がないと思ってしまうのは危険である、つまり自分の周囲にずるい人ばかりを集めてしまう
そして何かあると、その人を犠牲にして物事が解決される
犠牲を払うとその人が大事にされるかといえば、逆である、周囲の人は彼が自分たちを必要としていると思うことで傲慢になる

飛んで火にいる夏の虫

カレン・ホルナイが言うように、自己蔑視の特徴の一つは虐待を許すということである
自己蔑視している人は他人が自分を虐待することを許す
親から情緒的虐待を受けた子どもは、大人になってから他人からの虐待も受け入れてしまう
なぜならその人自身が虐待されることに心の底で同意しているからである
バカにされた扱い、軽視された扱いをされることにその人が心の底で同意している
自分で自分を軽蔑しているがゆえに、自分を大切に扱ってくれることには逆に違和感がある
だからこそ質の悪い人に対して献身し、やさしい人をおろそかにしていくのである
ずうずうしい人のカモに、みずからすすんでなる
自己蔑視している人は「飛んで火にいる夏の虫」である

「小さな不満」が大きくふくらむ

人は神様でないから、慣れ親しめば不満は出る、トラブルは起きる
そのトラブルを解決することで、いままでよりもいっそう親しくなる
トラブルはコミュニケーションで「あなたの真実を見せてください」と叫んでいるのと同じである
ケンカはある出来事の解釈の違いから起きる
おそらく両方が正しい
外国人との結婚を考えればわかる、文化が違うからトラブルになってもどちらが悪いというわけではない
正しいことと正しいこととの矛盾である
正面からぶつかったときには両方に言い分はある
トラブルの解決において大切なのは頭の理解ではなく、感情の納得である
「臭いものには蓋」では親しくなれない
嫌われるのが怖い人は、よく見て見ぬフリをする、でも知っている
そういうつきあいは長続きしない

第二章 とにかく愛されたい人の心

虐待されても「孤立と追放」を恐れる

フロムは人がもっとも恐れるのは「孤立と追放」だと言う
人間がしょうきであるためには、人とかかわりあいを持たなければならない、それは性や生命への欲望にもまして強いものであるとフロムは言う
「孤立と追放」をもっとも恐れるのは、愛情飢餓感の強い人である
愛情飢餓感から「孤立と追放」を恐れて、自分を見失うほど人に迎合する
自分がないから「孤立と追放」が怖い、悪循環していく

敵意に満ちた人間関係

自分がない人は、人から好かれることで自分という存在を感じる
自分で自分の価値を認めることができない人は、人から好かれることで自分という存在を感じる
そこで嫌われたくないから「実際の自分」を偽る
そして「こうしたら人に気に入られるのではないか」ということについて誤解がある
相手の好意が欲しいから、好きでないものを「好き」と言う
嬉しくないことを「わぁ、嬉しい」と言う
相手に気に入られたいから、「したいこと」を「したくない」と言う
そうして無理をしている間に日々怒りが心の底に堆積していく
本人はそれに気がついていないが、それは敵意となり憎しみとなっていく
彼らはその敵意を外化する、つまり自分の心の中に敵意があるのに、周囲の人が自分に敵意があると感じる
「嫌われたくない症候群」の人は小さいころから家の人や仲間によく冷やかしやからかいを受け、知らず知らずのうちに敵意に満ちた人間環境のなかで心に深い傷を負っているのである

自分の気持ちがわからなくなる

嫌われることや、拒否されることを恐れて自分を隠していると、たしかにほんとうの自分がどんなじぶんであるか自分にもわからなくなる
嫌われることや拒否されることを恐れて、相手の意向に従順であるときには、相手に対して自分がどんな感情を持っているか本人にもわからなくなっている
そして嫌われるのが怖くて、相手に合わせて従順な日々を送るなかで毎日少しずつ相手に対して敵意が蓄積されていく
ふつうは相手を好きだから拒否されることを恐れる、相手を好きだから嫌われることを恐れる
しかし「嫌われたくない症候群」の人はそうではない、嫌われることを遅れているからと言って相手を好きだとはかぎらない

他人への敵意が自分に向けられる

従順な部下と上司がやがてうまくいかなくなることがある
従順な部下は自分の心の底にある真の感情に気がついていないのである
従順に上司に仕えているとき、まさか自分はこの上司に敵意などもっているということは想像できない
しかし過度の従順は敵意の反動形成ということもある
私たちはさまざまな感情を自分が感じることを禁じている
そして自分が実際に感じている感情を意識することを拒否することで、自分が自分を嫌いになる
しかし逆に私たちは禁じられた感情を体験することで、自分が自分を好きになることができる
自分が感じている敵意を自分に禁じることで、その敵意は相手ではなく自分に向けられる
それがいじめの恐ろしさである
いじめられる人間は何も悪いことをしていないのに、罪悪感を持ってしまう
いじめられた人は、相手に向けるべき敵意を自分に向けてしまうからである

隠された「ほんとうの自分」

自信を持ちたければ、自分でほんとうの自分の感情をしつことを禁じてはならない
「嫌われたくない症候群」の人は、自分の評判が悪くなるのを気にして、ほんとうの自分をだれにも見せることなく終わった過去を反省することである
周囲の人が「ほんとうの自分」を知ったら自分を嫌いになるだろうと思って、自分の感情を隠した
その隠したことで、周囲の人は「ほんとうの自分」を嫌いになるだろうという考えを強化したのである
もしそこで自分の感情を出せば、自分は嫌われるとは感じなかった
しかし嫌われると思って隠したそのことで、嫌われると感じてしまったのである
人は自分の行動で自分の感情をつくっていく

自己防衛としての八方美人

たとえば他人から見ると「嫌われたくない症候群」の人は、自分の悩みをたいそうなことのように思っているナルシスト、自意識過剰で自己不在、自己陶酔しながらも自分が嫌い
あるいは他人が再興しているか、失敗しているかなどの他人の動向が気になるが、他人への思いやりはない
他者意識過剰で他者不在、自分が嫌いだが、他人も嫌い
求めているものが多いから、嫌なことが多い
要するに「嫌われたくない症候群」の人は自己実現に失敗している
「嫌われたくない症候群」の原因の一つは自己実現を怠ったことであり、自分を裏切って生きてきたことである
もちろんさらにその奥には、愛されなかった幼児期がある、親から関心を持ってもらうためには、自分を裏切らなければならなかった過去がある

恐怖感と無力感の悪循環

人はなぜ、ときに自分の能力を超えたことをしようとするのか?
なぜ「理想の自分」と「現実の自分」とが乖離するのか?
その原因は恐怖感である
「理想の自分」になることでしか、親から認めてもらえない、親の非現実的なほど高い期待をかなえることでしか、身を守れない
恐怖感から自分の身をまもるためには人に有rつすることだとなったときに、この乖離が始まる
それは安全への欲求である、そのための優越である
しかし「現実の自分」は、その優越を達成するだけの能力がない、そこに恐怖感が生じる、それが深刻な劣等感である
人から非難されない、人から責められない、人から拒絶されない、人から攻撃されない、孤独に苦しめられない、さいなまれない、そのためには@ここまで優越しなければならない」と感じる
深刻な劣等感に苦しんでいる人は、「理想の自分」を達成できれば安心して生きられるのではないかと思っている
攻撃にさらされているという現実ではなく、恐怖感が、攻撃にさらされていると言う感じ方をつくってしまう

親とのふれあいがなかった

自分を嫌いな親は子どもを嫌いである、この世の中には心の底で自分を嫌いな人はたくさんいる
親がどのような演技をしても、子どもは親の無意識に反応する
子どもは自分が嫌われていると言うことを間違いなく感じとる、そうしたら親が怖い、生きているのが怖い
そして「なぜ嫌われたか」という原因を「私はダメな人間だから」と解釈するだろう
そして嫌われないためには、いつも「いい人」でいなければならないと信じる、そして「完全な自分」を演じなければならないと思い出す
母親との関係で学ぶもっとも大切なことは、自分は自分だから母親に愛されているのだという感覚である、優れているから愛されているのではない、自分だから愛されているのだという感覚である

自分をよく印象付けたいがために

自分が嫌われている、あるいは認められていないと思っている人と、自分は受け入れられている、自分は認められていると思っている人では、物事の受け取り方が違う
たとえば成功とか失敗の意味が違う
自分は認められていないと思っている人にとって、成功とは評価されることである、心理的に健康な人にとっては自分の心が満足することである
同じように山に登ろうとしていても心は違う
心理的に健康な人は、自分の力にあった山に登ろうとするが、自分は認められていないと思っている人はエベレストに登ろうとする
自分の力にあった山に登る人は自分を知っている人である
他人に自分をよく印象づけようと努力すればするほど、自分はありのままでは価値がないという感じ方を強めてしまう
そこで虚勢を張ったり、迎合したりする、自然な態度で人と接することができない
心の底で「ほんとうの自分」が嫌われる存在だと思えば思うほど、必死で他人に自分をよく印象づけようとする
こうした人々は現実に生きていない、必死で他人に自分をよく印象づけようとしているときは「実際の自分」で生きているのではない

言い寄られると簡単に引っかかる

「需要的構えにあっては、人は『あらゆる善の源泉』が自分の外にあると感ずる」ー『人間における自由』
「自分の外」である他人は価値がある、その自分の外の他人から好かれることで安心する、自分の外である他人に尊敬されることで、自分という存在を感じることができる
「あらゆる善の源泉」が「自分の外」にあることで、たえず人から気に入られようとする
受動的構えの人の周囲にはずるい人が集まる、それはずるい人にとって受容的構えの人は都合の良い存在だからである
受動的構えの人は、ほんとうは自分には価値があるのに、価値があるとは思わない、ほんとうは相手は価値がないのに、ずるい相手を価値があると思ってしまう
受容的構えの人は自分から自分を不幸にする人を引き寄せてしまう

同情を求める被害者感情

悩んでいる人の手紙を読んでいると「私はこんなひどい目にあった」ということを延々と書いてくる
悩んでいる人の手紙には問題解決のための具体的なことが何も書かれていない、経済的にやっていかれないとか、肉体的に衰弱してきて将来が不安だとか、具体的なことは何も書いていないそのために自分はこう対処しようと思うがどうだろうか、ということは決して書かれていない
とにかく自己憐憫で、相手から同情を求めている
「宗教的な場合ならば、そうした人たちは神という概念を抱き、自らの行為によっては何も為すことなく、すべてを神に期待するのである
宗教的でない場合にも、彼らと人間または制度との関係は全く同じである、彼らは何時でも『魔法の援助者』をもとめるのであるー『人間における自由』
悩んでいる人は多くの場合、自分の問題を解決してくれる「魔法の杖」を求めている、だからその手紙の内容は要求ばかりである
解決のために自分が動いていない、「解決してくれ」と訴えている、そして「相手はひどい」と訴えている
これが「受容的構え」である
この受容的構えの基本にあるのが依存心であろう
依存心があるから、当然敵意もある、依存する対象が自分の望むように動いてくれない、その結果、相手を恨むことになる
ひたすら愛されることを求めているから、いつも不満になる、自分の求めているものが手に入らないからである

第三章 「嫌われてもよい」と思えば幸せになれる

「嬉しい」ことより「楽しい」ことを見つけよう

自分がない人ほど褒められると嬉しい、そして褒められると嬉しい人ほど批判されることを恐れる
とにかく「自分がない」ということが、幸せに生きていくうえでは致命傷である
では「自分がある」ようになるためにはどうすればいいのか?
まず何よりも「楽しい」ということを探すことである
「楽しい」ということには他人はかかわっていない、喜びとか「嬉しい」という感情には他人がかかわっている
野球が好きな人は野球をしていれば「楽しい」、優勝しなくても野球をすることが楽しい、負けても野球ができることで満足する
楽しいことは自分が好きなことをしているときである、人の期待に応えようとしてしていることではない
こうして「自分がある」ようになってはじめて他人ともコミュニケーションできる

好きな人と嫌いな人をハッキリ分ける

次に「自分がある」人間になるために大切なのは、人間関係の距離感をハッキリとさせることである
とにかく八方美人をやめる
もっと簡潔にいえば、好きな人と嫌いな人をハッキリと分けることである、尊敬する人と軽蔑する人をハッキリと分けることである
世の中には尊敬できる人ばかりではない、ずるい人がいっぱいいる、人をだます人がたくさんいる
決して同じ態度で人と接してはいけない

心の砦をつくる方法

心の砦をつくる方法は二つある
一つは自己実現である、もうひとつは戦うこと
とにかく相手の言いなりにならないで、自己主張することである
はじめは気が引けてなかなか自己主張できない、自己主張すると何か悪いことをしているような気持ちになる
しかし人は戦うことで強くなる、戦うことで鍛えられる、戦うことで自分が生まれてくる
強くなるというのは、自分が自分にとって頼りなかったのが、いつのまにか自分が確かなものに感じられはじめるということである
人から嫌われるのが怖くなくなるということである、人の拒絶が怖くなくなるということである
「べつに人の評判なんてどうでもいい」と思えてくるということである、もっと強くなると人の脅しが怖くなくなる
強くなると感情的に恐喝をされなくなる、感情的恐喝に際しても冷静でいられるから、相手の利己主義がよく見える
全量だけでは世俗の世の中を生き延びていくことはできない
「せっかくあなたのことを信じていたのに」などと感情的恐喝をされたら「ウソをつけ!」と言わなければならない
そして「そういう言い方を、感情的恐喝と言うんですよ、刃物を持って恐喝するよりも質が悪いと本に書いてありましたよ」と言ってあげればいい
当初は苦しくても、つらくても、戦っていれば少しずつ強くなる、眠れない夜があっても、しだいに強くなって眠れるようになる

一 捨てる

「決断する」ということは「捨てる」ということである
「あの人とはうまくいかなくなってもいい」と覚悟をする、その「捨てる」覚悟ができなければ決断はできない
いつでも、だれからもいい人と思われようとしていれば決断はできない、いつでも、だれからもいい人と思われることなどありえない
決断する前に、いままでの自分の人生を反省してみる
相手の意思に振りまわされた自分、自分を決してまで相手の意に添った自分
そして結局はなめられた自分、あれだけ頑張って無理をして、評価はされなかった自分
そうした生き方の反省の上に立って決断をする
「譲る」ことでその場は解決する、しかし本質的な状況は悪化している
決断できない人は、人を勘違いしている
人はこちらが我慢しても、それほどこちらのことを「立派な人だ」とは思っていない、それほどこちらのことを気にしているわけではない
あなたがものすごく我慢をしても、相手はあなたがそれほど我慢をしているとは思っていない
切れる関係は切れる、そこが決断である、我慢をしても体調を崩すだけである
切れる関係なら切れてもしょうがないと腹を決めることで、体調を保てる

二 対決する

対決する覚悟を決めると、拒絶されることも嫌われることも怖くなくなる
嫌われるのが怖いのは、自己蔑視しているからである
自分が自分を軽蔑していなければ、相手から軽蔑されることは怖くない
毅然として自分を出す、すると相手の対応が違う、すると相手が見える
利口ぶった演技を身につけても、それでは相手が見えない
演技をしていると、自分を出したときと出さないときの、相手の対応の違いがわからない
生身の人間と対決することを恐れないためには、こちらはやることをやっていなければならない
次に自分で自分を守る姿勢がなければならない、何でも人に頼らない

三 人間関係を整理する

整理とは優先順位をつけること
この人に嫌われるのと、この人と別れるのと、あの人から信用をなくすのと、あの人と争うのと、どちらが困るか?そのようなことを考える
自分にとって大切な人はだれかがわかってくる
いかに生きるかではなく、いかに側に変な人を置かないかを考える、変な人とはこちらの思考を変えてしまう人である
多くの場合、別れることはエネルギーがいるから、離れなくてもよい理由を見つける
その理由づけの段階で道を間違える、その後トラブルが起きる
その人と離れるということは、その人から恨まれることになるかもしれない
しかし恨まれることを覚悟でこのことをしないと、問題は解決しない
人は何もしなくても恨まれる
恨まれても困ることは何もない
やたらに愛想よくする人がいる
ペコペコしてしまうとなめられる、だますつもりがだまされる
誠意は、つきあっている関係のなかで示される
いきなりの誠意は必要ない、相手がどんな人だかわからないのだから
相手を見ろ、変だと思ったら変
あなたが親切をしても、相手は親切をされたとは感じない、逆に弱みがあると誤解される
修羅場は現実と向き合って、自分がどう生きるかを見つけること、それは活路を見いだすこと

思いこみを解き放て

嫌われるのは怖くない、そういう強い人は「あんな人に認めてもらわなくてよい」と思っている、べつに嫌われてもよいと思っている
認めてほしいという欲求を持っていると、相手が見えない
八方美人になることで、すべての人に対して自分から心理的に弱者の立場に立ってしまう
小さい頃から従順に生きてきたことで、八方美人になるような心理状態になっている、フロムのいう「報酬として与えられる愛」に慣れている
嫌われるのが怖い人は「いま、私はどのような思いこみに囚われているのか?」と自分に問いかけてみることである
そして当然のことながら、最大の問題は小さいころからの思いこみである、この思いこみを小さいころの生活を反省することで解決しなければならない
子どもが言うことを聞かないので、母親はどうしてよいかわからない、そこで、子どもを脅す
家出するとか、子どもをよそにやるといって脅かす、「ママは出ていく」という母親は子どもを脅している
「このような制裁や制裁のおどしが反復的に用いられるとき、あるいは時折であっても強度に用いられるとき、それらはパーソナリティの発達に不幸な影響をもたらす
特にそれらは必要に際しての有効性に大きな疑いを故意に投げかけるので、そのようなおどしは、自分は棄てられるかもしれないという個人の恐怖を非常に増大させるだけではなく、他の事態に対する恐怖反応の敏感性をもいちじるしく増大させる」ー『母子関係の理論II 分離不安』
したがって嫌われるのが怖いという恐怖感には何の理由もないのだと、恐怖感が消えるまで自分に言い聞かせることである

▽読書感想

「いい人」「いい顔」「断れない人」をやめられない理由として「嫌われたくない」「人の目が気になる」というところまで原因は自覚していたが、それ以上の原因を深堀りすることができ自分を見つめ直すとても良い機会になった
フロムやボールビーの引用もあったように、やはり母子関係にかかわるところが大きいのだろうと再認識、このメモは特に自分が読み返したいと思うところを本に直接マーカーするように、省略ありで引用している
各章や各キーワード・テーマごとに考えさせられることや気づきが多かったので個別にまとめていきたいと思う

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