愛とは何か
愛とは何だろう
私は愛というものを愛と感じて生きてきたことはない
おそらくこれは愛でこれは愛ではない、という棲み分けを考えるような岐路に立たされるようなことは、愛を失ったときや本当の意味での愛を渇望しているときなのではないかと考える
よって、私にとって愛とは何かを定義することは無意味である
なぜなら、私は常に愛を感じて、それを愛だと何となく感じて生きているからである
何となく、というのは個人的な感覚そのものである
極めて個人的で、直感的で、曖昧で、他人が定義するものとは違っている可能性が高い
私が肌で感じてきた愛を言葉に変えて人に説明するのはとても難しいことだが、あえて挑戦したい
挑戦することで、自分の中の思い込みや信念という垣根を越え、また新たな価値観に手を伸ばすことができるかもしれないと願ってこの文章を綴ろうと思う
愛とは人間そのものである
前置きが長くなった分、私の愛の定義を端的に話そう
「愛とは、人間そのものである」
私は愛するということは人間に等しく備わった感情のひとつで、何か考えて行ったり取り除いたりできる類のものではないと考える
喜怒哀楽と同じように初めから持っていて、母親のお腹の中にいる頃から、生まれて他人からの愛情を受けて形作られていくのが愛だと考えている
つまり、受けてきた愛情の種類や形によって、その人それぞれの愛の形というものが形成されていくのではないかという考えだ
だから人によって愛し方や愛の定義が違うのは至極当たり前のことである
愛とは何かという広いテーマを語る上で考えられる切り口として、「愛ではないもの」を語るということをしてみたいと思う
私の知る愛(言い換えると私が両親から受けてきた愛)は偽物だと知ったのは 2年ほど前のことだった
もちろんそれらの全てが偽物だったとは言わないが、きっかけはカウンセラーとの対話だった
21歳の時にうつ病と診断され、今でも心療内科に通い続けている私だが、会社での過重労働やパワハラ以外にも脳の病気になる原因は幼少期の親との関係性にあるのではないかという結論に至った
両親が感情に任せて私に怒りをぶつけてきたこと、暴力をふるわれてきたこと、親戚に「こう生きるべきだ」というレールを敷かれて苦しんだこと…
「あなたのためを思って…」という押しつけの歪んだ愛が愛そのものだと勘違いしたまま大人になった私は、結果他人との距離感をうまくつかめずに苦しむことになる
相手に喜んで欲しい、と思って摘んだ花は可哀想か?
小学校低学年の頃だっただろうか、ピアノ教室に行くために親友と待ち合わせをしていたときのこと
私は彼女にサプライズプレゼントを、と思い道端に咲いていたタンポポやヒメジオンを数本摘んだ
彼女が待ち合わせ場所に来たときに、私がとびきりの笑顔で両手で隠していた即席の花束を見せると、その反応は私が思っていたものとはあまりにもかけ離れたものだった
私は状況が掴めず慌ててプレゼントだよと説明するも、彼女の顔は重く暗いままだった
「ヨウちゃん、何でそんなことしたの?お花が可哀想だよ…」
手元を見ると、確かに道端に立派に咲き誇っていた姿とは異なり、私が握り締めた温度と強さで、花たちは茎から花びらにかけてガックリと肩を落とすように萎れていた
「お花を摘むっていうことは、お花の命を奪うことと一緒なんだよ?」
加えて友達に責められ、私は狼狽してしまった
ただ友達に喜んで欲しかった、それだけなのに…
私はしなびた花束をそっと元の土の上に置き、ぐわんぐわんとした頭を何とか起こしてピアノ教室までの道をおぼつかない足取りで歩く
いつもの道が初めて通る道みたいにグニャグニャと曲がって見えた
その日は一日中その出来事で頭がいっぱいで、今から振り返ると「愛とはなにか」について自分なりにずっと考えていたのだろうと思う
自分にとっての愛と、友達にとっての愛は違う
そのことを初めて意識したのはまさにその日だったと思うし、今でも鮮明に記憶している
「与える」だけが愛ではない
愛の定義というものは人によって違うし、それは親や周りの人から与えられたものによって形作られると先述した。
私の場合、愛とはgiveする(与える)ものだった
「愛とは自己犠牲である」「愛とは献身である」とよく聞くが、愛の本質はそこにはないのではないだろうか
よく「愛と恋の違い」についても、恋は想いが一方通行で自分のため、愛は相手のためを想ってすることなどと言われることがある
私は専業主婦で3人の子供を育て上げた母にこんな言葉をかけられたことがある
「あんたなんかいつでも殺せた」
自己犠牲の精神で、どれだけ自分の時間や体力を削っても、子供から思い通りの反応が得られるわけではない
私の母はとても我慢強く、根性のある人で、私たち子供を育て上げるのに相当の苦労があったはずだが、記憶の中にあるのはいつでも「与える人」の姿である
「見返りを求めず思いやる」…口にするのは簡単でとても耳障りの良い綺麗な言葉だが、それが本当に本人のためになるかどうかには全く焦点が当てられていない
人のことを愛したり思いやったりする前に、まず自分自身が幸せでなくては本末転倒であると思うのは私だけだろうか?
見返りを求めず、我慢に我慢を重ねる、誰にも愚痴を言わずにとにかく献身する…そんなことを続けていると、先述した母の「思ってもいない本音」が出てきてしまうことがあると私は考える
愛をもらっているからこそ人はその相手や他の人のことを愛する原動力を得ることができるし、バランスが取れるのだ
私にはまだ子育ての経験がないので、母の気持ち全てに寄り添うことはできないけれど、バランスが取れなくなってしまったという事実に関しては本当に同情しているし、今でも母のことを心から守ってあげたい存在だと思っている
嫌いな人でも愛してしまう
そんな「与える愛」を与えられてきた私の定義する愛は、「愛とは人間である」、つまり、人はみな平等に愛すべき存在で愛すことができる存在だという、いわゆる博愛精神だ
関係の深さに関係なく、すべての人に優劣などなく平等に愛そうとしてしまう
それが自分とは性質的に合わない人、つまり嫌いな人であってもその対象になってしまうのが少々問題である
すべての人に見返りなく愛を与える、この行動が招く問題は様々にあるが、一番は自分が疲弊してしまうこと、二番に自分を愛せなくなってしまうことだ
自分とは考えや価値観の違う人を受け入れようとする
自分の中で違和感を感じる
それでも受け入れようとする、その人自身を尊重することに集中する
すると起こるのが、自己否定である
他者を慈しむことに一生懸命になりすぎて、自分の考えや感情を押し殺し否定してしまう
私は生まれてから二十数年、このジレンマに悩まされている
なぜならこれが本当の愛の形だと幼少期から刷り込まれてきたからだ
凝り固まった価値観を崩すのはそれが間違っていると分かったとしてもすぐには脱せないものである
愛されることの喜びを知る
博愛という大きな言葉から少し規模を小さくして、私自身の恋愛の話をしようと思う
「与える」ことばかりが愛だと勘違いしていた私は、いつも相手に尽くしてばかりで気づけば自分がボロボロ…という恋愛続きで、自分を愛するということが全くできていなかった
そんな主体性のない私と付き合う相手も相手で、自分本位に進めたい人が多く、今から思えば「消費されている」という言葉がぴったりの恋愛だったと思う
そんな私の前に現れ、付き合うことになったのが今の夫である
夫とは結婚するまで10年付き合って、その中でたくさんの価値観や新しい愛の形に触れることができた
今まで尽くすことや愛することだけに一生懸命になっていた私だったが、夫はそれに慢心することなく、むしろ私を越えるほど尽くしてくれた思い出がある
デートの時には必ず小さい花束を用意して、荷物は重くないか、足は痛くないかと確認して必ず車道側を歩いてくれる
そんな小さな思いやりのひとつひとつが私にとってはとても大切にされているなと感じることができたし、恋愛は尽くすことだけでなく、愛されることも等しく重要なのだなということに気付かされた
そしてもうひとつ、彼が教えてくれた大きなこと、「自分自身を慈しむこと」の大切さである
今自分の置かれている状況や環境を冷静に分析し、自分の心や体の状態を見てきちんと面倒を見てやること
調子が悪いなと思った時は休み、必要な時は医者に行き薬を飲む
悩みが出てきた時には誰かに話を聞いてもらう機会を設ける
こうして長い年月をかけて私の凝り固まった愛の価値観は少しずつ変わっていき、春の日差しを浴びて凍った花が溶けるように、長年の呪縛から解き放たれ新しい愛し方を知ることができたように思う
愛とは自分と他者を慈しむこと
私の中の愛は、全ての人を慈しむこと
慈しむとはかわいがること
すべての人を慈しむ、それはつまり博愛
博愛とはすべての人を平等に愛すること
それが私の愛のすべてだった
でも今はそこに「自分を愛するということ」という項目が追加されている
人はひとりでは生きていけない
その弱さ故に愛というものが備わっていて、人は助け合うようにできているのだと私は信じている
愛とは人間そのものである
人間はどれだけ傷つけられ、本当の気持ちを剥き出しにしても、自分と向き合っていけばいくほど、削ぎ落とされ、最終的に残るのは愛だと、私は信じている
(※上記は私個人の意見であり、一概に愛とは何かを定義するものではありません。イベントを企画してくださったひでくん、読んでくださった皆さまに感謝申し上げます)
▽今回のイベントを企画してくださったひでくんの記事
▽このnoteを朗読したライブ音源
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