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漢字とかなの使い分け

 こんにちは。南野薔子です。
 漢字とかなの使い分けについて思うところを。
 
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 まず、先日開催された九州五行歌会のレポートが九州五行歌会紙媒体部のnoteに上がっているのでそちらをぜひ見ていただきたい。私は残念ながら欠席だったのだが、このレポートにあるように、二席と三席が共に「文字」をめぐるもので、漢字とかなの使い分けに関する話が大いに盛り上がったらしい。
 五行歌に限らず、文字での表現を行うときは漢字とひらがなの使い分けというのは重要なポイントの一つであるのは間違いない。また、絶対の正解というのがないことでもある(カタカナというのもあるが、カタカナを使う場合というのはまたちょっと別の話になるような気がするので今回は置いておく)。
 私は欠席したものの欠席歌を出していて、九州五行歌会のメンバー限定の掲示板で、その欠席歌についても質問があった。ちなみにこういう歌。
 
 そしてまた
 君は往く
 数多の過去形を
 あざやかに
 未来形へとひるがえして
 
 この四行目「あざやかに」と五行目「ひるがえして」をひらがなにしている理由は、という質問だった。
 私はどちらかというと漢字を使いがちな方だと思う。ただ、この歌の場合「鮮やかに」「翻して」とはしたくなかった。他でも多分あまり「あざやか」は漢字にしていないと思う。というのは「鮮やか」という字面が「魚」と「羊」なので生ものっぽい感じが、私の歌にはちょっと邪魔かなと。生鮮食品とか、鮮血とか、そういうものにつながってしまう感じ(もちろんそういう生ものっぽい感じがあってもいいときは使ってもいいわけだが、私の歌にはあんまりないと思う)。「ひるがえして」をひらがなにした理由はテンポ感。「翻して」だと、漢字一文字に四音入る分、読んだ時のテンポ感がちょっと早くなる感じがある。けれど、私はこの歌で、心象風景として過去形が未来形へとひるがえってゆくさまを、ちょっとスローモーション的に見せたいという気持ちがあって、だから一文字一文字を辿るかたちになるひらがなを選択した。
 ただ、全体としてはどちらかというと漢字を使いがちなのは、やっぱり字面の雄弁さみたいなものに惹かれるのと、直感的に意味が取りやすいというのがあると思う。この歌で「数多」はやっぱり漢字なのだ。「数が多い」ということがぱっと意味として伝わるから。
 字面の雄弁さということで云うと、上記九州五行歌会のレポートにある歌の「齟齬」なんて典型的だし、たとえば私は植物の名前ってわりと漢字使うのが好きだ。薔薇って字面がすごく薔薇っぽい。菫もわりと私の歌に出てくるが、この字面も凜としている感じで好き。他にも、漢字表記がある植物だったらだいたい漢字で書くのだが、あじさいはひらがな。というのは「紫陽花」の中の「陽」がなんだか私には違和感があるので。
 あと同じ音の言葉でも漢字によってニュアンスの違いをあらわせるのもある。「寂しい」と「淋しい」では伝わるものが違うので、その歌に自分がふさわしいと思った方を選ぶ。「儚い」と「果敢ない」とか。ひらがなでの「さびしい」「はかない」も含めて、選べるのって楽しいことだなあなどと思ったりも(さらに云えば、あまり使われないような漢字にルビをふるかふらないかという選択肢もある)。
 あえてひらがなにするときというのは、何らかの理由で字面にやわらかさを出したいとか、上記のように一文字一文字を辿るようになることで読みのテンポを落としたいとか。あと、通常漢字表記をすることが多い言葉でひらがなをあえて使うことでその言葉の意味をあらためて浮かびあがらせたいとか。そういう感じで「うつくしい」などをひらがなにすることが時々ある。
 ただ、言葉で説明すればそういうことだけれど、実際に歌を書くときにはもっと感覚的にやっているので、上記で説明しきれていない要素も、入っていると思う。
 
 漢字を使いがちか、ひらがなを使いがちか、どういうときにどういう理由でどちらを選ぶかなどに、個性が出ると思う。
 ざっくり云って、栢瑚の四人では
 (かな寄り)素音-白夜-水源純-南野薔子(漢字寄り)
 という気がする。データを取ったわけではないけれど。で、このかなと漢字の率の違いはなんとなく「会話体的な表現の多少」と関連している気がする。それもデータを取ったわけではないけれど、素音さんの歌は、会話体的なやわらかさが特徴だと思うし、一方私の歌には会話体的な言葉使いが少なく書き言葉的。もちろんそれだけが漢字かな率を決める要因ではないと思うけれど、ひとつの傾向としてはあるかもしれない。

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