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茶の湯 茶碗の奥深さ〜ものづくりの原点〜

豊田市美術館のお茶会を経て、お茶への興味が俄かに高まり、
柳宗悦の「茶と美」を読み始めた。

茶と美

西田幾多郎の「善の研究」を学ぶ際に積読になっていたものだ。
なるほど、思想家の視点だけあって内面や「もの」の捉えかたを深く考えさせられる。

柳宗悦は民藝運動の父と呼ばれる思想家だ。
西田幾多郎の影響を大きく受けた哲学者であり、「民藝」の提唱者でもある。


柳宗悦が説く、実際にものを「じかに見る」ことの大切さは、西田幾多郎の「直観」「純粋経験」の影響を受けていることが感じられる。
茶道具にも、じかに触って見て使うことに意味を見出す。
恣意的な美を求めた茶道具より実用品を茶人が見出し茶道具にしたものこそに美を見てとる。歴史的には恣意的な茶道具を作り始めた、楽茶碗から衰退が始まったと言い切る。
高麗もの特に井戸茶碗「喜左衛門井戸」こそ天下第一の器物だという。「茶と美」の表紙が喜左衛門井戸と呼ばれる井戸茶碗だ。海を渡って茶器として扱われるようになった井戸茶碗は元は飯茶碗だったという。その日用品の美を茶人が見出し大名物と呼ばれるようになった。
一方、楽茶碗以降、茶人たちは大和茶碗として茶席にふさわしい茶器を求めるようになり、陶工たちはそれに応えるように、茶席を意識したものづくりを追求した。恣意的なものづくりに入り込む功利の心が醜さに陥るという。
一方で、茶器を観る時には、陶工への敬意も忘れていない。

読者はかつて陶工の伝記を読んだことがあるだろうか。真に美に奉仕する一生の実例をしばしばそこに読むことができる。試練に試練を重ね、幾度か失敗し幾度か勇気を起し、家庭を忘れ私財を尽し、真に仕事に一身を没入した彼らを、私は忘れることができない。焼きに焼いて、焼き至らず、すでに薪を得る資も尽きて、彼自らの家のみが薪として残る時を、読者は思い至ったことがあるだろうか。実際幾度か自らを忘れる、かかる異常な出来事によって、この世の優れた作品は得られたのである。彼らは真に彼らの愛するものを作ることに自らを没したのである。吾々はそれらの作に包まれた熱情を冷ややかに見過ごしてはならぬ。愛なくしてどうして美が生まれてこよう。陶磁器の美も、かかる愛の現れである。

「茶と美」陶磁器の美 柳宗悦

引用の陶工の姿勢には、ものづくりの原点に触れる思いだ。
しかし、この域に到達するのは現状の茶の慣習からは難しくも感じる。
昨今の茶席では、道具の謂れや銘を聞き、知識を入り口にしているように感じるからだ。本来は、直心の交わり、じかに見ることこそが真髄だが、茶席でどれだけの人がそれを意識しえるだろうか。

調べ物

そんな中、お茶の先生から人から譲り受けた茶碗の出自を調べて欲しいとのお尋ねがあった。やはり、謂れがわからないと茶席に出しにくいからとの事で箱書きを手掛かりに検索を試みた。

瀬戸焼 白鳳窯 卓山 黒楽茶碗
瀬戸焼 白鳳窯 卓山 黒楽茶碗
瀬戸焼 白鳳窯 卓山 黒楽茶碗
瀬戸焼 兎月窯 杉浦文泰
瀬戸焼 兎月窯 杉浦文泰
瀬戸焼 兎月窯 杉浦文泰
瀬戸焼 長谷元窯 六兵衛
瀬戸焼 長谷元窯 六兵衛
瀬戸焼 長谷元窯 六兵衛
九谷焼 川畠玉浪
九谷焼 川畠玉浪
九谷焼 川畠玉浪
九谷焼 川畠玉浪
美濃焼窯元 秀山窯 鼠志野茶碗
美濃焼窯元 秀山窯 鼠志野茶碗
美濃焼窯元 秀山窯 鼠志野茶碗
 瀬戸焼 ものみ山窯 大津範生作 瀬戸黒
 瀬戸焼 ものみ山窯 大津範生作 瀬戸黒
 瀬戸焼 ものみ山窯 大津範生作 瀬戸黒
美濃焼 藤山窯 加藤藤山
美濃焼 藤山窯 加藤藤山
美濃焼 藤山窯 加藤藤山
美濃焼 藤山窯 加藤藤山
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 家
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 家
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 家
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 丘
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 丘
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 丘
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 丘
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 母
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 母
瀬戸焼 兎月窯 杉浦芳樹 御題 母

比較的、流通している茶碗が多かったようだ。
いずれにせよ、ものに触れる機会があるというのは、ありがたい。


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