自撮りをしまくる言い訳
完全在宅ワークになって時間があるにもかかわらず、
更新頻度が落ちているのはなんでや。
時間と日付の感覚が狂い過ぎて、前の投稿から気がつけば時間が経ちまくっている。
誰も待ってないけど、ごめんて。
強いて言うならば、ごめん自分。
反省。
反省おわり。
本題。
わたくしはですね、普段から結構自撮りをするんですね。
特に誰に送る約束があったりするわけでも、
背景可愛い!自撮りしたろ!ってわけでもないのだけれど、
ふと、
ソファでカメラアプリを開いて自撮りをすることが
数日に一回くらいある。
それでその写真をどうするのかというと、
インスタグラムのストーリーにあげたりする。
特にコメントもつけずに、
ただ、
自撮りをあげる。
あの人に見て欲しい!とかは特になくて、
また、褒めて欲しい!とかも別になくて、
あ、それは嘘。
「ええやん。」くらいはいただきたいところが本音。
でもでも、
別にそんな承認欲求が爆発しているわけでもない。
なんで自撮りをするかというと。
「みんなの思い出を美化させたい作戦」を決行しているから。
僕は(一人称定まらないね?どうした?)アメリカで幼少期から高校卒業するまでを過ごし、その後大学・社会人数年を日本で過ごし、またアメリカに戻った。
その過程の色んな段階でインスタグラムのアカウントを交換した人がいる。
でも、度重なる引っ越しで、皆んな会える距離にいるわけではない。
もちろん、心の距離感も。
高校では仲よかったからインスタグラムのアカウントを作った時に見つけてフォローしたけど、今は疎遠になっている子
大学で言語クラスやサークルは一緒だったけど、別にめちゃくちゃ話すわけではない同期、
職場で仲よかったからインスタを交換したけど、個別でラインするほどではないパートさんや社員さん、
アメリカに引っ越したからもう会わないであろう日本にいるみんな。
もう会わないだろうなあ。と思っている。
「会わない」
つまり、その人たちの記憶の中の僕は、当時の僕の姿で止まっている。
高校で止まった友人関係の中には、高校時代の髪の毛がだらしなく伸び、当時高校生に流行っていた正直微妙なLA!ビーチ!サーフィン!みたいなブランドで身を包んだ自分が生きている。
大学の友人の記憶には、箔付けたろ!という安易な理由で茶髪に軟骨ピアスにした、まだファッションセンスが定まっていなかったころの自分が生きている。
職場の人たちの記憶には、スーツや仕事着でピシッと決めてはいるが、新卒でなんだか垢抜けず、おどおどしている自分が生きている。
まあ、そもそも、彼らが僕を思い出すことがあればの話ではあるが。
でも、今の自分は髪の毛もすっきりしていて、身体もヒョロガリではなくて、輪郭も大人びて、身にまとう服もシンプルでシックで、確実に以前の自分よりも自信がみなぎっている。
と、自負している。
でも、会う機会ががない人たちにはこの進化した自分の姿を見せることができない。
ぐやぢい。
進化した自分を見て欲しい。
ならば!
自撮りをあげてこの自分史上最高レベルの自分の姿を相手に見せつけるべきである。
という考え。
最高レベルの自分の写真を見る機会が多ければ、
自然と、皆んなの記憶の中の自分もその写真に寄るのでは・・・?
今の自分が常に人生史上一番イケていると思っているので、
みんなの記憶の中の過去の自分のイメージの上書きを図っているのである。
つまり、人の記憶を強引に最新版にアプデしようとしているのである。
何か問題でも?
こうしていれば、
高校の友達がもしも僕のことを思い出す機会があったとしても、
「あー、確かあのもっさい子ね。」
とはならない。
「あー、あの・・・あれ?あのめちゃんこ激かわ美少年だよね?」
となるはずである。
そうじゃないにしても、
「あー、あのおどおどしてた新卒の子ね。」
「でも、最近の写真見た?めちゃんこ激かわ美少年よ。」
となるはずである。
相手の記憶が曖昧なほど、
この作戦は有効である。
ただ、
まあ、当たり前と言えば当たり前なのだけれど、弊害があるとすれば、
「あいつ自撮りめっちゃあげるじゃん、きも。」
で会話が終わる可能性があるということ。
でもそんなマイナス、この作戦から生まれるプラスと比べれば小さな犠牲よ。
こんなことを気にすること自体「自信ないじゃん」と言われれば、まあ、間違いではないのだけれど。
正しく言うと、過去の自分に自信がないのであって、
今の自分は自信に満ち溢れたナルシシズムの権現である。
クソナルシスト野郎である。
自己愛〜
知ってる〜
自覚ある〜
うざいって?
うざいかもしれないけど、そのうざい僕の自撮り、めちゃくちゃ可愛いよ。知ってる?
めちゃくちゃ可愛いんだよ。
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