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灰色たまご(グレイ・エッグ)

ある日突然それは現れた。

街で一番早起きの3丁目のパン屋のモリーは、その日も5:00にアラームを止め、ベッドの中で大きな欠伸をしながら腕を頭の上で組んで伸ばすと、のそりと起き上がった。
ギシギシと鳴く開き戸の窓を押し開け、冷たい澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込み、一気に吐き出すのが彼女の日課だった。
しかしその日は、いつものように鼻の穴から吸い込んだ冷気を、吐き出さずに思わずゴクリと飲み込んでしまった。いつも見慣れた景色の中に、あるはずのない大きな違和感がある。

それは、大きなたまごの様だった。

街で1番高い建物は、4丁目のマチス医院だ。
マチス医院は総合病院で、1階に受付と整形外科、2階には内科、3階には耳鼻科と眼科があり、この辺りの街の中でも一番立派な病院だった。

モリーも夫のエリオットと一緒に、月に1度血圧を測りに内科にかかっている。
初老のダルトン先生はもごもごと口をすぼめて喋るので、何を言ったのか聞き取れないことが多いのだが、ちゃきちゃきとした赤毛の看護師が隣で通訳者のように説明し直してくれるからとくに不満はないし、「パンの食べ過ぎを控えて。あとは適度に運動することが必要ですよ。」と、毎回同じセリフを聞いて帰ってくるのだった。
受付の事務員達は美人ではなかったが、愛嬌のある若い女ばかりで、月に1度も通っていると自然と顔見知りになった。モリーは毎回、通院の日には焼きたてのパンドミを1斤、紙袋に入れて持って行き、受付に差し入れてやっている。丸い鼻の黒髪の女が、目を糸のように細めてお礼を言うのだが、モリーはそれがチャーミングだし、つやつやで張りのあるほっぺたが羨ましいと思っていた。

そのマチス医院の向こう側に、大きなたまごの様なそれはどうやら在るようだった。生まれて初めてあんなに大きなものを見ているものだから距離感がいまいち掴めなかったが、あれが地面の上に乗っているのだとしたらマチス医院の3倍以上は高さがありそう、と彼女は思った。

しばらく呆然とそれを眺めていたのだが、ハッと我にかえると、ベッドでまだいびきをかいている夫の体を揺らした。

「ねぇあなた、起きて。ねぇ、見て欲しいものがあるの。あれは何かしら。ねぇってば。」

「うーん?うるせぇなあ、なんだまだ5:00過ぎじゃねえか。」

急に体を揺すられ無理やり起こされたエリオットは、不機嫌そうに眉間に皺をよせながら、手招きで急かすモリーのいる窓際へ摺足で歩いていった。

夫婦はしばらく2人並んで、ぼーっと口をあけたままそれを眺めていた。

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早朝5:30をまわる少し前だった。まだ空が薄暗く、街の人々も猫も鳩もまだ眠っているというのに、ベッド傍の電話のベルが大きな音でロビンを叩き起こした。

「エリオットか。どうしたんだよ、こんな朝早くに。モリーがパン窯を爆発させたか?まさかこんな非常識な時間に、夫婦喧嘩の愚痴を言うために掛けてきたんじゃないだろうな?」

3丁目のエリオットとは、小さい頃からこの街で一緒に育った。兄弟のようなものだ。

「違うんだロビン、窓を開けてみてくれ。あれは一体なんなんだ?一晩であんなものが建つなんて、警察には許可を取っているのか?」

「そんな話、俺は聞いてないし、上からも何も言われていないぜ。一体なんのことを言って...」

そう答えながら片手でベッドルームのカーテンを開けると、ロビンはその先を話すことを忘れてしまった。

「ありゃあ、なんだ?」

太陽が上り、空が真っ青に染め上がる頃には、街は大騒ぎになっていた。
あちこちで、あのたまごは宇宙人の乗り物で地球に不時着したらしいとか、西の方の国の芸術家集団の作品らしいとか、色々な憶測が飛び交った。

モリーは今日はパン作りに集中できそうになかったため、店を臨時休業にした。キッチンでコーヒーを淹れ、2階のベッドルームの窓際に椅子を持ってきて座り、窓枠に肘をつきながらたまごを眺める。
まだ薄暗い明け方にはわからなかったが、昼間に見るそれは曇天のような濁ったグレーの色をしていた。

夕方、たまごを近くまで見に行ったエリオットが帰ってきた。

「あんなにでっかいもの、俺は生まれてはじめて見たよ。麓まで行くとどこまでも続く壁みてぇだったぞ。悪戯にしちゃ大掛かりすぎるし、とにかくなんだかわからねぇから触ると危ないかもしれないってんで、周りにぐるっと柵を建てて、50メーターごとにロビン達警官が1人ずつ立って警備してんだ。明日には国の専門家が来るって話だったぜ。」

夫によると、どうやらそれは昨日まで町役場があった場所に在るらしい。
モリーが昨日、市場へディナーの材料のスズキを2匹とアスパラガスを買いに行った時には、確かにそこに町役場はあったはずだった。
たまごの径が大きすぎるので、町役場がペシャンコになって下敷きになっているのか、それとも元から何もなかった様にまっさらになってしまったのかは誰にもわからなかった。

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翌朝、国の調査団がやってきて、たまごを調べ始めた。
大きなトラックが何十台もやってきて、たくさんのツナギ姿の作業員たちがトンカントンカンと大きな音を立てている。半日でたまごの半分に届くくらいの足場が組まれ、今度はなにやら見たこともない大きな装置が運ばれてきた。ロビンによると、レーザーでたまごの内部を検査するための、非破壊検査機というものらしい。

上空には朝から晩までヘリコプターがバリバリと音をさせて飛び回り、テレビをつけると見慣れた街と突然現れた大きな異物が、空から世界中に向かって映し出されている。

モリーは第一発見者として何度もカメラや記者達の前で、その日の出来事を話した。その様子は昼のニュースで、新聞で、週刊誌で、SF雑誌で、ネットニュースで、連日報道された。
たまごは誰が名付けたのか『灰色たまご(グレイ・エッグ)』と呼ばれるようになっていた。
連日続く非日常的な出来事に、モリーはティーンだった頃から数十年ぶりに、興奮で寝付けない夜を過ごしたのだった。

そこから約1ヶ月間、そんな状態が続いていたが、国のトップの研究者がたくさん集まり最先端の機材を使って調べても、それが何かは解明できないようだった。

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ある日、大手旅行代理店の企画営業と名乗る男が、街へやってきた。
男は、濃紺の地にとても細い黄色のストライプ模様のスーツをビシッと着こなし、真っ白い歯を輝かせながら街の住人たちに挨拶した。男の提案は、灰色たまごを見学する観光ツアーを企画したいというものだった。
企画書には、たまごの周りを一周した後、市場のはずれにあるレストランでランチをし、そのあとはモリーのパン屋を含む3丁目の菓子店や雑貨屋で土産物購入の時間を設けるという日帰りのバスツアーのプランが書かれている。
ここから90キロほど離れた少し大きな都市の繁華街からは、バスで2時間ほどで街まで来ることができる。多くの観光客を呼び込むことができると、細かく試算されたデータは説得力があり、企画に反対する街人は1人もいなかった。
街が有名になり観光産業で潤えば、若いカップルやファミリーの移住者も増えるだろうし、公共の施設や福祉も今よりずっと充実するだろう。みんなの期待は大きくなっていった。

新しい町役場は2丁目の廃学校をそのまま使うことになった。モリーたちは毎日そこに集まり、灰色たまごをモチーフにした土産物の企画をしたり、たまごを背景に写真撮影ができるスポットに、看板を建てる予算について話し合ったりした。

しかしその1週間後、観光ツアーの計画を聞きつけた国の担当者がやってきた。担当者は、灰色たまごは国の資産であり、観光資源として使うことは許されないと主張した。今度はこの話を聞きつけた国連の研究機関や世界中の金持ち、大手企業が声をあげ、灰色たまごの所有権獲得に奔走した。

そんな中、事件は起きた。

アジアにある小さな国の都市で、灰色たまごが突然現れたのだ。
恐ろしいことに灰色たまごが現れた場所には、前の晩まで100戸の大きな団地が在ったらしい。団地の住民とは1人も連絡が取れておらず、みんな跡形もなく消えてしまったのだとニュースでは報じられていた。

なんと、その1ヶ月後にはアフリカの草原の真ん中で新たな灰色たまごが発見された。そのまた1ヶ月後には、インド洋の石油開発プラントがあった場所で次の灰色たまごが見つかった。

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団地の事件は世界中の人々を震撼させたが、その後、毎月のように灰色たまごが現れるようになると、人々の恐怖も段々と薄れていき、もはや今更そのことをニュースにするメディアも無くなった。

季節は夏になっていた。

モリーたちの街でもたまごがそこに在ることがすっかり当たり前になり、人々の感心は薄れていた。灰色たまごがそこにあること以外はすべて、あの日以前の暮らしに戻っていた。
役場会議で観光ツアーについて議論することは段々となくなってゆき、会議の頻度も毎日からいつのまにか以前の週に1度のペースに戻っていた。役場会議はビスケットを前歯で齧り、グリンティを啜りながら井戸端会議をする場にすっかり戻ってしまったのだった。


最初の灰色たまごが現れてからちょうど1年目の朝、地球が在った場所には、大きな灰色のたまごの様なものが現れた。

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