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グレッグ・イーガン『しあわせの理由』発掘記事

グレッグ・イーガンと言えば数学用語をばりばり使い、独自の理論に基づいた法則の世界観を生み出し、近未来から超未来まで縦横無尽に駆け巡り、ばきばきに理系のSF小説を書くことで有名なお方。ヒューゴー賞やローカス賞など世界各国の主要なSFの賞を数多く受賞しており、特に日本では現代最高のSF作家と言われているのですが、本人は公の場に姿を現さず、自身の肖像は公開しない覆面作家なので正体は謎。もしかして有名な映画スターだったり、天才的な頭脳を持つ幼女なのではと様々な憶測が流れていますがその正体やいかに。まあイーガンが何者であれ小説の面白さは一切減じないのでどうでもいいっちゃどうでもいいんですけどね。この『しあわせの理由』はそんなイーガンの日本オリジナル短編集。難解な作品が多いことで知られる作家さんですが、本作はイーガン初心者にもやさしい比較的とっつきやすい作品が多く収録されています。

収録作品は全部で9作。いずれもレベルが高く、SF短編のオールタイムベスト企画なんかをやるとしょっちゅう上位に顔を出す作品もいくつかあります。そんなわけで、今回は全作品を簡単にご紹介。ネタバレにつながることも書くかもしれないので、一応未読の方はご注意を。


「適切な愛」

ジェンダーと、夫婦間の問題をSFガジェットを使って書いた短編。
事故に遭い脳だけが助かった夫を復活させようと、妻が努力するお話です。「代用の身体が出来るまで妻のお腹の中で脳を保存する」という、ショッキングなビジュアルが印象的。他にも色々保存する方法がある中であえてその方法を採用した理由が「お金が無いから」というのがリアルですなあ。もしかして笑うところなのかしら。

「闇の中へ」

突如町中に出現するようになった壊れたワームホール。いつ、どこに出現するか予測できない為にワームホールから出ることが出来なくなった人たちを救出する「ランナー」と呼ばれる人が主人公のお話です。
災害SFでもあるし、後戻りができない闇の中を前へ向かって進み続けることに色んな比喩を読み取れる作品だと思う。短編集の中では特にアクション要素が強いので、状況設定を理解すれば楽しい作品。ゲームが好きな人が気に入りそう。

「愛撫」

刑事である主人公が殺人現場で、頭が「人間」、身体が「豹」のキメラを発見するところから物語は始まる。有名絵画の世界を現実の世界に幻出させようとするやばい趣味を持った富豪が登場するサイコスリラー風のSF。かつて「SFは絵だねぇ」という言葉を言った人がおりまして、要は「SFはビジュアルが命」という意味なのですが、まさにそれを体現した作品。いやむしろやり過ぎててちょっとトラウマになるかも。とりあえず上記の「絵画」がどんな絵か気になる方はフェルナン・クノップフ『スフィンクスの愛撫』で検索してみよう。

「道徳的ウイルス学者」

キリスト教を信仰する科学者が夫婦間以外で性行為をした人を皆殺しにするウィルスを作り、世界にばらまくお話。「愛撫」に登場する富豪もやばいがこちらの主人公もかなりイカれている。最期に主人公が行きつく結論は、現在の原理主義な宗教信者が招いている様々な悲劇を思い起こします。

「移相夢」

老いた身体をロボットで代用する技術が可能となった未来において、人間の脳をロボットに複写した際に見る夢のあり方とその意味について語った作品、だと思う。難解でちゃんと読み切れてるか自信が無いが『攻殻機動隊』や『serial experiments lain』など、夢と現実の境が不明確な作品が好きな人にはおすすめ。

「チェルノブイリの聖母」

奪われた聖画像とそれに関わる殺人事件を探る探偵を主人公としたハードボイルド風のSF。なぜ聖画像にそれほど価値があるのか、なぜ急使は殺されなければならなかったのか、という部分がフックとなっていて読ませる。SF色は薄めだが、ミステリ好きにも楽しめる作品だと思います。

「ボーダー・ガード」

作中に出てくる仮想のスポーツ「量子サッカー」に興ずる人々が生きる未来社会とは、不老不死が実現した世界だった――。冒頭から登場する「量子サッカー」は訳が分からな過ぎて最高。そこから1,000年近く生きるある人物が登場し、イーガン風の「死」に対する哲学が語られていく。私は文系人間なので、理系の方はどんな感想を持つのか気になるところ。

「血をわけた姉妹」

ある病が蔓延した世界で一卵性双生児であり、別々の場所で生きている「姉妹」の物語。運命の不思議さと悲しさ、それを笑い飛ばすような力強さを感じる逸品です。コロナウィルスが世界に蔓延するという経験をした後だからこそ読むべき価値のある話だと思います。

「しあわせの理由」

12歳の誕生日をすぎてまもなく、主人公である「ぼく」はいつもしあわせな気分でいるようになった……。脳内の化学物質によって感情を左右されてしまうことの意味をさぐる表題作。人の感情なんて脳の発信する信号によっていかようにも変わるのだとしたら、私たちがいま感じているこの「気持ち」も大した意味なんて無いのではないか。そんなことを感じるほど主人公の感情は薬や手術によって簡単に切り替わっていく。これは悲劇であり、喜劇です。しかし最期に辿り付いた結末はそれら全てを包み込んだセリフで締めくくられ、読者の胸を打つでしょう。深くふかく心に残る、私の大好きな作品です。

おわりに

ワンアイディアで勝負している作品が多いので、単純に設定が面白いものが多く、ほぼ全ての短編が人間を主軸とした話なこともあり(イーガンの作品は人間以外が主人公の作品も多くあります)、感情移入しやすいかと。また、山岸真による翻訳は誰にとっても読みやすい文体に仕上がっていて、そこもおすすめしたいポイントです。とはいえ、作品によっては、よっぽど科学技術についての素養が無ければ何を語っているのか分からない箇所があるし、イーガンはそういうときに丁寧な解説をしてくれるほど親切ではありません。しかし、それで放り出してしまうには勿体ないくらいキラキラした面白さのつまった短編集となっています。なんていうか、イーガンの作品は読むことで脳の新しい領域が開かれていくような刺激的な感覚を得ることができるんですよねえ。「初めての科学実験に魅入るような、瑞々しい原初的な感覚」、いわば”センスオブワンダー”ってやつをたっぷり味わうことができる作家さんなので、とりあえず読んでみては。きっと刺激的な読書になりますよ。

コロナウィルスのせいで外出をなるべく控えることとなり、近隣の図書館も休館していた頃、暇だー、やることねー、仕方ない本棚にある本を適当に読み返すか、と手に取った一冊。上記はそのときに書いた感想です。奇怪な世界が次々と登場する短編集ですが、その全ては思考実験の末にたどり着いた、いま私たちが生きている世界の延長線上にあり、だからこそ強く胸を打つのだと思う。この短編集の主人公たちは様々な形でアイデンティティを揺さぶられ、変容していくので、その過程を楽しめる方ならおすすめです。読む前と後では世界の見え方が変わる、そんな可能性さえあるほどの傑作ぞろいな短編集。やっぱりイーガンは面白えなあ。


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