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時には嫌われるつもりで - 美術の「感想文」と自分らしさについて

 自分がInstagramで美術展の「感想文」を書き始めた頃の話。

 私のアカウントは当時、日記ブログのような使い方で、美術展の感想文を書くことはあったが、大半は行った音楽ライブ(ほぼハードコア・パンク系)やらプロレスの興行の話、さらに購入した音源の記録だったり、旅行の時の写真やら日常的な食事の写真を並べていた。

 言ってしまえば雑多なアカウントだったわけだが、今みたく美術一本勝負!みたいなコンテンツに振り切ったとき、ちょっとした勇気が必要だった。
 あまり「いいね」数を気にしすぎるのも良くないと、当時でもわかってはいたのだが、それにしても美術展の感想に対する「いいね」の数が少なすぎる(通常の投稿の1/5程度)。当時の自分のフォロワーは同じテイストの音楽ファンかプロレスファンで、さして美術に興味があるわけではないということは明白だった(この分析はあくまでもフォロワー全体としての話で、個別では美術・デザイン関係の人もいた)。むしろ「いいね」の極端な差から予想するに、こういう芸術関係の投稿が嫌いですらいる人もいるかもしれない。

 そういうフォロワーの中には、オフラインで会ったことのある人たちもいる。相手の好きなものばかりを投稿することはできないとわかっていても、「嫌われている」となると話は少し変わってくる(たとえそれが思い込みに過ぎないにしても)。

(気にするべきではない)

 と、自分の中でマントラのように唱える一方、

(あんまりこういう投稿好きじゃないんだろうなぁ…)

 とも思いつつ、美術展の感想文らしきものを書きなぐっていた。フォロワーに分かりやすく美術好き、また美術に何かしら関心を持つ人達が増えた現在ですら、そういうことを少し思っているぐらいである。

 そういう自分を支えてきた言葉は、ある意味皮肉にも、パンクロックのライブに出入りしていた時に耳にした言葉だった。

「他人を満足させても、自分が満足していなければ意味がない」

 正確な引用ではないが、Hi-STANDARDの活動で知られるギタリストの横山健が、ドキュメンタリー内のインタビューで語った言葉である。

 従前のフォロワーを意識して、彼らを満足させるようなことだけを投稿することも、決してできないわけではない。今まで通りライブハウスやフェスに、あるいはプロレス興行が開催されている会場に赴き、ということもできる。あるいは逆の発想で、美術関係の投稿をしない、ストーリーのみに投稿する、投稿自体をせずに沈黙するという方法もある。

 しかし、そうやって「自分らしさ」を引っ込めた末に、SNS自体がつまらなくなってしまうのもどうだろう。これをしなければ生活がなくなるというような、いわゆる「ライスワーク」とも呼ばれる種の仕事ならまだしも、基本的には趣味のSNSである(大学を出たり学芸員資格を取ったり、趣味の範疇を超えつつあるのも事実だが)。よほど不法であったり、相手を傷つけるような非倫理的な投稿をしているならまだしも、そうでもない限り、「投稿をしてはいけない」とまで考えるというのは流石に、我ながら一体どういう理屈なんだろう。
 フォロワーを意識しすぎて、彼らの喜ぶような投稿を…と考えてしまっていることに気付いたとき、私は「負けた」気がした。

 それを感じたぐらいから、私は美術鑑賞の投稿に更に傾斜していったのかなと思う。いつかは忘れたが、メインの投稿は芸術鑑賞に関する投稿のみにし、それ以外の投稿は全てストーリーや別のSNSでやることにした。当時(今もだが)ブロークンジャパニーズの自分が毎回数百字の文章を毎回書くというのは大変な作業(苦行?)でもあったが、そういう「枷」の中で書き続けるのは、何よりも自分にとって楽しい。同じ義務感であっても、他人のために書くのではなく、自分のために書くというのは雲泥の差だった。

 そしてそういうものが自分の投稿を通じ、それを見た、読んだ人がなにかを得たという反応を見るのは嬉しい。美術の投稿をする以前は全く無かった傾向でもあった。自分の書いたものをきっかけに美術館を訪れた、気を塞いでいた家族を連れていった…「お前のアカウントは画像数が多いから、(文章を読まずとも)単純に観ているだけでも楽しい」と言われたこともある。それでも基本は自分のためで、そこまで誰かのために書いているつもりも無かったのだが、1000PVのうち1人でもその誰かの何かを楽しませる、時として救うことができるのなら最高じゃないか。
 そういう実感を得られたのは、自分が好きな、美術鑑賞に関する投稿であったからこそだと思う。もちろん、メタルよりのパンクロックやラップ、プロレスが嫌いになったというわけではないけど、美術鑑賞でしか得られない楽しみがある…。

 確かに、今までと違う投稿をすることは、今までの同じ趣味の投稿の知人、ともすれば友人を失う可能性もある。しかし、人との関係を重視するあまり、自分を偽るようになってくると、だんだんと人間が削れていく…ジャムおじさんのいないアンパンマンのような感覚もある。自分の顔はカバオ君やウサコちゃんの胃袋には収まっていくが、自分自身は満たされず、やがて首の無い体だけが虚しく起立している。
 今考えれば簡単なことだが、少し趣味が変わっただけで拒絶するような人間との関係を、こっちも積極的に維持する必要があるのだろうか。効率主義的、打算的な考え方かもしれないが、むしろ新しい趣味を通じ、新しい知己を得られることもある。
 幸いなのかじゃないのか、芸術ファンは一枚板じゃない。「芸術好きに悪いやつはいない」などと偽善を宣う人間もいないし、伝統的な日本絵画が好きな人もいれば、革新的すぎて一見不可解な現代芸術が好きという人もいて、意見が噛み合わない部分はあっても、基本的にはファンコミュニティ全体での呉越同舟が許される世界だ。妙な結束を要求されない、つまりは各人が自由でいられる趣味の世界でもある。もちろんなかにはそれを許さない芸術ファンもいるが、その存在もどこか相対的だ。

 時には嫌われるつもりで。
 『嫌われる勇気』なんていう本もあったけど、新しい世界に飛び込む、あるいはより自分らしさを発揮する、人気商売であれば新しいファンを獲得する…いずれにしても、「現状」から脱出しようという時、どうしてもその「現状」からの冷遇・反発を受ける可能性もある。そこで必要なのはその言動を引っ込めるのではなく、むしろ「エイヤ」と振りかざす勇気ではないかと思う。

 もちろん、今いる「現状」がどういうものかを見極める必要はある。しかし、ある程度現状から嫌われるつもりでいないと、なかなか次のステップには進めないような気がする。


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