御伽怪談第四集・第六話「立山の偽幽霊」
一
その昔、江戸は亀戸に松五郎と言う男が住んでいた。仕事は貧しい版木彫りであった。版木彫りとは、浮世絵などの元版を彫る仕事のことである。
体は丈夫で、それだけが取り柄であった。親もすでに亡くなってひとりぼっちの松五郎は、苦労してようやく美しい妻に巡り会い、仲睦まじい日々を過ごしていた。長屋の片隅に居を構え、狭いながらも楽しいわが家。幸福な日々を過ごしていた。
妻の名は〈お鈴〉と申し、やはり親も兄弟もない天涯孤独の身の上であった。
お鈴も松五郎に出会えて良かったと思っていた。ようやく孤独な世界から救われたような気がした。幸せな日々であった。
しかし、
——わらわに何かあったら……。
と考えるだけで、残される松五郎のことが心配で仕方なかった。と言うのは、両親も兄も病で亡くしたからである。お鈴も病弱であった。松五郎は普段から、
——栄養のあるものを食べさせて、妻を元気にさせなけれぼ……。
と、苦しい家計をやりくりしていた。しかし、貧しさは変わらなかった。やがてお陸は江戸煩いにかかってしまった。江戸煩いとは脚気のことである。それをキッカケに流行り病となり、とうとう床に臥してしまった。
お鈴は時々目を覚ましては看病に疲れている夫の姿を見つめた。死期が近づいていた。
ある夜のことである。死んだ筈の家族が迎えに来た。
お鈴は叫んだ。
「あぁ、おっかさん、おとっつぁん。それに兄様まで……」
夢であった。お鈴はハッとして目覚めると、松五郎が横につっぷして寝ていた。看病に疲れたのであろう、起きることはなかった。
朝が来た。お陸は昨夜の夢を思い出して死を覚悟した。
松五郎はそんなこととは露知らず。
——白いおまんまさえ食べていれば、きっと元気になれる。
と信じていた。だが、江戸煩いは白米ばかり食べることによってなる病である。無知ほど恐ろしいものはない。盲信的に信じても体に悪いものは悪いのだから、とうとうお鈴は死んでしまった。
妻を失ってからと言うもの、松五郎は涙に明け暮れる日々を過ごしていた。長屋の誰もが気の毒に思い、しばらくは声もかけられなかった。根が真面目で堅物の版木職人である。悲しみを紛らわすために深酒などしなかった。ただ仕事に打ち込み、夜は涙を堪えて過ごしていた。
夜中に、ふと、
「お鈴……」
と、寝言で妻の名を呼ぶことがあった。自分の声で目が覚めると、頬が涙で濡れているのを感じた。
人が想いを残して亡くなると、その魂は迷い出て、姿を現世に留める。お鈴の魂は成仏することなく、松五郎の長屋に留まっていた。しかし、松五郎には分からなかった。彼はおおよそ幽霊と言うものを見たこともなかったし、そもそも霊を見る力に欠けていたのである。目の前に座っていたところで分からず、ただ線香臭い陰の気を感じるだけであった。
長屋で人魂が目撃された。特に陰気な雨がシトシトと降る夜には、多くが青白い人魂の飛ぶのを見た。幽霊を見た人もいた。だが、松五郎は誰とも話さなかったため、幽霊の話は知らなかった。元々、貧乏過ぎる長屋は、誰言うとなく〈お化け長屋〉と呼ばれていた。お化け長屋に幽霊が出ても珍しくないだろう。
二
そんなある日のことである。ふと、長屋の井戸端を通った時、松五郎は、
「越中の立山と言う所に行けば、亡くなった人に会えるそうだ」
との噂を小耳にはさんだ。
「霊山立山には多くの亡き霊が集まり、残した家族の訪問を待つと言う」
松五郎の頭の中でグルグルと、その言葉がまわり続けた。いても立ってもいられなくなり、ついに決心して、
——何とかして立山へ行き、今一度、お鈴に会いたい。
思い立ったが吉日。慌てて家や家具……と言っても粗末な物でしかなかったが……を売り払い越中立山へと旅立つのであった。
江戸から立山までは案外遠かった。幾度となく山を越え谷を渡り、人里離れた獣道を疲れた足を引きずりながら歩き続けた。何度も草鞋を履き潰し、足に血豆をこさえながら、それでも松五郎は、
「お鈴、今、行くぞ」
と叫びながら強い意志を貫いた。人の意思の強さは歩ける距離に比例している。苦しみに耐えて歩けば歩くほど強い意志の力が働き続けるのである。松五郎も例外ではなかった。
夜は野宿をした。幸いなことに春も終わり夏に向かう暖かい季節。全財産を金に換えたとは言え、毎日を旅館で過ごせるほど裕福ではなかった。
星空の下、真夜中にお鈴の幽霊が姿を現すことがあった。人魂もフワフワと飛んでいた。しかし残念なことに、やはり松五郎には見えなかった。気付きもしなかった。もし見えていたとしたら、わざわざこんな苦労をしなかったかも知れない。
やがて、やっとの思いで立山に到着すると、そこは越の中ツ国、霊山たる立山の麓に立って大きな御山を見上げた。なんだか亡き妻の面影を見たような気がして涙で景色が霞んだ。幸いそのあたりに登山者の宿であろうか、粗末な建物がひとつだけ建っているのが見えた。宿は質素な小屋のような建物だった。雨風が凌げて寒くなければ良い宿だろう。
松五郎が表で声をかけた。
「もうし、もうし。案内、請う」
すると、宿屋の主人とおぼしき男が出て来た。かっぷくの良い、いかにも善人面した親父である……が調子良さげに出迎えてくれた。
「ようおこしで、主人の善兵衛と申しまする。ささ、中へ……」
松五郎は言われるまま宿に入った。中は意外に広がった。いくつもの部屋があるようだった。囲炉裏のある部屋に通された。
「今宵はお泊まりでござりまするかや?」
「はぁ、実は、亡き妻に会いたく、江戸からこの山へ参り申した」
主人の善兵衛は鼻の穴を広げて、いささか丁寧に叫んだ。
「よくぞ、よくぞ、思い立ち給えるものかな」
それから、落ち着いた口調で、
「昔から、この御山に登る人は、必ず亡くなった人に会えると言う。このお山には尊い仏がおられまするぞ」
と、胸を叩いて請け合うと、両手を合わせ、
「南無阿弥陀、南無阿弥陀……」
と何度も唱えた。数珠のガラガラ言う音がうるさかった。
松五郎もここに来て良かったと思った。
善兵衛は甲斐甲斐しく松五郎をもてなし、
「亡き人に必ずや会わせまする。いざ、参り給え。今夜の良い時刻に、案内をいたしましょう」
松五郎は喜んで日の暮れるのを待っていた。
夕食は豪華とは言えなかったが、それなりに美味しかった。
三
山奥の料理は、これぞ山の幸と言う雰囲気に溢れていた。ただし霊山である立山のこと、出されたものは、当然、精進料理であった。
まだ七月の半ば頃、霊山参りの中休み的な時期でもあり、他に泊まり客もなかった。
夕食もすんで夜の十時ばかりに善兵衛がつぶやいた。
「今はおりも良し。そろそろ頃合いなれば、いざ、お山に登り給え」
満月の夜だった。
松五郎は準備を整えて、夜中にひとり、幽霊の待つお山へと登った。主人に教えられたまま堂坊などを拝みつつ、念仏など唱え、あちらこちらとさまよう内に、後ろに女房の幽霊が現れた。だが、やはり松五郎は分からなかった。幽霊は優しく微笑んでいた。そして近くのある場所を指差した。
やがて、どこからともなく女の気配がして、お鈴が差したところから、白い着物を着た長い髪の女が姿を現した。
松五郎は女を見つけ、
——さては、これこそが、わが妻の幽霊であろう。
と思うと、満面の笑顔を讃えて幽霊らしき者に近づいた。しかし、この正体不明の女の幽霊は、足早に遠退いてしまった。
松五郎は首を傾げ、またも近づいた。だが幽霊はささっと逃げて離れていった。
松五郎は合点がゆかず、
——はて、幽霊とは、そう言うものか?
立ち止まってジッと見つめた。幽霊は恥ずかしそうに下を向いていた。松五郎がゆっくりと歩き出すと、幽霊もそれと同じように離れてゆく。こちらに来ればあちらへ行き、離れればついて来る。とにかく近づくことすら出来なかった。
松五郎は、
——本当に亡き妻であろうか?
と思い首を傾げた。その時、近くにお鈴が現れた。お鈴の姿は松五郎にも正体不明の女の幽霊にも見えなかった。だが優しく微笑んでいた。
かくしつつ、色々と歩く内に松五郎は近くにある杉の木に隠れた。様子を伺っていると、それとも知らず女の幽霊は木陰近くを歩いていてきた。その瞬間、松五郎は、しめたと思って駆けよった。
松五郎が叫んだ。
「あら懐かしや、懐かしの妻よ」
と、むんずと手首を掴んだのであった。
捕まえたのは幽霊の手首の筈、冷たく、掴みどころのない筈の腕……しかし、その手首は暖かく、すべすべして柔らかかった。
——はて、幽霊とは、こう言うものか?
松五郎はまたもや首を傾げた。
その時のことである。幽霊は鴛いて騒ぎながら、必死に振り放そうとジタバタしたのである。息の荒くなる幽霊は、か弱い力で暴れながら抵抗したが、それはまるで手弱女の動きのように、何だか艶かしかった。
松五郎は、妙に思いながらも、しっかりと幽霊を抱きしめた。
幽霊は、もちろん、屍人である。冷たくなった屍人の臭いと言えば、腐った死体が放つ腐敗臭……死臭がするか、さもなくば何も臭わないものだ。そもそも実態を持たない幽霊が臭いを持つとも思えなかった。しかし、この幽霊には温もりがあり、ほのかに若い娘の良い匂いがした。
幽霊はしばらく抵抗していたが、やがてどうすることも出来なくなり、わなわなと震え出した。そして、微かな声で、
「許し給え、許し給え」
と泣き出した。
その声は、もちろん、死んだ妻の声とは似ても似つかなかった。
四
松五郎は少し興覚めして問い正した。
「いったい、そなたは何者ぞ?」
すると幽霊は恥ずかしそうに小さな声で、
「あたしは宿で働く下女で名をお妙と申しまする。今夜、あなた様に縁のある幽霊となって、この御山に登るべきこと、せつに……との主人の頼みに、どうしても断り難く、ここにまかりこしました」
と、恥ずかしそうに告げるのであった。おりしも七月十四日。盆の清々しい夜空。月は木の間よりようようと登り、爽やかな夜であった。
お鈴がふたりを見て、優しい眼差しで微笑んでいた。
松五郎が偽幽霊の顔を、ふと、見れば……年の頃は二十ばかりの、色は透き通るように白く、目鼻立ちもハッキリとして、艶やかな髪はあくまでも麗わしく、しなやかな腰のあたりは、夜目にも色香が漂っていた。田舎の下働きの女性にしては……いや、偽幽霊の姿のことを差し引いてもあまりに美しく見えた。
この偽幽霊にも松五郎にも、本物のお鈴の姿はやはり見えなかった。だが、お鈴の幽霊はふたりの近くに佇んでいた。松五郎は手に優しく触る感触を感じた。偽幽霊も同じ感触を得た。お鈴が手を取り、ふたりを引き合わせたのである。
松五郎は、ふと、ありし日の妻のことも忘れ、様々に語り出した。
お妙も次第に心も落ち着いて、うち微笑むと、
「飛鳥川の淵瀬とやら、男心は頼みがたしと聞いておりまするが……」
ほのかな月の光の中、輝やく瞳で松五郎をジッと見つめ、
「亡き後までも、このように慕って、はるばると越中に辿り着きたるお志、その誠実さに、さぞ、お喜びになられることでしょう。このような夫を持たれた妻女こそ、羨ましく存じます」
などと申すのであった。
松五郎も何くれと語ってゆく内に、夜は次第に更けて来る。
やがて、曙に空が白んで来た頃、お妙は、
「今はお江戸に諸共に、あたしを連れて行ってくださりませ」
と嘆願した。
お鈴の幽霊が嬉しそうに頷いた。
「生きる手段もないままに、わずかの小銭に身を売って、立山の偽幽霊に身をやつし、世を渡る姿も哀れな業」
と嘆きの声をあげ、目に一杯の涙を流し、
「尽くすべき親も夫もなく、育くむべき子すらもない、天涯孤独の身の上ならば……今よりこの身を主様にお任せいたしましょう」
と、告げるのであった。
松五郎は、その言葉を聞いて嬉しくなり、
「ならば……」
と、夜明けにそのまま立山を忍び出て、ふたりで手を取り合って江戸へと帰った。
何日か歩き続けて、ようやく江戸に着いたふたり。しかし、先に家も調度も売り払っており、両国橋で書店を営む友人の山田某を頼って暮らすこととなった。
お妙は、医者の元へ働きに出し、自分は山田の家に間借りして、版木を彫って暮らしむきを立てることとなった。
ふたりの縁結びをしたお鈴の幽霊は、ふたりのことを嬉しく思ったのか、成仏して、二度と出ることはなかった。目的を果たした霊は消えるものである。
ほどなくして、ふたりは近いところに家を見つけ、夫婦となって末永く睦まじく暮らしたと言う。かの山田某の経営する書店の隣りに住む、玉竜堂の主人が聞ききした物語りである。『野乃舎随筆』〈了〉
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