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御伽怪談短編集・第一話「番町の疫病神」

 第一話「番町の疫病神」

 文政十一年(1828)のこと。
 拙者せっしゃ牛奥うしおく平太郎と申す具足ぐそく奉行。重役とは申せ閑職だった。この天下泰平の世に、無用の長物とも言われた〈具足奉行〉のお役目である。甲冑の管理と修理ばかりを主な仕事としていた。忙しいことなど年に数度しかなく、急な呼び出しすら希なことであった。華々しい奉行職と申しても、僅かの部下しかおらず、新春に一度の〈具足餅の祭礼〉以外、することもなかった。言うならば、骨董品の修理ばかりを生業なりわいとしていたのである。
 しかしである。
 その頃、ちょうど異国船打払令うちはらいれいが出され〈シーボルト事件〉もあって世の中は物騒になっていた。まだまだ平和な世の中と言え、先行き不安になっていた。だから具足奉行は今までほど閑職とは言えなくなっていた。
 そんなある日のこと。
 秋の夕暮れに、夜勤の同僚から急な呼び出しがあった。その日は激しい雨が降っていた。風はないが滝壺のように降り続いていた。
 空を見て某は思った。
——いつも暇を持て余しておると申すに、こんな日に限っての呼び出しとは……。
 まったくその通りである。
 さっそく番傘ばんがさを指し、雪駄せったを下駄に履き替え、袴のすそをまくりあげながら部下を呼んだ。
「松之助、松之助はおるか?」
「ここにおりまする」
 その日は運悪く楡山にれやま松之助だけしかいなかった。このことは、彼にとっても、拙者にも不運でしかなかった。と言うのは松之助は新人すぎて、まだ役に立たなかったし、何より怖がりだったからである。
 サムライは臆病者を嫌う。特に怪談を恐れるなど、もっての外である。しかし、松之助は、そんな種類の臆病者であった。
 夕暮れの番町馬場の近くを、ふたりして急いでいた時、ポツンと松之助がつぶやいた。
「番町の夕暮れはどうも不気味で……」
 顔をしかめる松之助に、拙者は申した。
「あれでござるか?」
 番傘を握ったまま、七、三に手を構えた。
 震える松之助に、拙者は目を丸くし、小声で吐き捨てるように申した。
「臆病者め」
 番町と言えば皿屋敷。この町には幽霊の噂がつきものであった。
 馬場にたくさんの雨が降り、雨音で他の音は聞こえなかった。重い傘の上で、打ち付ける雨粒がバチバチと音を立てていた。秋の日はつるべ落とし。屋敷を夕暮れに出た筈がすでに薄暗かった。
「慣れた道とは言え、提灯ちょうちんくらい持参すべきでごさったな」
 拙者は松之助に告げ苦笑いした。
 その言葉にホッとしたものか、松之助は深くため息をついた。行き交う人も絶えるほどの大雨が、さらに激しく降り続く。この季節はひと雨ごとに寒くなる。秋の雨は憂うつで不安を誘った。時々、雷鳴が瞬《またた》いた。その時である。明滅する水煙の中に、ふと、奇妙な女が見えた。
 拙者は何か違和感のようなものを感じた。暗くなりはじめた中で見た女の目はギョロリとして、黒目だけしかなかったのだ。痩せた貧相な顔は、この世のものとも思えない。女は道端みちばたにうづくまっていた。
 合羽かっぱを着ているのだろうか?
 その姿に傘はなかった。女と見えたが、確かに女だと確認することは出来なかった。激しく降る雨の中で、雷の瞬間にだけ見えただけなのだ。
 合点も行かず、何やら胸騒ぎがした。そして背中もゾクリとした。時がゆっくりと流れてゆく。雨粒のひとつひとつが落ちてゆくのを感じ、地面に跳ねる音がパラパラとまばらに聞こえた。次第に時間が延びて、止まったように思えた。そんな中で拙者は全身の毛が逆立つのを感じた。
 急いでいた筈である。にも関わらず手足はゆっくりとしか動かなかった。やがて、女の近くを通り過ぎようとした時、
「あれは何でござろう? とくと見申すべきにござるか?」
 松之助の声が響いた。
——女の顔を見ていないのか? 見ていれば腰を抜かすことだろう。
 激しい雨音が元に戻っていた。
 拙者はハッとして、
「いらざるもの」
 とだけ答えていた。用心は必要だが、手間取る訳にもゆかない。拙者は背中に聞こえぬ筈の女の笑い声を感じた。
——えっ?
 その時、消えそうな提灯ちょうちんを明かりとした足軽風の男がふたり、目の前に現れた。すれ違う男たちに、今一度、確認しようと振り返った。そこには誰もいなかった。増水した小川の水音が他の音をかき消していた。あたりを一瞬の雷鳴が照らした。近くに隠れる物はない。見通しの良い場所であった。
——馬鹿な、見間違えたのか?
 気がつくと、松之助が何かに驚いて腰を抜かしていた。
 拙者は叫んだ。
「いかがいたした?」
 激しい雷鳴のまたたきが、蒼白になった松之助の顔を照らした。隔てる建物とてない一本道に女はいた筈である。
 放心していた松之助はハッとして叫んだ。
「拙者は何を?」
 すぐに立ち上がると、ずぶ濡れの着物の裾を絞り、急ぎ足で役所へ向かった。やがて役所に入ろうとした頃、雨はもう小降りになっていた。拙者はしきりに寒気を感じた。
 翌日、にわかに高熱が出て二十日ほど苦しんだが、案の定、松之助も同様に寒気がして二十日ほど高熱にうなされたと言う。気候風土による陰の気が雨の内に形をなしたものであろうか?
 もし、あの時、振り向かなければ高熱は出なかったものか?
 それらのことは分からない。
 だが、これをして疫病神と呼ぶ。

 拙者はまだ知らなかったが、やがて何年かすると黒船が浦賀沖に姿を現わすこととなる。新しい世の中へと向かう混乱した時代がそこまで来ていた。霊界が人の世の不安を嗅ぎ取った時、疫病神は行く末を暗示するかのように姿を現わすと聞く。『耳嚢』より。

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