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播磨陰陽師の独り言・第416話「たまには赤穂浪士の話」

 明日は十二月十四日。赤穂浪士討ち入りの日です。最近では忠臣蔵を知らない人も増えて、難儀な時代になりました。気付いたら、むしろ外国の人の方が知っているかも……とかの時代になっているようです。
 私は赤穂・小野寺家の子孫です。この家からは五人の浪士が出ました。
 最高齢の〈小野寺十内じゅうない〉は私にソックリな顔をしています。赤穂城の宝物殿に残る先祖の木像の前に立つと、見た人は必ず笑います。
 それから、十内の姉の息子〈大高源吾〉。その弟〈小野寺幸右衛門〉。十内の弟〈岡野包住かねずみ〉。その息子〈岡野金右衛門〉。後に親戚となる〈堀部弥兵衛〉。その息子〈堀部安兵衛〉。など合計七人の赤穂浪士が先祖となります。
 さて、皆さんご存知の忠臣蔵は子孫に伝わっているものとは少し異なります。このことについては、あまり詳しく話したことがないので、ここにちょっと書いておきます。
 一般に知られている忠臣蔵をザックリ言うと、吉良にいじめられた浅野内匠頭たくみのかみが殿中で刃傷沙汰を起こして切腹し、その敵討ちのため赤穂四十七人が秘密裏に奔走ほんそうし、ついに吉良の首を打つ……と言うものでした。
 この物語のどこが伝わっているものと違うのか? と申しますと、まず、秘密ではなかったことです。当時の記録には、楽しみにして見物していた人々の証言が残っています。弁当屋も出ていたそうです。また、帰る時のルートも決まっていたようで、途中で接待まで受けていました。
 子孫に伝わる物語をザッと書く前に、理解するための前提を書いておきます。
 赤穂・小野寺家は播磨陰陽師の家系です。他にも播磨陰陽師の家系はありますが、ハッキリとはしていません。ただし、赤穂に住む前は岐阜の浅野の土地に住んでいました。これが何を意味するのかと申しますと、浅野は播磨陰陽師の祖先にあたる〈神祓衆かんばらしゅう〉の本拠地だったのです。つまり、ここに住む者は皆、播磨本国からの移住者と言うことになります。そして彼らが何のために移住したのかと申しますと、織田家に使える播磨陰陽師としての仕事をするためです。
 次にあまり知られていない事実ですが、戦国時代ほど陰陽師たちが活躍した時代はありませんでした。一般には平安時代のものと思われがちです。しかし、戦争の中で陰陽師たちが戦っていました。しかも霊術や戦略を駆使して戦っていたのです。当時の播磨陰陽師たちは軍師を生業なりわいにしていました。
 戦国時代も終わって江戸時代に入ると、軍師の仕事はほとんどなくなりました。過去の栄光を書き残すか、軍学として座学を教えるしか仕事もなくなりました。もちろん、何人かは侍として各藩に仕えていました。
 そんな時代のことです。天下分け目の関ヶ原が終わって百年ほど過ぎたある日、事件が起こりました。赤穂城主である浅野内匠頭が殿中で刃傷沙汰を起こしたのです。この事件には裏があります。
 内匠頭の刃傷沙汰は、寝耳に水などではなく、大石内蔵助以下、幹部たちにとっては想定内だったのです。と言うのは内匠頭の叔父も同じような事件を起こしているからでした。しかも、単に気持ちが抑えられないための暴走でした。
——このままでは、いつか殿も暴走するやも知れぬ。その時、何をするのかが問題だ。
 と言うのが幹部たちの意見でした。
 そして、事件が起こります。
 最初から想定内の事件でしたので、このチャンスを利用して〈懸案〉を解決することに決まりました。
 懸案と言うのは、戦国時代が終わって百年あまり、軍師の仕事がなくなるにつれ、播磨陰陽道が廃れて行きました。そのことを実感しながら見なければならなくなったのです。
 そして、解決方法とは、
——武士にとって大きな名誉となる事件を起こし、その名誉と共に播磨陰陽道を伝え残そう。
 と言うものでした。そのため、各種の計略を立て、未来まで伝わるような感動的な物語を作り残したと言う訳です。

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