東京の街で育たなかったということ

銀天夜市、だっただろうか、15年以上前に佐賀の白山名店街で見た光景が、本物なのかどうなのかわからないけれど、今も私にとっての佐賀の鮮烈なイメージとして焼き付いている。

初めての絶望の記憶は第二次世界大戦について学んだ時で、小学校の1年生の時。生き残ってなるものかと思った、絶対に、誰かの代わりに一番最初に死んでやると思った。その時の絶望が生きることに対してなのか、日本に対してなのかわからない。ただ、「銀天夜市」が二度目の絶望となって、とどめを刺したのは確かだ。シャッターの下りた商店街、それと共倒れになったショッピングセンター。誰もいないのに、くたびれたトラの着ぐるみが尻尾を引きずって歩いていた。それらは、20代になってから知った東京の、人がごった返す街よりも、満員電車よりも、福岡の大画面前で待ち合わせをする人たちよりも、ずっとリアルな「日本」の風景だ。それが「都市を見て育たなかった」ということだと思っている。

街が栄えるということをイメージできなかった。これが日本で、沈みかかった船にしがみついているのが今なのだ。この感覚は、幼い頃は田舎の中心商店街のイメージとして漠然と持っていただけだったが、大学生になって、世の中のことに関する情報が入ってくるようになって、「行き詰まり感」は別の方向から一層強まった。政治のことや倫理のこと、考えることが多すぎる。

勉強すれば、日本を救えると思った。自分の頭で行ける一番いい大学に行こう、発信力を持とう、そしてたくさん勉強して、問題を洗い出して、解決策を提示し実行していこう。小学生の自分ですらそう決心していたのに、根性がないのか頭が足りないのか、自分に何ができるやら、どうするのが正しいやら、何を「問題」とすればよいやらさっぱりだ。絶望を次の世代に引き継いでなるものかと強く思っていた、「私たちはこの世界を借りているだけで、少しでも良くして未来に手渡さなきゃいけない」という言葉に出会い使命を感じた10歳の私は、まだ救われていない。

希望はどこですか、学校とスーパーと住宅街以外のどこに人が集まりますか。街が栄えるってなんですか。人がたくさんいてお金がたくさんあれば幸せですか。
目標ってどうやって持つんですか、沈みかかった船なのに。理想って何ですか、現実との乖離によって精神を私から引き剥がそうというのですか。「可能性」ってどこにありますか。

東京で育っていれば、希望が持てたのかというと、そういうわけでもないのかもしれない。こんな感性では、別の場所では別の絶望を見つけるだけだ。ただ、都会のきらめきを見ないままに、僻む心ばかりを育ててしまった、これは私の話だ。


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