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まつげの存在感

「まつげに存在感ないんだもん」

なんの話をしていたのか、覚えていないのだけれど、娘が発した一言に大笑いしてしまった。

娘は一重なのでまつげの根元が埋もれており、短い。目を開けている時に正面から顔を見ても、まつげがあるようには見えない。もちろん、目を閉じるとまつげの存在を認知することはできるけれど、そんなレベルなので、確かに、彼女のまつげには存在感はない。自ら「存在感がない」と言うのにも頷ける。しかし、彼女がそのことを悲観しているのかというと、そういうわけではなさそうだ。「存在感がほしい」と思っているわけではなく、ただただ事実として「存在感がない」と感じているだけのことらしい。

母である私は奥二重で、少しはれぼったい。中高生の頃には、その目がコンプレックスで、ぱっちり二重のまつげくるんな顔立ちの友人に憧れた。まぶたを糊でくっつけて二重にするアイプチをやってみたこともあった。まつげを少しでもくるんと長く見せたいと、高価なランコムのマスカラを塗りたくっていたこともあった。けれど、生来のめんどくさがりな性格と不器用さが相まって、そんなメイクをすること自体がだんだんと邪魔くさくなった。また、私はこの顔で生まれたんだからそれを受け入れるしか仕方ないという諦めとで、ぱっちり二重への憧れも、自分の顔へのコンプレックスも、いつしか消えていった。それでもやっぱり、かわいいな、きれいだな、と思う人はだいたい二重だったから、やっぱり心のどこかには捨てきれない憧れのようなものは、あったのだと思う。ちなみに、私のまつげは、娘のまつげよりは存在感ありますよ。

そんな風に、二重やくるりんまつげに憧れを抱いていた私と、特に憧れを抱いていない娘の違いはなんなのだろうかと考えてみた。娘がまだ11歳で、さほどメイクやオシャレに目覚めていない年齢だからと言うことはあるだろう。中高生になり、周りがメイクだなんだと言い出したなら、彼女もその時になって、自分の一重や短いまつげにコンプレックスを抱く時期が来るかもしれない。

しかし一方で、娘は私のようにアイプチで二重にしたり、無理矢理まつげを長くくるんと見せようとはしないのではないかとも思った。それは、現在の彼女が置かれている環境によるものだ。
というのも、今、娘はイギリスの現地校に通っていて、周りのほとんどの友人は日本人(アジア人)ではない。ポーランド、ポルトガル、フランス、レバノン、イラン、などいろんな国籍、人種の子がいる。その多くが、彫りが深いはっきりとした顔立ちで、二重で、ぱっちりというよりバッチバチのまつげの持ち主だ。いくら自分のまつげを少し長く見せようとしたところで、友人たちのような目元には到底なれない。だったら、ムリしてメイクしたって仕方ないんじゃね?と感じているのではないか、と。
日本人だけの中にいると、基本の顔が似ている中で、一重か奥二重か二重かの少しの違いが気になってくるけれど、肌の色、髪の色、出身地、国籍、ありとあらゆるものが違いすぎる友人たちに囲まれていると、まぶたの重なり、目の大きさ、まつげの長さのような些細な違いなんてどーでもよくなってくるのではないか、と。
周りに同調せず、"私は私"を地で行くタイプの娘だから、そういう風に感じていても、なんら不思議はない。むしろ、そう感じていてくれたらいいなと思う。そうしたら、私が感じていたようなコンプレックスに悩まされずに済むだろう。

娘には娘の特徴がある。それを長所と感じるか、短所と感じるかは、本人の気持ち次第だ。でも、その気持ちの持ち方は、周りの環境によっても変わってくるのだろう。人それぞれに違いがあることを知り、それを受け入れ認められるロンドンに身を置いていられることは、これからの娘にとって、いろんな意味でポジティブに働くだろうと、周りと比べて自分にコンプレックスだらけだった母は、密かに思っている。そしてそんな母も、今やすっかり開き直って、"私は私"を生きている。つもり…