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誰かを想う心

昨日の能登半島地震のニュースで心がざわついていたところに、羽田空港での飛行機炎上事故の一報が入り、頭が混乱した。なんで、どうして。そんな言葉が頭をぐるぐるしていた。新年早々、こんなことが立て続けに起こるだなんて、何かがおかしいんじゃないか。常に不安定でアンバランスな世界が、さらに平衡を欠いてしまったんじゃないか。そんな考えが脳内をじわじわと侵蝕していくのを感じながら、燃え上がる飛行機を映すスマホ画面を、しばらく暗澹たる気持ちで見つめていた。

今日は朝から、そんな風に重くどろりとした気持ちを抱えていた。午前中、こどもたちと百人一首をしていたのだけれど、私が一首読み、こどもたちがその札を探している間にも、私の脳内には何度も地震や事故の映像が浮かんでは消えていた。
お昼ごはんのときにも、まだそれは続いていた。家族でたわいもない会話をしながらも、燃える機体から舞い上がる火の粉が私の心をチリチリと炙るのを感じていた。夫が1番に食べ終え、流し台に食器を運び、食後の白湯を飲むためにコンロの前に立ったとき、玄関のベルが鳴った。立っていた夫が玄関へと出向き、台所へ戻って来ると、その手には2つの荷物を持っていた。それは私の両親と夫の両親それぞれからの贈り物だった。別々の日に大阪と新潟から発送された荷物が、同じ日に届いた。誰かからの手紙や贈り物を受け取ることは、それひとつだけでも十分に嬉しい出来事なのだけれど、それが思いがけず2つも同時に届いたら、その喜びは単に2倍ではなくもっともっと大きなものとなるということを、私は今日、知った。どちらも高額な送料を払いながらも、孫たちの喜ぶ顔を想像して送ってくれたのだと思うと、親の愛というのは本当にありがたい。

そして、私とこどもたちも昼食を食べ終え、洗い物を片付け、さぁ贈り物の箱を開けようか、と思っていたところに、また玄関ベルが鳴った。今度はなんだろうと思い、私が玄関の扉を開けると、そこには隣人のメアリーが不安げな顔をして立っていた。「日本で大きな地震があったというニュースを見たの。あなたたちの家族は大丈夫なのかと心配になって」と私の顔を見るなり彼女は尋ねた。ニュースを見て、居ても立っても居られなくなり、こうしてわざわざ訪ねてきてくれたのだった。私はメアリーに「私の家族も夫の家族も無事です。地震が起きた場所からは離れた場所に住んでいるので大丈夫です。気にかけてくれて、わざわざこうして訪ねてきてくれて、本当にありがとう」と応え、彼女の肩を抱きしめた。ハグをほどいた後、メアリーは私の手を優しく握ってくれていた。その手の柔らかさと暖かさで、朝から曇っていた私の気持ちがどんどんと晴れていくのを感じた。「あなたたちの家族が無事でなによりだわ。そうそう、あけましておめでとう、を言い忘れていたわね。あけましておめでとう」とメアリーはにっこり笑った。いつもの彼女の笑顔が戻って、私も顔がほころんだ。彼女の笑顔は本当にチャーミングで、春の陽射しのようで、見ているだけでほっとする。「あけましておめでとうございます。新年早々、悲しい出来事が起きたけれど、こうして心を寄せてくれるあなたがいることが、とても嬉しいです。ありがとうございます。またお茶しに来てくださいね」と、改めて新年の挨拶とお礼を伝え、もう一度ハグをした。そしてメアリーは晴れ晴れとした顔をして、ゆっくりとした足取りで帰っていった。

両家両親からの贈り物、隣人からの思いやりを受け取り、私の心はすっかり軽くなっていた。人の心を救うのは、やっぱり誰かの優しさや、身近な人を大切に想う気持ちなのだと、改めて感じた。

もちろん、石川でも羽田でも被害に遭われた方がいて、その方たちは今この瞬間も大切な人や家を失った悲しみに直面したり、大きな困難と向き合っている。ただ遠く海の向こうからニュースを聞いているだけの私が、勝手に落ち込んだり明るい気持ちになったりして、なにを呑気なことを言っているのだと思う。けれど、やはり誰かを想う心というのは、とても大きな力がある。気持ちだけではどうにもならないことがあることは事実だけれど、気持ちだけで救われることがあることもまた、まごうかたなき事実なのだ。被災者のひとりひとりに、これを読んでくれているひとりひとりに、心を寄せてくれる誰かがいることを、切に願っている。