世界を信じる
記憶というものは不思議で、ふいに今と関係のない記憶が思考にさしはさまれたり、突然に違う記憶に接続されたりする。
記憶が生きているのは、いつも五感と思考のなかだ。
手が何か仕事をしているとき、その手と繋がるはずの脳は今行っているのとは違う世界にたゆたっていることがある。
夜、自分の下着と夫のシャツを手洗いする。
肌に触れるところには石鹸をつけてていねいにこすり、そのあとは押し洗いして、そののちに濯ぐ。
水はいつでも右回りに排水口に吸い込まれ、流れてゆく。
わたしはそのとき、自分の身にかつて起こった暴力を思い出していた。
記憶というものはいつも断片だ。
ことに語りがたい記憶を人はまとまった筋書きとともに抱えることが難しい。
なぜならそれは他のものごとーたとえばどのように学位を取得したとか、仕事のプロジェクトを成功させたこととかーと全く違う種類のことで、その記憶は常に人を混乱させ、辱め、文字通りバラバラにしてしまう。
わたしはそのとき小学4年生で、友達のうちへ行く途中だった。
その途中に青い作業着を着た男の人に畑のすみで何かをされた。
わたしにはその時には畑の隅に咲いていたケイトウの花しか見えていなかった。
夏の頃で暑かった。
遠くには街の音がして、西陽がまぶしかった。
湿った土の匂い、ベルトのバックルの音、セミの鳴き声は長く振り絞っているようだった。
わたしは夫の白いシャツを押し洗いする。
流しに溜まった水の中に、かつての光景の断片がこぼれるように思い出された。
家に帰って脱いだ下着についていた汚れ。
わたしの口を塞いだ男の人の手がとても大きかったこと。
わたしは自分の下着をゆっくり濯ぐ。
排水口を塞いでいた栓を外すと、生ぬるい水はゆっくりと弧を描いて流れていく。
わたしの記憶にはまだちゃんと言葉が与えられていない。
それはまだわたしの中に物語をなしていない。
「苦しみと暴力の体験は、被害者にとって、言葉で描写できないものに思われる。それを体験した者自身にも理解することができない、それまでの体験のすべてを上回る恐れのある体験だからだ。恐怖と戦慄の前には、通常の言葉はあまりに無害に、あまりに平板に響く。現実に体験した惨事を描写しようと思えば、言葉を一語ずつ「それ」にあてはめていくしかない」
カロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』(みすず書房)P11
排水口に流れていく水を見ながら、わたしは自分が泣いているのか、水が目に映っているのかわからなくなる。どちらなのかわからない。
どちらでもないのかもしれないし、両方なのかもしれない。
ばかみたい、とわたしは思う。
わたしはもう10歳ではないし、若い女でもない。
わたしは傷ついている、わたしは痛くてたまらない、わたしは悲しい、そんなことをいつまで言っているのだと思う。
先日わたしの病歴の聞き取りをした就労継続試験事業所の所長さんが、「いろいろ大変でしたね」と言った。
「たいへんでしたね」とわたしは思う。
8音のこの言葉だけにわたしの記憶は収まるものなのだろうか。
それだけのことにわたしの感情は仕舞えるものなのだろうか。
夏の夜の洗濯は乾きが早くて気楽だ。
次の朝には気持ちよくパリッとこのシャツも下着も乾いているだろう。
わたしの気持ちはこんなふうにどうしていかないのだろうか。
簡単に乾いてしまえばいいのに。
簡単に流してしまえばいいのに。
急にものすごく疲れた、と思う。
わたしは生きている間じゅうこうやって自分の下着と夫のシャツを洗うだろう。
どれだけの水を流すだろう。
どれだけのものを濯ぐだろう。
わたしはわたしを濯いで流せるだろうか。
皺を伸ばしながらシャツをハンガーにかけた。
下着を平干しにした。
わたしの心はいくぶん軽くなった。
わたしの記憶のいくつかをわたしは水に流すことができた。
わたしの記憶の断片は、わたしの中に確かにしまわれていて、それはただの意味のない断片で、それが唐突に出てきて、鋭いその辺で、角でわたしを傷つける。
わたしは用意できていないのに、再び血を流すことになる。
「いまや彼女は知っているーこの体験が、言葉にされないまま終わることはないと。少なくとも、彼らのなかのひとりは、個々人の各々の体験を、ほかの人々が耳を傾けることのできる、耳を傾けるべき証言に変えることができる」
カロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』(みすず書房)P13
断片そのものをわたしの中に無かったことにはできない。
しかしわたしはその前に全くの無力であるわけでもない。
断片の切り口にやすりをかけたり、断片と断片をつなぎ合わせて新しく何かを作ることができるかもしれない。
これをわたしは「希望」と呼ぶ。
わたしはあの日の西日に、あの日のケイトウの花に、あの日の蝉の声に新しい記憶を接続させる力がわたしにはあるのだと信じている。
その力はどこから湧くのだろうか。
かつてわたしは他者から傷つけられた。
だがこの力に必要なのも、また他者であるのだ。
再び世界を信じるに足るものにするために、わたしはもう一度他者を信じる。
朝になって洗濯物は気持ちよく乾いていた。
それを畳みながら、わたしは窓の外の遠くに鳴く蝉の声を聞いた。
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