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「お~い!ボクだよ~!」

私の子どもが小さいとき、近くの陸橋から下を走る電車に向かって「お~い!」と言って手を振るのが大好きでした。

ある日、いつものように陸橋を散歩していたときのことでした。

鉄柵の隙間から見える線路を遠くから走ってくる電車が、徐々に近づいて来るのを嬉しそうに見つめながら、彼は大きく手を振り叫んだのです。

「お~い!ボクだよ~!」

その彼の言葉を聞いたとき、私はそのあまりの「世界に対して開かれた構え」に、震えるほど衝撃を受けてしまいました。

彼は、世界のみんながボクを知っていて当たり前の世界に生きているのです。「おまえ、世界のすべてと友だちなんだな。スゲぇわ。」と圧倒されたのです。

子どもの何気ない一言って、ときどきとんでもない威力でもって、私たちの脳みそをぶん殴りますね。そのときの衝撃は今でも忘れることができません。

整体を作った野口晴哉は、「おとぎ話を失った国は滅びる」と語っています。

シュタイナー教育では「ファンタジー(空想/空想力)」というものをとても大切にしますが、整体でもまた子どもの空想というものを大切にするのです。

無闇にはしゃがずにクールであること。物事を批判的に捉えられること。そういう態度こそが「大人の振る舞い」であるとして高い価値を置かれる現代においては、物事に対して一定の距離を保ち、客観的な関係性であろうとしがちだと思います。

確かにそういう面はありますし、そのこと自体も間違っているとは思いませんが、小さな子どもたちにまでそのような価値観が広がり、あらゆるものに対してクールに振舞おうとして、素直にファンタジーに浸れなくなるのだとしたら、それはとても悲しいことです。

「現実的でクール」という態度が「物事から離れる力」の発揮であるとすれば、「ファンタジー」の態度は「物事と親和する力」の発揮です。

たとえば、太陽が「宇宙空間で核融合を続ける無数の恒星のひとつ」であると捉えるならば、それは私という存在とはまったく関係無しに、そこに確固として存在していることでしょう。

対して、太陽が「いつも明るく微笑んで、みんなをポカポカ暖めてくれる優しいお陽さま」であるとき、人は自分と太陽の近しさを感じ、そこに愛も喜びも悲しみも痛みも伴うような、そんな関係性が生じてくるのです。

子どもがファンタジーを生きるということは、雲や太陽や風や草花がみんな心を持って、私の頬をくすぐり、ぬくもりを与え、ときに笑い、ときに泣いたりして、一緒に遊ぶ世界を生きるということなのです。

そのように世界のさまざまな存在に対して愛情を感じながらたっぷり遊んだ子どもは、やがて大きくなったときに世界に対して言葉にならない無意識的で絶対的な親近感を持つことになるでしょう。

たとえ子ども時代のことをすっかり忘れてしまったとしても、無意識のうちには、世界に対して「よく一緒に遊んだ古い親友」のような、そんな親愛の情を抱いているのです。

だって……忘れるわけないでしょう?
忘れるもんですか。いっつも一緒に遊んでいたんですから。

そんな記憶がからだに深く刻まれていることは、この世界を生きていくうえで、どれだけ幸せなことでしょう。

自分がこの世界を生きていくときに、世界が自分とさほど関わりのない他人であるかのように感じられるのか。あるいは昔ずっと一緒に仲良く遊んだ幼なじみであるかのように感じられるのか。 

その二つの構えの違いは、人生にずいぶん大きな違いをもたらすことでしょう。

子ども時代にファンタジーの世界をしっかり生き切れたかどうかということは、大人になってからの世界に対する態度や構えに大きな影響を及ぼします。

ファンタジーは人と世界、あるいは人と人とを結ぶ「絆」そのものなのです。世界に対する親和力の源泉であるとも言えるでしょう。

大人としてクールであることも大事なことではありますが、子どものファンタジーを支え、守り、それをともに生きることも、また大人として大事な役目だと思います。

世界と一緒に遊びましょ。

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