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活元運動のススメ

1.活元運動

「活元運動(かつげんうんどう)」というのは、野口整体の中でももっとも基本的で代表的なメソッドです。

ですが、本で読んだだけだといったいどんなものなのか空想しづらいので、野口整体のことは知っていても活元運動についてはよく知らないとか、やったことがないという方も多いかと思います。

活元運動は「錐体外路系運動の訓練法」とも呼ばれますが、内臓の運動や反射的な動きといった、私たちが無意識のうちに行なっている動きを活性化させることを目的としたメソッドです。

それはたとえば、転びそうになったときに咄嗟に出る手や、何か鼻に入ったときに出るクシャミ、あるいは雑菌が侵入したときの発熱など、からだが自律的に行なっている自己調整機能を高めよう、ということです。

やり方としてはシンプルで、とにかくポカンとしてからだに対する感覚を高めていくと、それぞれのからだの部位の動きの要求が徐々に感じられてくるので、その要求に従って動き出そうとするからだに文字通り身を任せていくだけです。

言ってしまえばとてもシンプルなのですが、これが最初はなかなか難しく、ついいろいろ考え過ぎてしまって、からだの要求が感じられずに動きが出てこなかったり、すぐ動きが止まってしまったりいうことも多々あります。

2.夢見のワーク

私たちの活動の大部分は、無意識的な動きです。

内臓の運動全般がまずそうですし、ただ立つとか歩くとか、あるいは服を着るとか声を出すとかいうようなことも、日常的な感覚で言えばそのほとんどが無意識的な動きです。

日頃、内臓の動きなど意識していないのはもちろんでしょうが、たとえ随意筋の動きであっても、歩くときの脚の筋肉の収縮の順番だとか、服の袖に腕を通すときの腕の細かい操作だとか、日頃からいちいち意識して行なっている人はほぼいないでしょう。

意識というのは「こういうことをしよう」という大まかな目標を立てる程度で、「具体的にからだをどう動かすか」という部分はからだに任せてしまって意識していないことがほとんどです。

ですから「ただ歩く」とか「水を飲む」とか「スマホに手を伸ばす」というような日常的な所作も、その一つ一つの運動を意識しながら自覚して動いてみるということをするならば、それはもうすでに一つの行でありワークになってきます。

それらのワークは、眠り込んでしまっている自身のからだの動きへの気づきを促すワークなので、いわば「覚醒のワーク」と言うことができるでしょう。

ある種の動的な瞑想や、丁寧に動くことを主眼に置いたヨガや太極拳のようなボディワークなどが、それに当たるかも知れません。

対して活元運動というのは、積極的にからだに対する意識の統制を外して、からだが自ら動こうとする気配や要求に潜り込んでいくという、まるでからだの見ている夢の中に入って委ねてゆくようなワークになるので、いわば「夢見のワーク」と言えるでしょう。

「覚醒のワーク」と「夢見のワーク」。それぞれ方法は微妙に異なりますが、重なる部分も多々あって、必ずしも相反するワークというわけではありません。

高度な意識操作ができるようになれば、「覚醒を保ったまま夢見に入る」というような芸当も不可能ではありませんが、それはまあストイックな求道者の歩む道です。

3.からだは無意識の杜(もり)

そのような無意識的で無自覚的な夢見の状態とでもいうような在り方をしている私たちのからだというのは、私たちの意識からこぼれ落ちたり弾かれたりするようなモノたちの居場所でもあります。

たとえば、怒りだとか悲しみだとか妬みだとか寂しさというようないわゆる負の感情のようなものが湧いてきたときに、私たちの意識はそれらと向き合うことを怖れ、そこから逃れたいと願い、自分がそんな感情を抱いていることを否定しようとすることがあります。

意識によってその存在を認められずに、否定されたり拒絶されたりした感情は消えて無くなるわけではなく、私たちの意識外の部分、つまり無意識の部分に追いやられて、そこでひっそりと佇んでいたり、強張っていたり、グルグルしていたりすることになるのです。

からだというのはある意味、そのような意識から追いやられたモノたちが逃げ込む先の杜(もり)であり、アジールであるとも言えます。

からだは私自身でありながらその営みは自分にとっても無意識的なので、出したいけれども意識したくもないというようなことを、留めておいたり表出したりするときの受け皿となっているのです。

それらは、表出すればしぐさになりますが、留めれば緊張になります。

そしてそのようなモノたちが高まりすぎて、からだの受け止められるキャパシティを超えてしまうと、それらは症状になったり、問題になったりという形で表に現われることになるのです。

4.出して良い

私たちの現代生活は、誰もがいわゆる社会的な身振りを振舞うことを求められて、その上で成り立っています。

人前で急に大声を上げて踊り出し、素敵な人を見かけるや否や抱きしめて顔を舐め、イヤな奴はぶん殴り、お店の美味しそうな食材をその場で食べ始めて、気が済んだらその辺でゴロリと横になって、ところ構わず排泄する…。

上記の行動はすべて本能に忠実なだけとも言えますが、みんながそんな身振りをし始めたら、社会は混乱し破綻してしまいます。

そんなことにならないのは、私たちが自身の行動に抑制をかけ、コントロールしているからです。

それは私たちの社会が成立するために必要な身振りなわけですが、でも間違えてはいけないのは、「上記の行動はすべて間違っているから止めなくちゃいけない」訳ではないということです。

つまり、上記のどの行動もそれ自体が間違っているわけではなく、行動する時や場所あるいは方法が間違っているのであって、それらが満たされた上ならばやっても良いということなのです。

人間は大声を上げて踊って良いし、好きな人を抱きしめてキスして良いし、イヤな奴を法に触れない方法(?)で殴って良いし、美味しい食べ物を何でも食べて良いし、ゴロリと横になって良いし、好きに排泄して良いのです。

ただそのような本能的な行動を抑制しようという反応は、それ自体がほとんど自動化され、ほぼ無自覚的に行なわれているので、そのプロセスが本人でも非常に分かりづらくなっているということがあります。

私たちが取り組むべき課題は、それら内から湧いてくる要求をただ抑制してしまうのではなく、現実社会においていかに表出してゆくのか、その方法を考えて実践してゆくということでしょう。

5.そして日常が活元運動に

活元運動というのは、言ってみれば「出せるからだ」のトレーニングです。

本来しっかり表現、排泄すべきモノを、自身の無意識部であるからだに押しつけ、本当は自分が何を感じて何を現わしたいのかも分からなくなってしまって、何だかよく分からないけどどこか苦しかったり疲れていたりと、そんな風に感じている人も少なくありません。

余計なことを考えるのを止めてポカンとして、それら出すべきモノたちを揺すぶって、動き出したらそこに寄り添って少しずつ表に出してみませんか。

活元運動というのは、そんな営みのお誘いであり、練習なのです。

そしてそれが徐々にできるようになってきたら、次は日常の中でも少しずつ出していってみるということ。身内のなかで。学校のなかで。会社のなかで。そして社会で。できる範囲で。ゆっくりと。

そうやっていつかやがて、日常生活それ自体が活元運動のようになっていくことができたら、それはきっととても風通しの良い、健やかな生き方になっているはず。

それが整体の目指す「全生(ぜんせい)」という生き方です。

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