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複雑系な私たち

1.やわらかなからだ

私たちのからだは、ロボットと違って「やわらかい」。

「やわらかい」ということは、それだけからだが自由に柔軟に変化するということですが、それはつまり私たちがからだを動かすときにとり得る動きのパターンが、ものすごい数の組み合わせを有しているということでもあります。

そう考えると、自身の行動を説明するときに「私はあらかじめ考えた通りに動いている」という語り口で語ることは、はたして可能なのでしょうか?

それは、私たち人間が自分の行動を自分の意志で決めているという「自由意志」問題にも関係してきますが、私たちの「意図(入力)」と「行為(出力)」というものは、そんなに単純な線で結ぶことができるのでしょうか?

「二重振り子(⇒参考動画)」という、振り子の先にもう一つ振り子を付けただけの単純な運動機構さえ、その動きは極めて複雑で非周期的なカオス運動となってしまうのですから、私たちのからだのような冗長度の高い構造体であれば、もはやその予測は「富岳」でも困難を極めるのではないでしょうか。

何しろ私たちの肉体は、解剖学的な分類だけでも68個の関節と640個の筋肉に分けられており、それらがアナログに絡み合う動きの組み合わせたるや、完全にカオスの領域です。

しかもその上、現実の私たちの行動に関わってくるのは、そのようなからだの内部の構造だけでなく、床の段差だとか隣の人の動きだとか、周囲を取り巻くあらゆる環境にまで及ぶのです。

そのようなカオスな系では、たった一つの因子のごくわずかな入力の違いが、とんでもなく大きな出力の違いとなるので(バタフライ効果)、私たちの「意志(入力)」と「行為(出力)」を単純に線形的につなぐなどということは、到底できっこないのです。

2.イーカゲンにしておく

到底できっこないはずなのですが、でも現実には、私たちはだいたい思った通りに動けています。あるいはそのように思っています。

もちろんときには、段差でつまずいたり、コップの水をこぼしたり、スマホを落としたりもするでしょうが、大抵の場合だいたい思い通りに動けているのではないでしょうか?

たとえば渋谷のスクランブル交差点を渡るとき、歩行者の信号が青になった途端、待ち構えていた人々がワーッと歩き始めて、インバウンドの旅行客がその様子を撮影しながら歩いたり立ち止まったりグルグル回ったりし始めますが、あの状況の中であらかじめ思った通りに歩けている人など皆無でしょう。

でも思った通りではないにしても、それぞれが対抗者とぶつからないように調整しながら、多少のズレはあってもだいたい思い通りの地点辺りにたどり着けると思います。

「TSUTAYAのスタバに行きたかったのに、天津甘栗のお店に着いちゃった」などということはたぶん無いと思うのです。(いや、世の中にはいるかも…)

でもだいたい思った辺りに到達できていれば、私たちはその結果を「まあ良し」として納得するか、あるいは「あ!甘栗美味しそう!」とか言って、「ちょうどこうしたかった」みたいな風味付けをすることで、単純に意図と行為を結びつけて、それでさして問題を起こすことなく運動したりコミュニケーションしたりしているのです。

そこには「遊びのある制御」と「遊びのある解釈」があって、その「遊び」の余白によってさまざまな不具合や破綻を回避する、そんなシステムが働いています。

まあつまりは、私たちはとってもテキトーにイーカゲンに生きているということであり、そのようなイーカゲンさによって私たちは多くの致命的なクラッシュを回避しつつ、自己を保って生きているということなのです。

プログラミングであれば一文字打ち間違えただけで動かなくなってしまうかもしれませんが、私たちが頭のネジの一本や二本抜けてても何とか動けちゃうのはイーカゲンだからで、つまりはだいたい合っていれば良いのです。

そう、これでいいのだ。

3.開かれた「からだ」

「私たちの意図と行為を単純につなげて語ることはできない」という言葉は、私たちの精神(意図)の限界を語る「敗北の言葉」であるようにも思えますが、見方を変えると無限の可能性へと開かれた「旗揚げの言葉」でもあります。

つまり私たちの行動は、他の影響の入り込む余地の無い「閉鎖系」なのではなく、さまざまな環境の要因がそこに加わることのできる「開放系」だという風に、積極的に捉えることもできるのです。

パーキンソン病患者の方に見られる現象で「逆説的歩行」というものがあります。

どんな現象かというと、段差や模様のない真っ平らな床だとまったく歩くことのできない患者さんが、階段はスタスタと上り下りすることができたり、あるいは平らな床でもそこに障害物が等間隔に置かれていると、それを跨ぎながらスムーズに歩くことができるという現象です。

それは床の段差や模様といった視覚的なリズム情報によって、足のリズム運動がサポートされるという「からだ」と「環境」の協調作用による行為の発現で、それは「からだ」と「環境」とによる見事なまでのダンスだとも言えます。

でも、よくよく考えてみれば私たちの行為はつねに環境との協調行為であって、たとえば私たちの歩行はどう考えたって単純に「安定した床面」によって支えられているのです。

たとえば膝が痛いだけで、目眩がするだけで、床が滑るだけで、部屋が真っ暗なだけで、目の前にゴキブリが飛んできただけで、私たちの歩行は突然失調をきたすことになるわけで、つねに忘れ去られていますが、それらの協調によって支えられているというのが事実なのです。感謝ですね。

ちなみに古い映画ですが、ロビン・ウィリアムズとロバート・デ・ニーロという二大名優が出演した1990年の映画『レナードの朝』の中で、その「逆説的歩行」という現象が描かれているので、ご興味のある方はぜひ。

4.ネコ陰謀論

また「環境との協調」ということを語るならば、私たちを取り巻く微生物叢(マイクロバイオーム)も抜きにして語ることはできません。

たとえばトキソプラズマ原虫という寄生虫に寄生された動物は、未感染の個体より活発に活動するようになることが分かっています。

ハイイロオオカミでは群れのリーダーになる確率が46倍(!)になったり、ブチハイエナではライオンを怖れなくなって食べられてしまう確率が4倍になったり、マウスでは猫の尿の匂いに警戒心を抱かなくなったり、といった行動変容が起こることが観察されています。

それはトキソプラズマ原虫という寄生虫が、ネコ科の動物を「終宿主」としており、そのため現宿主にネコ科の動物と接触させるような行動を取らせるからだと考えられていますが、そうなってくるともはや寄生虫に乗っ取られたゾンビとどう違うのか、ちょっと怖ろしくもなってきます。

そして、じつはそのような行動変容はヒトにも観察されていて、トキソプラズマ原虫に感染したヒトは、危険運転をしやすかったり、起業する割合が高かったり、見た目が魅力的で性的パートナーが多かったりと、何だかいろんな影響があることが分かってきています。

ですからもしあなたが最近、なんだか無性にライオンがカッコ良く見えたり、劇団四季のキャッツを観に行きたくなったり、あるいはネコのお腹に顔を押しつけてスンスンと匂いを嗅ぎたくなる衝動に駆られることがあるのだとしたら、それはひょっとしたらトキソプラズマ原虫に寄生されて操られているのかも知れませんよ…?

怖い怖い…。

というより、トキソプラズマ原虫こそがネコ科の放ったスパイで、そのすべてがネコ科による世界征服の企ての一環だったとしたら…(ヤバいことに気づいてしまったかも知れません…)

5.複雑系な私たち

まあそれはともかく、そのような寄生虫やあるいは私たちのからだ中に共生している微生物叢が、宿主本体の行動や性格にまで影響するということが分かってきている現代、いったい私たちの意志とか性格とか運動能力とか、あるいは個性だとか潜在意識だとか、はては魂とか霊性とかいうようなものに至るまで、いったい私たちはどうやって語れば良いのでしょうかね?

正直、今までの語り口では語り得なくなってきているような気がします。

「私」という現象は、単純に私の意図と行為を結んで語れるような「閉じた系」なのではなく、そこには身体構造の複雑性や、周囲の環境の変化や、体表や腸内に生息する微生物叢の生態が絡み合ってくる「開放された系」なのだということ。

それは畢竟、「私」とはつまり周縁も丸ごと含めた「私たち」なのである、ということだと思います。

自身を含めた身の回りのわずかな変動が、それがたとえ細やかな蝶の羽ばたきのようなものであったとしても、つながりあった「複雑系な私たち」において、いったいどんな猛烈なハリケーンとなって現われたりしてしまうのか、それは分からないのです。

私たちはみなつながりあって支え合って生きているという、単純で素朴な事実。それは「スローガン」ではなく、ただの「事実」なのです。

その複雑に絡み合った現象としての「私」をどう捉えて、どう向き合うか。

「私の意志では何も変わらない」と受け取るのか、「何がきっかけで変わるのか無限の可能性がある」と見るのか、それは私たち次第であるでしょう。

少なくとも私たちは、他者とコミュニケーションを取ってより良い関係を構築することができるし、大波に乗ってサーフィンをすることができるし、乗馬をすることもできれば、犬と協力して狩りをすることもできるのです。

とんでもなく複雑な事態や現象と折り合って、この世界を愉しく生きていくことができるのです。それは私たちの持つ「無限の可能性」の実証ではないでしょうか。

自分を変えたいと思ったら、とにかくいろんなことをやってみれば良いのです。いったい何がきっかけとなって変わるか分かりません。つねに「私」を開いておきましょう。

私たちは「つながりあった一つの複雑系」なのですから。


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