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こんにちは。山上亮です。(初めての方へ)

1.こころとからだ

みなさん、こんにちは。山上亮(やまかみりょう)と言います。私はふだんいろいろなところで「整体的子育て」と題した講座や、からだに学ぶボディワークなどを行なっています。
(※最新の講座情報などはFacebookにあります)

みなさんは整体というものをご存じでしょうか? 整体というのは「体を整える」と書くので、からだを調整していくものだとお思いかも知れませんが、実際には私たちのからだとこころというものは一体になって動いているので、からだを整えるのもこころを整えるのも、ある意味同じ事だとも言えます。

たとえば「悲しい」というこころの動きは、表情が暗くなったり涙が出たり肩が落ちて胸が縮んだりと、必ずそのからだの動きも伴います。

ですからもし悲しんでいる人がいて、その人を元気づけてあげたいと思うならば、その人に対して縮んだ胸をゆるめてあげたり、胸椎四番をさすってあげたりして「からだ」から働きかけることもできますし、話を聞いてあげたり、励ましの言葉をかけてあげたりして「こころ」から働きかけることもできるのです。

私たちの精神活動と身体活動とは、その両方が表裏一体となって動いており、決して切り離して考えることはできません。

ですが、現代はあたまの知的な活動の部分にばかり価値を置かれています。学校教育でも、椅子に座ったままの知的な教育が行なわれるばかりで、からだを動かしていく教科というのは決して多くはありません。

けれどもからだもこころも一体となって動いているとするならば、からだというものももっときちんと取り上げて、その存在と働きも含めながら教育を行っていく必要があると思います。

2.整体はやり切る

整体では、熱が出たり、下痢をしたりといったからだの変動があったときに、その変動を「必要があって行なわれている」と考えます。

ですからそれらの変動をむやみに止めたり抑えたりということはせずに、むしろそこで行なわれているプロセスをしっかり全うする、やりきるということを考えます。

シュタイナーの思想や自然療法の思想に興味を持たれている方には非常に馴染みやすい発想かと思いますが、それはいわば「からだの営みを信頼する」というスタンスです。

私はよく古い建物に喩えてお話しするのですが、大きな地震が来たら倒れてしまうかも知れないような古い建物があったときに、もう少しその建物を使いたいと思ったら、例えば耐震工事などを行ないます。

工事の最中は業者が出入りし、足場を組み、資材を運び入れ、ときに壁を壊して補強材を入れたりして、たいへん賑やかな状態になります。

そのときには騒音も出ますし、廃棄物も大量に出るかも知れません。ですがそのプロセスを経てその建物は丈夫になり、大きな地震が来たとしてもそれに持ちこたえられるだけの強さを持つことになるのです。

それはいわば建物が「風邪を引いた」ようなものなのです。

私たち人間も、ふだんの生活の中で疲労が溜まってきたり、バランスの偏りが生まれてきたりしたときに、毎日睡眠を取ることでメンテナンスをしているわけですが、それだけでは間に合わなくなってきたときに、大きな改修工事を行ないます。

体温を上げ、代謝を高め、老廃物の排泄を行なう改修工事。それが風邪なのです。そう考えると風邪は止めたり、治したりするようなものではなく、しっかりやり切るものなのだという考えがよく分かるかと思います。

3.全生という思想

整体の思想に「全生(ぜんせい)」という言葉があります。それは「生を全うする」という意味で、人間のからだやこころの営み全体を「生の営み」と捉えて、それらの営みをすべて全うするということです。

熱を出すときに熱を出し、排泄するべき時に排泄する。それは簡単なようでいてなかなか難しいことです。私たちは意外ときちんと排泄できていないのです。

熱を出せなかったり、不要物を排泄できてなかったり、泣けなかったり、怒れなかったり、言いたいことを言えていなかったり、やりたいことをやれていなかったり……。

言いたいことを言うとかやりたいことをやるということも、ある種のこころの排泄行為ですから、それらもきちんと全うするということが大事です。

自分の内側から湧いてきた要求をきちんと表に現わすことは、全生という意味でとても大切なことなのです。それが健康ということであり、仕合わせということなのです。

整体でもシュタイナーでも排泄の重要性というものが語られますが、きちんと排泄できないことから生じるさまざまな不調や疾患というものは、私たちが考える以上に多いのです。

4.古い排泄

前に講座で「穴追い」という整体の技術の練習をしたことがありました。その講座に参加したあるお母さんが一ヶ月後に再び講座に来たときに、まるで見違えたようにキラキラとしていたので、ビックリして「何かあったんですか?」と思わず聞いたことがあります。

そうしたら前回の講座の後、しばらくしてふとしたときに、すっかり忘れていた幼少期の記憶を急に思い出したんだそうです。

それは非常に悲しくショッキングな出来事で、どうしてまったく忘れてしまっていたのか不思議なくらいで、とにかく大泣きしてしまったそうです。

泣いて泣いてさんざん泣いて、そして会社から帰ってきた旦那さんにもその話を聞いてもらって、「大変だったね」と慰めてもらったそうです。

その旦那さんがとても優しい方で、話を聞いた後にその方に横になってもらって、泣き腫らしてしまった眼にそっと手を当てながら、宮澤賢治の詩をずっと朗読してくれたんだそうです。

美しい話ですよね。そうしたらピカピカになって講座にやってきたんです。

非常につらいショッキングな出来事というのは、記憶が飛んだり、意識を失ったりすることがありますが、それは決して無かったことになるのではなくて、どこかこころやからだのこわばりやわだかまりとなって残っているのです。

ですからその方の場合も、幼少時の悲しいショッキングな出来事がからだのどこかにこわばりとして残っていて、それが「穴追い」という非常にからだのゆるむ整体の実習をしたことで、ふとした瞬間にゆるんで動き出したのです。

こわばっていたものがゆるむ瞬間というのは、そのこわばりが生じたときの感覚がよみがえりますから、そのときの痛みや記憶や感情がふっと思い出されます。

その方の場合は4才くらいの記憶だったそうですが、それがワーッと出てきて、ある意味そのとき泣けなかった涙があふれるように出てきたのでしょう。

その閊えていた排泄が改めて行なわれ、そしてその排泄の営みを支えてくれた信頼できるパートナーが隣にいたということで、本当にしっかりとやり切って、その経過をきちんと全うできたのだと思います。

それまでもいろんな排泄を全うしたからだを見てきましたが、その方は本当に見事なくらいにピカピカになっていたのでとてもビックリしました。

5.出し切るお手伝い

私たちは子どもの頃からいろんな体験をしていきますが、ときにその経過を上手く全うできないことがあります。それは「熱を出せない」「老廃物を出せない」といった身体的なこともそうですし、「泣けない」「怒れない」といった精神的なことも同様です。

出せなかった排泄物、表せなかった感情、言えなかった言葉は、表に出たいという要求を抱えたままからだの中に残り続け、やがて硬くこわばり硬結化して、そこで行なわれる活動にねじれやゆがみを生み、閊えさせてしまったりします。それは決して仕合わせなこととは言えないでしょう。

ある意味、大人のやるべきことというのは、子どもの中から表われようとしているものをしっかりと出し切っていくためのそのお手伝い、あるいは邪魔をしないということに尽きるのかも知れません。

ですが、子どもの中から表われようとしているものを全部出させていったら、とんでもないことになるんじゃないかと、そんな心配をされる方もあるかも知れません。

叩きたいから叩く。叫びたいから叫ぶ。暴れたいから暴れる。たしかにそれでは野蛮そのもので、とてもそのままでは社会生活を営んでいくことはできないでしょう。

子どもが社会に出て一人でもやっていけるように礼儀やマナーをしつけるのも親のつとめですから、ただ出したいものを出させていくだけではダメなんじゃないかと。

ですがそのときに考えるべきは、「出したいものを出させたら迷惑だから、どうやって出させないか」ということではなく、「出したいものをそのまま出させたら迷惑だから、どうやって出させようか?」ということなのです。

それはトイレットトレーニングを考えれば分かると思います。

たとえばウンチを出すことは決して悪いことではありません。むしろ必要なことであって、出ない方が心配なくらいですから、誰でもどんどん出して欲しいと願います。ですから「そんな汚いものを出してはいけません」と抑え込むような人はいません。

でもウンチはどんどん出して欲しいけれども、そこらへんに適当に出されては困ってしまうわけです。そういう排泄の仕方では他人に迷惑を掛けてしまう。

ですから私たちは子どもにウンチの出し方というものを教えます。おまるを用意したり、トイレに連れて行ったりして、「ウンチというものはこうやって出すんだよ」と、その出し方を教えます。それが躾(しつけ)というものです。

つまり子どもの中から出てくる危ないことや汚いことに対して、私たちは出させないように抑えるのではなく、どうやって出しても良い形にして出せるのか、その方法を考え、教えてあげるということなのです。

6.からだの素直な要求とあたまの知恵

「子どもの素直な要求」と、それを表に出せる形にする「大人の知恵」。

それは、「からだの素直な要求」と、それを表に出せる形にする「あたまの知恵」、と言い換えることもできるかも知れませんが、その二つが美しく協調していることが、私たちの健全な生命活動を支えてくれるのです。

それがしっかりできているからだは、本当にスッキリとしていて、どこにも余計な緊張や気負いがありません。いわゆる自然体というものです。

整体を作った野口晴哉(のぐちはるちか)という人は、「もし人が健康にならないのならば、そのような心の使い方、教育の方法は間違っていると私は信じている。」と言っていますが、もし子どもに対する教育が正しいならば、それは必ずその子を健康にし、そしてそのからだを温かくさせるはずです。

もし子どもの教育方針に悩んだら、その子のからだを見つめて下さい。その子のからだを感じて下さい。その子のからだがポカポカと温まり、溌剌とした力に充ち、元気に健康になる方向を目指せば良いのです。

※最新の講座情報などはFacebookの方にあげています。
https://www.facebook.com/yamakamiryo/


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