見出し画像

小説:シンデレラボーイ

 「かわいそう」の指標はエンゲル係数の高さで定めるべきである。それ以外の評価軸を持つ者はすべて偽善者であり、裁かれなければならない存在である。それなのに、人々はその事実から目を背け、猫だの犬だのの、ダニを運び、生態系を破壊する畜生をかわいそうだのなんだのと保護をする。それは正義ではなく、ただのマスターベーションなのである。考える余裕と配るお金があるのに、思考を放棄し欲望のまま自己顕示欲を得る悪行なのである。

 ゴミ捨て場で騒がしくなきわめく黒猫に思わず私は顔をしかめた。蹴っ飛ばしたくなる衝動を抑えた自分をほめたたえ、錆びた鉄の階段を登る。蛍光灯の電気はついたり消えたりを繰り返している。コンクリートの上には骨がさび付き、茶色い汚れのついたビニール傘が一定の間隔で散らばっている。踊り場から数えて3番目の傘が指す目の前に私の部屋のドアがあった。むき出しの給湯器と電気メーターに頭をぶつけぬよう、真っ暗な部屋に入る。

 まずはカバンを玄関の奥に投げる。この家の三和土、いわゆる靴を脱ぐ場所は非常に狭く、カバンを背負ったままだと、閉まるドアに押し倒されてしまう。投げられたかばんは、ペットボトルや洗濯物がごっちゃになった山の上に着地するはずなので、中のものが壊れたりする心配はない。帰宅したからと言って座ってしまうと、そのまま朝まで動けなくなるので、座ることなく、アルミカンが散乱した机の上から、スチールの缶を発掘し、中に入った自転車のカギを取る。その際、落としたアルミ缶を壁のほうに蹴りつけると、私は玄関から出た。歩いて2分くらいの場所にスーパーはあるが、この時間にはもうやっていない。自転車をこいで少し先のコンビニに行く。

 イヤホンは家を出る際に着ける。たいてい聞くのはヒップホップがデスメタルだ。邦ロックは嫌いだが破滅的な歌詞であればその通りではない。でも、やっぱりどれも悟ったような感じがするので好きじゃない。自転車をこぎながら選曲をしているとさっきの猫を轢きそうになった。誰にも見られていないからやってしまってもよかったかもしれない。

 イヤホンを耳に詰めて日常生活を送るのはとても気持ちがいい。その状態で自転車に乗るのはもちろん、店員に話しかけるときも最高だ。イヤホンを耳に詰めながら聞き返すのは自分はお客様であると実感できる。それはもう実に人間らしさを感じることができるので最高だ。私が帰宅後すぐに床に就かずに、睡眠時間を削ってまでわざわざ飯を買いに行くのは栄養を取るためではない。一日に一回、この人間らしさを味わうためであると言ったほうが良い。だから正直、コンビニでご飯を買う必要はあまりない。コンビニ弁当の味も容器も大嫌いだし。

 コンビニ弁当の終わっている点は、はっきりとしすぎるその味にあると思う。どれも一口食べただけで、その食品が何か一発で表現できる。私はそんなものではなく、なんとなくあいまいで味に名前のついていないようなものが食べたい。毎日食べるのに家庭の味というのがちょうどよいと思う。もっとも、スーパーは開いていないし、キッチンはまな板を置くスペースはないし、仕送りを送ってくれた親も去年他界し、家庭の味なんぞもう口に入れることはないのであるが。

 目の前に「お母さんキッチン」なるブランドの商品がずらりと並ぶ。私の死んだ母が一度も作ったことのない料理が半分を占めていた。これらは、ほかのコンビニの料理と同じ理論の味がしたのを思い出した。おなかが減っているというのに、内臓が冷蔵の棚に並べられた商品を手に取るのを拒否する。しかし、それでも一番ましなパスタを選ぼうとするが、深夜なのでその商品は棚にはなかった。しょうがないので牛丼を手に取りレジに向かう。もしかしたらこの牛丼は残してしまうかもしれない。脂っこいものの気分の日なんてない。

 買い物を終わらせ、また自転車にまたがる。車は来ないが信号は赤だ。イヤホンで音楽を聴きながら自転車の運転はするが、信号無視はしないと心に決めている。上司が信号無視をしているのを見たことがあるからだ。でも、今はもう1時30分を回っている。睡眠時間が少なくなってゆくことがどうしても悲しくなってゆく時間帯に差し掛かってきた。

 結局車が来ることはなかった。信号が青になり、私一人だけが信号を渡っている時、ふと思った。どうして俺は誰一人をしていない交差点をバカみたいにわたっているのかと。これはまず……

 俺を覆う巨大な闇につぶされてしまいそうだ。

「アハァハァハァハァハァハァ」

 何とか叫ぶようにして俺は笑い声をあげることができた。周りは眠っているだろうがそんなことはお構いない。近所のことなんて気にしても無駄だ。

「アハァハァハァハァハァハァ」

 なぜなら、俺は特別な人生をあゆんでいるからである。俺の人生をあゆむことはほかには不可能なのである。こんな喜劇に耐えうる人間など俺以外にはいないのである。今まで行ったことのない道をゆったりと自転車をこいだ。

「花壇にゴミを捨てないで! 子供たちが泣いています」と書かれた看板が立っていた。看板には子供達が花壇に花を植える平和な光景の写真が貼ってある。つい舌打ちが飛び出る。これほど笑える夜だというのにきわめて不快な看板だ。俺の笑いを止めたこのバカげた場所には制裁を与えてやらねばならない。

俺はその花壇の中に牛丼をぶちまけ、その看板を蹴っ飛ばす。それでも誰も止めに来る様子はない。やっぱり、こんなバカげたことをする奴は偽善者じゃないか。うれしい確信だった。牛丼をぶちまけた時点で帰ろうかとも思ったが、話は変わった。俺は自転車で花壇の上に乗りあげ、何度も柔らかい土の上を行き来し可憐な花を蹂躙する。

「アハァハァハァハァハァハァ」

 ああ、こんなにも素晴らしい夜を過ごせるなんて最高の人生である。眠れない夜もこれなら悪くない。俺の人生は世界で一番美しい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?