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失業率について

景気の良し悪しを判断する指標の1つとして、「失業率」というものがある。我々は、「失業率」が高いと不景気で、「失業率」が低いと景気が良いと何となく考える傾向がある。

インフレと「失業率」にも相関関係はあるということになっており、すごく不景気でインフレも低いと「失業率」は総じて高く、好景気になりインフレ率も高くなると「失業率」は低下するとされる。

ただ、あんまりインフレ率が高くなって、物価が上昇したら困るので、インフレが過熱しない程度の「失業率」というのがあって、日本の場合は2.5%くらいとされており、それに対応するインフレ率はだいたい2.0%くらいだと言われている。インフレ・ターゲット理論なるものがあって、中央銀行のインフレ目標が2.0%くらいに設定されているのは、こうした理屈が背景にある。

今の日本の「完全失業率」は、23年5月で2.6%である。「完全失業率」とは、<労働力人口(15歳以上の働く意欲のある人)のうち、完全失業者(職がなく、求職活動をしている人)が占める割合>のことである。ちなみに他の主要国は、米国3.7%、英国3.8%、ドイツ2.9%、フランス7.0%、イタリア7.8%、オランダ3.5%、スウェーデン7.1%といった感じである。

最近、よく耳にする話であるが、「今後、AIが発達したら、人間の仕事は機械に奪われてしまう」とか、「そのうち、失業者が巷に溢れかえるようになる」といったことが言われる。真偽のほどはよくわからないが、中長期的に見れば、現在ならばホワイトカラー労働者がやっているようなデスクワークも含めて、機械に取って代わられそうな仕事はたくさんありそうである。

産業革命期においても似たような議論はあった。機械が労働者の仕事を奪うということで、19世紀の英国では機械の打ち壊し運動(ラッダイト運動?)が起きたと世界史の教科書にも書いてあった。結果としては、機械で代替可能な仕事もあれば、代替不能な仕事もあるので、産業革命によって失業者が増えるということにはならなかった。生産能力が飛躍的に増大したことで、それまでなかった新たな仕事も生まれただろうし、非人道的な過酷な労働から解放されたことで、労働災害が減ったり、労働条件が改善したりというメリットもあったと言われている。

したがって、いくらAIが発達しても、機械が代替できない仕事はあるのだろうし、人間は人間でやる仕事がゼロになるということはないだろうと思っているのだが、少々楽観的すぎるのだろうか。

ここから先は頭の体操であるが、仮にAIがどんどんと人間の仕事を奪ってしまい、人間がやる仕事が極端に減ってしまったら、どのような世界になるのだろうか。今であれば、高給取りのホワイトカラーがやっていたような仕事、投資銀行や経営コンサルタント、弁護士、医者のような仕事でも、かなりの部分を機械が下請けしてくれるようになれば、大半の人は用なしになる。たとえば従来は100人単位で人を雇っていたところ、1人か2人の超優秀な人だけいれば十分だとなれば、ほとんどの人は失業してしまう。

現在のように3%前後くらいの失業率であれば、失業者は少数派であり、人は職を失ったら、必死で職探しをするのだろうが、仮に失業率が50%とか、あるいはそれ以上になって、仕事をしていない人の方が世の中の圧倒的な多数派を占めるようになると、どういうことになるのだろうか。

企業というものは、ほんの少人数の経営陣が、AIのような機械にサポートされながら切り盛りすることになっていることだろう。今ならば、AmazonみたいなIT系企業でも、配送や物流といった業務は大勢のエッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちが比較的低賃金で担っているが、そういうものも自動倉庫、自動運転で賄えるようになると、人が介在する要素が本当になくなってしまう。エンジニアは引き続き必要だろうが、コードを書くだけの「IT土方」はいらない。結果として、どこの企業も労働分配率は極端に低くなるに違いない。

そうなると、労働というものに対する人々の考え方がまったく異なって来るのではないだろうか。生活保護なのか、ベーシックインカムなのか、呼称がどうなっているかはわからないが、社会福祉で最低限の生活費のようなものは賄われるので、無理やり職探しをしなくても構わないようになっていると考えられる。現在でも南欧とか北欧の失業率が総じて高めなのは、失業保険をもらってブラブラとすることに対する偏見が少なく、意に沿わない仕事をやるくらいならば、リスキリングとか能力開発に取り組みながら、じっくりと自分のやりたい仕事を探そうと考える人が多いからであろうが、世界全体がそれに近いような状態になっているような気がする。

高福祉であるためには、税率は今よりも高めにならざるを得ないが、失業者が多い以上、企業とか働いている一握りの人たちの負担が増すのは仕方がない。古代ギリシアやローマでは、生活のための労働は主として奴隷が担うものであり、自由人はあんまりあくせく働かなかったという。奴隷の代わりがAIだと思えば、失業率が高いのも決して悪いことばかりではないような気がする。

そうなると、労働とか仕事というものに対する価値観も変わってきそうである。生活の糧を得るためとかいう切羽詰まった感じはなくなり、自分がやりたいことをやる、趣味・道楽の延長線上で仕事をするというような考え方が主流になってくるかもしれない。ヒマな専業主婦や年金暮らしの老人がボランティア活動に精を出すのと同じようなものである。大して儲からなくても、社会的に意義のありそうな仕事とか、自己実現を果たせそうな仕事に取り組む人が増えてくるかもしれない。

あるいは、リベラルアーツと呼ばれるような学問領域は、そもそもは生活のために働く必要のない自由人の趣味・道楽みたいなものであったから、実利やカネ儲け抜きで学問が盛んになる可能性がある。江戸時代に和算と呼ばれる算術が盛んであった理由の1つは、趣味で算術研究をやる愛好家が多く存在したからだと言われている。人間は何もせずにブラブラしているだけの単調な生活には長くは耐えられないものなのだ。

いずれにせよ、経済を回していくためには、需要をつくり出す必要がある。貧富の差は今後ますます増大して、ものすごいおカネ持ちとその他大勢というような構図になるのは避けられないが、その他大勢におカネを還流させる仕組みがなければ、優秀な経営者がAIを使ってモノづくりをしたところで、誰もそれを買うことができない。企業とか経営者から税金として吸い上げたおカネを社会福祉として一般大衆に還流させるようにするのは必然であろう。古代ローマの「パンとサーカス」だって、あの時代の社会福祉のやり方であり、それをやらないと社会が安定化しなかったのだと考えれば納得がいく。

僕の寿命があと何年あるのか知らないが、30年後の未来にどのような仕事が生き残っていて、どのような仕事が廃れているかはある程度は予測がつく。

より定型的な業務から機械に取って代わられていき、複雑で不可解で定型化が難しいものはその中で代替困難なものとして最後まで残ることになる。それでも複雑で定型化しにくいと思われていたようなホワイトカラーの判断業務も徐々にAIが浸食しつつあることを考えれば、基本的に聖域というものは最終的には存在しないのだろう。だが、「東大ロボ」も自然言語を理解するのが苦手であったように、やはり人間がやった方が安心できる領域、人間の方が相応しい領域というものはあるに違いない。

人間を相手にする仕事、たとえばおカネ持ち相手の非定型的な接客サービスとか、高度な「おもてなし」のスキルが要求されるような仕事というのは、最後の最後まで残りそうである。もっとも楽屋裏部分でのIT化や効率化はどんどんと進む。しかしながら、高付加価値を求める人ほど、自分の相手をしてくれる存在は、いくら払ってでも、ロボットではなく人間であってもらいたいと考えるはずである。

逆に一般大衆に関しては、生きた人間の接遇を受ける機会が今後どんどんと減っていくことになるのだろう。

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