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漫画の「長編化問題」について

前の記事で、「シン・仮面ライダー」のことを書いた際に、昔の手塚治虫、石森(石ノ森)章太郎の昔の作品について少し回顧した。

かつて、大家とか巨匠と呼ばれるレベルの漫画家は、おしなべて多作家でもあった。手塚治虫が生涯に描いた漫画の作品数(タイトル数)は約700、約15万ページと言われている。石ノ森章太郎の方は、個人全集「石ノ森章太郎萬画大全集」が「1人の著者による最も多い漫画の出版の記録」としてギネス記録に認定されており、作品数(タイトル数)770、12万8,000ページに及ぶ。

彼ら2人ほどではないにせよ、ある時期までに活躍した他の人気漫画家たちも総じて多作家である。藤子不二雄(コンビ解消後は、藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、赤塚不二夫、横山光輝、白土三平、水木しげる、楳図かずお、さいとうたかを、ちばてつや等々、名前を挙げたこれらの漫画家は1930年代以前に生まれた有名どころを思いつくままリストアップしただけであるが(したがって、洩れている漫画家はたくさんあると思う)、いずれも代表作を挙げるのが困るくらいに数々の作品を量産している。

昔の漫画家と最近の漫画家を比べて不思議なのは、作品数(タイトル数)の違いである。時代が経つにつれて、アウトプットとしてのページ数はたぶん増えているのだろうが、各漫画家ごとのタイトル数は総じて減っているように思われることである。ただしデータを取って検証したわけではない。あくまで直感的な印象論である。もしこの辺のことで知見をお持ちの方がいたらご教示いただきたいと思う。

ページ数が増えるのは理解できる。アシスタントによる分業システムがより精緻化されたこと、デジタル技術の発達等の恩恵があるからである。手塚や石ノ森の時代にもアシスタント制度はあったが、今よりはまだ家内工業的な色合いが濃かったと思われる。原作者と漫画家による分業も今では当たり前である。デジタル技術に関しては、手塚や石ノ森の時代はほぼ無縁である。

一方で、タイトル数が増えていないのは、1つ1つの作品が長編化していることと無関係ではない。昨今の人気漫画はとにかく長編化する。「こちら葛飾区亀有公園前派出所」201巻(既に完結)、「ワンピース」105巻(23年3月現在)、「ゴルゴ13」208巻(23年4月現在)、「難波金融伝・ミナミの帝王」169巻(23年2月現在)、「クッキングパパ」164巻(23年1月現在)といったところが、上位ランキングの顔ぶれである。

僕は長年にわたり、「週刊モーニング」を愛読している。上記のランキングには登場しないが、「島耕作シリーズ」は、実は「隠れ」大長編漫画である。「課長」17巻、「部長」13巻、「ヤング」8巻、「取締役」8巻、「常務」6巻、「専務」5巻、「社長」16巻、「係長」4巻、「会長」13巻、「学生」9巻(就活編を含む)、「相談役」6巻、「社外取締役」1巻(22年10月現在)、以上を合計すると106巻となる(「社外取締役」はまだ連載中)。

同じ「週刊モーニング」に連載中の長期連載漫画だと、「宇宙兄弟」42巻(22年12月現在)、「GIANT KILLING」61巻(22年7月現在)は、現在も連載続行中である。「GIANT KILLING」など、07年から連載がスタートしたので、既に16年くらいが経過しているが、主人公である達海猛がETU監督に就任した最初のシーズンがまだ途中である。

なんで、このような現象(人気漫画の長期連載化)が起きているかという話だが、原因は明らかである。どこの漫画週刊誌も人気投票で成績が振るわない作品は早々に打ち切って、逆にヒット漫画は延々と連載を続行するからである。「週刊ジャンプ」が最初に始めたスタイルであるが、今ではどこの雑誌も同様のことをやっている。

出版社も商売であるし、出版不況と言われる中、どこの出版社も漫画やデジタルが稼ぎ頭になっている。出版業界全体として、漫画コンテンツのデジタル化、版権ビジネスも含めたコミック依存体質のような収益構造になってしまっている。早い話が、漫画で儲けたキャッシュで、その他の儲からない部門を食わせているのだ。そうなると、ヒット作にはできるだけ長く頑張って稼いでもらいたいと考えるのは当然のことであり、仮に漫画家がそろそろ作品を完結させたいと思っても、やめさせてもらえないといった現象が起こり得る。

各雑誌とも新連載の作品はコンスタントに投入されてはいる。しかしながら、漫画業界は多産多死であり、ヒットする作品はひと握り、金鉱を掘り当てるようなものである。そうなると売上が計算できるヒット作を簡単に手放すわけにはいかなくなる。人気漫画のコミックの重版なんて、まるで紙幣を印刷しているようなものだからである。米国の人気テレビドラマが、「シーズン〇」といった具合に、長年にわたり延々と放映され続けるのとよく似ている。

思えば、昔のヒット作はこんな具合ではなかった。「あしたのジョー」(原作/梶原一騎(高森朝雄名義)、作画/ちばてつや)は、僕の子ども時代の感覚では「大長編漫画」であったのだが、コミック全20巻で完結している。同じ時期の「巨人の星」(原作/梶原一騎、作画/川崎のぼる)も全19巻である。手塚の後期の代表作「ブラックジャック」が全25巻である。

もっとも、比較的、最近の漫画作品であっても、わりとあっさりと完結している作品もある。「鬼滅の刃」は全23巻で完結している。これなどは、ダラダラと続けようと思えば、続けられなくもなかったような気もするが、きわめて潔く完結している。昔、同じ「少年ジャンプ」連載作品の「ドラゴンボール」が、作者の鳥山明が連載を終了させたいと言っても、なかなか認めてもらえず、さんざん引き延ばしを図られたことを思えば、よく連載終了が認められたものだと思う。その「ドラゴンボール」も全42巻であるから、いま思えば、まだマシな部類であろう。他に「SLAM DUNK」全31巻、「進撃の巨人」全34巻といったあたりは、人気作品のわりには、まずまず正常な終わり方ができた事例と言えようか。

昔々の漫画作品は、月刊誌に連載されていたのが、週刊誌の連載に変わったことが、もしかしたら連載長期化と何か因果関係があるのかとも思ったのだが、「あしたのジョー」、「巨人の星」、「ブラックジャック」はいずれも週刊誌に連載された作品である。そうなると、漫画家と出版社とのパワーバランスというか、どちらが連載継続/終了の判断も含めたイニシアティブや発言権を持っているかという話になるのではないだろうか。言い換えれば、出版社側の「人気投票至上主義」的な価値観がどこまで優先されるかという話でもある。あるいは、漫画家が自己の「作家性」「芸術性」を出版社に対して主張することがどこまで許されるかに懸かっていると言えるのかもしれない。

出版社に発掘されたポッと出の新人みたいな漫画家は、当然、何の発言権も与えられないだろうから、出版社の言いなりになるか、干されるかのどちらかしかない。先ほどの「鬼滅の刃」の作者である吾峠呼世晴は、同作で世に出るまでは、ほとんど無名の存在だったはずであるから、同作があれだけヒットし注目されたからこそ、最終的に自身の意向をある程度は主張することを許されたのかもしれない。

漫画家を志す人はたぶん世の中にたくさんいる。それでも、昔と比べれば、デジタルも含めて作品発表のための媒体自体は増えているだろうから、単にデビューするだけならば、昔よりもチャンスはありそうである。しかしながら、それは消耗品のように使い捨てられる漫画家もそれだけ多くなるということも意味している。

「クールジャパン」と称して、お上とその予算に群がる人たちは、日本の漫画やアニメを海外への文化発信のネタにしようと企てているようであるが、漫画家やその卵といったクリエイティブな世界で生きている人たちにとって、それが自分たちにとって居心地の良い環境を約束してくれるかどうかとなると、また別の問題であろう。

むしろ、漫画のようなコンテンツを「商材」としてしか理解しない人たちによって、都合のいいように使われて、消費されるだけのような気がしてならない。

それが証拠に、大多数の漫画作品とその作者は、やめる/やめないの判断をする権限すら持たされておらず、ヒットしている限りは、延々と描き続けることを強いられているのが実情であり、その結果、多くの漫画作品の「長編化」なる現象が顕著になっているのではないだろうか。


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